さいきん健康寿命という言葉を耳にするようになった。寝たきりのままでただ生き長らえるのはめでたいことではなく、元気なままで長生きをするのがよいことだという発想からの用語だろう。長寿という言葉には「寿」が付いているくらいだから、めでたいことを意味する。長寿の上でのさらに健康長寿はこの上なくめでたい――と言いたいのだろうけれども、本当にそうか。
人は生まれる前は「無」である。絶対の「無」は本当に何にもないことだから、物質もエネルギーも、もちろん宇宙も存在しない。ところが、どういうわけか人間だけが生まれると「自我」をもつ。「自我」とは一口に言えば「私は他ならぬ私であって、私以外の何ものでもない」という確信である。
すべての物事に疑いをかけてかかって、どうしても最後に疑いきれずに残るのは「私は私である」ということである。これが「自我」または「生」ということの本体である。これは俗に「魂」とか「意識」と呼ばれている。
人間は死ぬと、生まれる以前、すなわち「無」に戻ると私は考えている。信仰心のある人が死後の「自我」を考えることを私は妨げているわけではない。いろんなことを考える人がいても、けっこうである。ただ、少なくとも私は死後は「無」になると考えている。再び物質もエネルギーも宇宙もなくなる。それらを認識する主体がなくなるのだから、当然の発想であろう。
生まれて「無」から「自我」が生じ、死んでそれがなくなる。それまでの間の人生である。だから、その間は楽しく生きたい。良い行いをしたい。ただ、それだけのことである。
とにかく「無」から「無」までの間に、一瞬だけ「自我」という奇跡が起こったのである。この奇跡の前では、心霊や霊界は奇跡でも何でもない。今、生きて「自我」があるという以上の奇跡があろうか。長くても一生、短くても一生。長寿という言葉あるなら「短寿」という言葉があってもよいほどである。人間は死によって必ず「無」になるので、一瞬でも「生」という奇跡が生じれば、長短は問題にはならないのではないか。
人は生まれる前は「無」である。絶対の「無」は本当に何にもないことだから、物質もエネルギーも、もちろん宇宙も存在しない。ところが、どういうわけか人間だけが生まれると「自我」をもつ。「自我」とは一口に言えば「私は他ならぬ私であって、私以外の何ものでもない」という確信である。
すべての物事に疑いをかけてかかって、どうしても最後に疑いきれずに残るのは「私は私である」ということである。これが「自我」または「生」ということの本体である。これは俗に「魂」とか「意識」と呼ばれている。
人間は死ぬと、生まれる以前、すなわち「無」に戻ると私は考えている。信仰心のある人が死後の「自我」を考えることを私は妨げているわけではない。いろんなことを考える人がいても、けっこうである。ただ、少なくとも私は死後は「無」になると考えている。再び物質もエネルギーも宇宙もなくなる。それらを認識する主体がなくなるのだから、当然の発想であろう。
生まれて「無」から「自我」が生じ、死んでそれがなくなる。それまでの間の人生である。だから、その間は楽しく生きたい。良い行いをしたい。ただ、それだけのことである。
とにかく「無」から「無」までの間に、一瞬だけ「自我」という奇跡が起こったのである。この奇跡の前では、心霊や霊界は奇跡でも何でもない。今、生きて「自我」があるという以上の奇跡があろうか。長くても一生、短くても一生。長寿という言葉あるなら「短寿」という言葉があってもよいほどである。人間は死によって必ず「無」になるので、一瞬でも「生」という奇跡が生じれば、長短は問題にはならないのではないか。