NHKの朝の連ドラ「ひよっこ」を、それなりに面白く見ていた。あの時代はまさに「三丁目の夕日」の時代で、東京生まれ東京育ちの私には思い出深いものがあった。
当時、私は小学生か中学生で、主人公みね子のように茨城から上京した者、栃木群馬から来た若者たちが東京にはたくさんいた。別に集団就職というのがあって、中卒の子たちが「金の卵」とおだてらあれ、列車で大挙して上野駅に着いた。(だが、その後東京に居ついた者はほとんどいない)。
東京でさえ、まだモータリゼーションは始まっていなかった。小学校で自家用車をもっていたのは華僑の康(こう)君ちだけだった。康君ちは豪壮な西洋館で、一度遊びに行ったが、室内に大理石の彫刻と噴水があるのにはタマげた。ナツメの珍しい菓子を出してくれた。康君ち以来あれほどの豪邸を見たことがない。
まだ「寝食分離」が叫ばれていた。寝室と食事の部屋を別にしようという運動である。拙宅もまだ分離されていなかった。布団をたたんでからちゃぶ台を出して食事をした。玉子焼き目玉焼きがごちそうだった。
みね子が東京で就職した洋食屋があるが、あのような洋食屋は確かにあった。渋谷の道玄坂だけで4,5軒はあったと思う。ハヤシライスを食べて「こんなにうまいものが世の中にはあるんだ」と思い知った。あと、マカロニグラタンやエビフライが私の好物だった。
公害問題はまだなく、墨田川も汚染されていなかったから、私は両国の花火大会を楽しんだ。両国の花火大会がなくなるのはもっと後のことだ。東京では別に多摩川の花火大会があった。この花火は私の目黒の生家の二階の屋根から遠花火として見ることができた。
みね子の実家のような農業の仕方を「3ちゃん農業」と言った。じいちゃん、ばあちゃん、母ちゃん3人だけで農業をやり、父ちゃんは都市に出稼ぎに出るというスタイルだ。朝ドラでは父ちゃんが東京で行方不明になってしまうのだが、そういえば当時「蒸発」という流行語ができ、都市で行方不明になる者をそう呼んだ。
(父ちゃん役の沢村一樹さん。yononakanews より引用)。
こうして朝ドラ「ひよっこ」は私なりに面白かったのだ。ところが東京で発見された父ちゃんが記憶喪失症(全生活史健忘)になっていたのにはがっかりした。全生活史健忘を安直に出してくると、どんなドラマだって出来てしまう。その上、全生活史健忘の描き方が雑である。
職業柄、精神科病院で全生活史健忘を複数例みたことがある。全症例に共通して言えることは「成熟した大人ではない」ということだ。人格に幼稚な面が多々あり、都合の悪いことを強く「忘れる」。だから、「そんなに忘れるんだったら、ついでに日本語も忘れてくれ」と言いたくなるようなじれったさを覚える。(したがって、全生活史健忘は成熟した大人はかからないはずだと私は考える。日本語を忘れないなんて矛盾でしょう?)。
だから私は「ひよっこ」を見るのをやめてしまったが、昔のことをなんとなく思い出す。将棋の永世名人・中原誠は私の生家の裏の将棋の先生宅に小学生時代から内弟子にはいっていた。よい思い出がない私の小学校で中原は一学年上。
10年ほど前にその小学校のPTAから寄付の依頼があったので義理で2万円出した。そしたら、2万円はOBでは2位なのだそうだ。1位は中原さん。金額は知らぬが・・。みんなケチなんだなと思ったものだ。
あと同級生の女子、岩倉さん。親父さんが明治の元勲岩倉具視の孫で、5百円札の肖像と心なしか似ていたことを思い出したりしていた。
そこに軽々に記憶喪失症を持ち出してきたのが「ひよっこ」の、大いなる失敗ということができるだろう。残念である。
※私の俳句(夏)
夏椅子のたたまれ閉店する茶店