仏頭山 吐 田 極楽寺
一和(いつわ)僧が18才の時、南都西塔院の増利僧都の弟子として仏門に入り
後に興福寺の座主に迎えられ、専ら修行修学の為静寂なる地を求めて居られました。
或る時、金剛山の東麓に、毎夜光を放つを遥かに望見せられ、奇異の思いの中に
その出所を探し求められました処、そこから仏頭(弥陀仏の頭)が発掘されました。
生身の仏様のようであったと申します。上人は不思議な事に驚き、これこそ有縁の
地と考へられ仏頭山と呼び発掘の仏頭を本尊として草庵を結び、法眼院と名付けら
れました。 時に天暦5年(西暦951)今を去る壱千余年前の事です。
上人は愈々浄業を修し、念仏の功を積み、屡々極楽の相を感見し、一条天皇の
正暦5年(西暦993)紫雲たなびく中に仏の来迎を受けてこの地に大往生を逐げ
られました。
このお寺が仏頭山法眼院極楽寺と云われるのは此のような縁起によるそうです。
三百年程後、建治元年(西暦一二七五年)浄土宗第三祖 記主禅師(きしゅぜんじ)の
門弟の林阿上人りんなしょうにんが当寺に入り、盛んに念仏の教えを弘通されました。
当時、葛木の城主 吐田五郎国資はんだごろうくによりは、深く上人に帰依し、信仏の
志を起して大檀那おおだんなとなり所領を寄進してその境内に五町八反、七堂伽藍
完備し、西塔東塔天に聳え一世の美観を呈しました。
門弟の林阿上人りんなしょうにんが当寺に入り、盛んに念仏の教えを弘通されました。
当時、葛木の城主 吐田五郎国資はんだごろうくによりは、深く上人に帰依し、信仏の
志を起して大檀那おおだんなとなり所領を寄進してその境内に五町八反、七堂伽藍
完備し、西塔東塔天に聳え一世の美観を呈しました。
それ以後、吐田氏の氏寺となり吐田極楽寺や吐田寺はんだでらなどと云われる様に
なり、この辺りの地名にもなっています。
なり、この辺りの地名にもなっています。
檀家さんが大勢いらっしゃるのでしょう、お墓が沢山並んでしました。
権力争いに巻き込まれたり大東亜戦争 に遭ったり、様々な変遷を過ごし
開基壱千年(昭和二十五年)を迎え、参道の工築・開山堂(兼納骨堂)の建立を
志し、続いて本堂鐘楼門の屋根替え、庫裡の増築・駐車場整備などを行い、
現在に至って いるそうです。
志し、続いて本堂鐘楼門の屋根替え、庫裡の増築・駐車場整備などを行い、
現在に至って いるそうです。