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続「スイス音楽留学記バーゼルの風」

天正大地震と長島

2019年03月03日 22時16分48秒 | ローカルネタ
島輪中図書館歴史講座「天正大地震と長島」に参加してきました。ちょっと道に迷ったので、3分ほど遅れて到着、受付の名簿には沢山の参加者の名前が。ほとんどの方が遅刻せずいらしてました。



会場には沢山の老男女の方がいっぱい。残念ながら「若」の方は見渡した感じではゼロでした。地震をテーマにした講座なので、この先そんなにない(失礼)方にも増して、もっと若い世代が来るべきだとは思うのですが、若い世代は日曜日は家庭サービスなんかで忙しいのかも。ま、おじいちゃん、おばあちゃんが講座を聴いてその話を息子の世代に伝えたらいいわけですから、参加者のかたよりはそんなに問題にならないのかもしれません。

天正大地震は天正13年=1586年におこった巨大地震で、会場のある桑名市長島町はもちろん近畿地方一帯を襲った巨大地震で、いくつの断層が連続的に動いた大地震の連鎖だとも言われています。


不勉強な私の疑問:

長島に関する記述は、当地のものも他地域におけるものもあるのに、桑名のものがないのはどうしてか?
桑名に行政機関があれば、必ず公式の文書は残っているはずだが、1586年には桑名には行政機関はなかったのか?
三重県の北勢地区で当時一番有力だったのは、長島の豪族、寺社勢力ということなのか?
天正大地震のときに伊勢湾断層は動かなかったのか?(地震学者飯田汲事先生の説では伊勢湾断層が動いたとある)
伊勢湾断層が動いたのなら桑名は津波の被害があったはず
天正地震後の今の桑名の旧市街域の被害状況は?
町屋川の流れを変えて桑名の町割をしたというのが定説?になっているが本当か?
地図で見ると、町屋川は河口近くで90度近く曲がりそのまま伊勢湾に入っているがこれだけの工事が当時の技術、資金力で可能だったのか?


私のファンタジー:

三重県の北勢地区は長島が有力な行政機関だった
それが天正大地震で壊滅状態になった
現在の桑名市旧市街域も壊滅状態
地震の影響で、土地が隆起
町屋川の流れが二手に分かれ、現桑名市旧市街域に流れる分が減った
もう一方の流れは今の町屋川の流れ
震災から15年後本田忠勝が桑名に入り桑名藩立藩、町割に着手
全国支配をかためつつあった徳川幕府の意向で北勢地区の拠点都市にする
大震災の復興事業もかねる
大震災後現桑名市旧市街域に広範囲に出現した湿地帯を活用
町屋川の流れを現流域のみに固定する土木工事
桑名の慶長の町割は、徳川の政治支配と震災復興の両方を兼ねていた

天正大地震は2011年の東日本大震災にも匹敵する規模だと言われている内陸地震です。もし伊勢湾断層も動いたとするなら、被害は海溝型と内陸型の両方を併せ持っていたかも知れません。桑名の町の形成のわずか15年ほど前に起こったこれだけの大地震が、桑名の町の形成に何も影響はなかったはずはありません。それどころかこの地震を軸に歴史を捉えていくことが必要なのではないでしょうか。残念ながら、現在の歴史の記述は、天正13年に大地震が起こり、慶長6年に本多忠勝が桑名藩を立てる、という流れが書いてあるに過ぎません。それどころか行政史と地震史は別々に書いてあるのが普通のようです。

ということで、勝手に妄想をしてみたのですが、この私の疑問やファンタジーにすぱっと答えてくれる学者さん誰かいないかなぁ。そうそうこの講座ですが、参加させていただき、沢山のことを教えて頂きましたが、益々疑問が膨らんだという感じでした。