(長崎歴史文化博物館入口。)
(長崎奉行の居室。)
すでに
この欄で述べたように、私は秀吉がザビエルを受け入れながら、後にキリシタン禁止に至った理由が分かりません。そして、なぜ徳川幕府も反キリシタンを踏襲したのかが分かりません。(小学校の歴史ではキリスト教の「神の前ではみな平等」という教義が身分制度に反すると教わりましたが、絶対にそれだけでない私は思います。)
さらに、九州の外様大名がなぜキリシタンを厳しく弾圧して江戸幕府の歓心を買おうとしたのかが正確には分かりません。(キリシタンに同調的な大名も、自分自身がキリシタンの大名もいました。)
長崎奉行が最初は官位が低かったのがなぜなのかも謎です。キリスト教をもたらす外国船管理のためなら長崎奉行の地位は、最初から高くなくてはならないというのが私の考えです。
そのような諸問題が少しでも分かるかもしれないと思い、長崎歴史文化博物館をのぞきました。しかし、なにも明らかにならず満たされない思いで博物館を出ました。展示に一貫性がないのです。
ただ、島原の乱について天草四郎の「あ」の字も出てこなかったことには博物館の見識を感じました。16歳の天草四郎はたんにアイドルとして一揆に担ぎ出されたとしか思えないからです。(島原の乱は一揆かどうかも本当は怪しいです。大名の勢力争いの側面もあるからです。)
博物館では、長崎奉行が裁判を行う寸劇をやっていました。長崎奉行は遠山の金さんみたいなお裁きもやっていたのですね。同博物館は、当時お白洲が実際にあった場所にお白洲が復元されました。柱の位置も正確に再現されたそうです。
(長崎奉行の「お裁き」を面白おかしく演じる一座。背景はほんもののお白洲。普通の小石だったそうです。)
※今日、気にとまった短歌
ほほゑみは救ふだらうかこの国の夢はひとつもないと言ふ児を (大分県)佐藤良美