院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

体罰(3)(ばかりでない面も)

2017-08-14 22:05:28 | 教育
 毎日体罰で私はほんとうに「不登校」になったかもしれない。私を救ったのはクラブ活動だった。図書部とか理科部とかエンゲイ部などがあった。えっ?エンゲイ部?小学生が落語や漫才をやるの?と不思議に思った。園芸部と理解するまで結構時間がかかった。

 理科が好きだった私は理科部に入った。校庭の百葉箱の中身を毎日記録するのだ。百葉箱の中身に何が入っているかご存じだろうか?中にはその日の最高気温、最低気温、湿度を測る特殊な寒暖計がはいっている。(百葉箱のきわには雨量計があり、それも記録した)。

 最高気温は水銀体温計と同じ原理で、最高値から下がらないようにできている。最低気温はアルコール柱のてっぺんに1センチくらいの小さな棒が入っており、その棒は下には行くが上には行かない物質だった。原理は未だに知らない。

 湿度計は寒暖計2本からできており、片方だけ湿ったガーゼが巻いてある。ガーゼから気化熱が奪われるので、常にそちらのほうが気温が低い。普通の寒暖計とガーゼの寒暖計の温度差は、湿度が低いほど差が大きい。その差と気温から(一覧表によって)湿度を割り出すのである。大人って頭いいなぁと思った。


(マリモ。ウィキペディアより引用)。

 クラブ活動とは別に教室には常に生物がいた。(小3の女教師を除いて)。まず阿寒湖のマリモ。なぜすでに特別天然記念物だったマリモが教室にあったのか分からない。いずれにせよ、あれ以来ほんもののマリモを見たことがない。


(オタマジャクシの成長。ウィキペディアより引用)。

 次がオタマジャクシ。オタマジャクシがカエルになるとき、まず後ろ足から生えてくることを知った。そんなこと実地で学ばなくては(本で学んでも)仕方がない。よい体験だった。


(トカゲのしっぽのみ。ウィキペディアより引用)。

 トカゲを飼っていたこともあった。自然界でトカゲがしっぽを自切したのを見たことはあったが、その後はどうなるかは見たことがなかった。知識としてはまた生えてくると分かっていた。だが実際に生えてきたしっぽは、もとのしっぽと全然色が違うのだ。そんなことは本に書いてなかった。

 東京中心部のことだから、すでに水田はなかった。そのためか、教師は校庭に1X3メートルほどの水田をコンクリートで作った。こうして都会の子の私は稲が実るのを実感できた。殴られても、それらの観察は私を学校に行かせる魅力があった。

 小3のときだけ女教師だった。この人は殴ったり立たせたりしない代わりにスジ金入りの意地悪のタテマエ主義者だった。現在に至るまでその女教師は私の反面教師である。それについては、またいつか稿を改めて述べよう。

 ※私の俳句(夏)
    車庫までは歩く必要百日紅(さるすべり)


 

これまでで一番おいしかったカレーライス

2017-08-14 17:28:31 | 食べ物

金谷ホテルベーカリーのHPより引用)。

 私は戦後のベビーブーム(団塊の世代)最後の人間である。高度成長の波に乗った経験がある。今日より明日がもっと豊かになるといった時代だった。それでも初期は今よりずっと貧しく、洋食屋が林立したとはいえ、外食はまだ贅沢な行動だった。

 そのため、カレーライスはご馳走だった。外から遊んで帰るとき、自宅の方向からカレーの香りがすると、ヤッターと思った。(五目寿司もご馳走だったが、それはまた別の機会に)。

 カレールウというのはまだなく、小麦粉をフライパンで少し焦がして、そこにカレー粉を混ぜる方法で調理された。フライパンで炒めるからおいしい香りが近所中にただよった。

 カレーうどんは当時からあった。だが、出汁の具合が難しく、うどん専門店でないと作れなかった。京都ではカレーに片栗粉を混ぜてトロ味をつけるらしい。東京では片栗粉をあまり使わなかった。

 高度成長が続くと、いよいよカレー専門店が出店されるようになった。カレー専門店は家庭の味では不十分と考えたらしく、インドカレーとかスープカレーとか、さまざまな個性を押し出してきた。神田神保町の古本街にいったとき、スープカレーというのを食べてみた。

 これが大しておいしくないのだ。スープだからタレがシャビシャビしていて、ご飯をすぐに中まで濡らしてしまう。それでいて、玉ねぎや鶏肉が丸ごと入っているので、それらをまた別に食べなくてはならない。

 インドカレーの店にも入ってみた。ここのカレーは想像したのとはまったく別物だった。カレーはインドが本場とは聞いていたが、本場すぎるのか、日本のカレーと味も色も違う。しかも、同時に複数種のカレーが出される。中には緑色のカレーとかもある。予想と違うものを出されると逆に白けることもあるのだ。

 これまで食べたカレーライスの中で一番おいしく何度でも食べたいと感じたのは、金谷ホテルのビーフカレーである。ライスがサフランライスという黄色がかったもので、これが焦げ茶色のタレと絶妙なハーモニーを奏でる。

 日光の金谷ホテルには一度泊ったことがあるが、そこで食べたのではなく、金谷ホテルベーカリーというパンのチェーン店でだ。明治時代のレシピそのままというのも、すごい。金谷ホテル本体と同じカレーをベーカリーが供しているかのかは確証がないが・・。

 金谷ホテルベーカリーのカレーライスこそ王道だし、自信をもってお薦めできる。しかも、ベーカリーは日光だけではなく全国にある。一度お試しいただきたい。


 ※私の俳句(夏)
    クリームに桃の添へあるパフェーかな    

体罰(2)(イジメを含む)

2017-08-14 05:24:26 | 教育

(眠気に対するビンタ実験。ガジェット通信より引用)。

 「足を開け!胸を張れ!」という掛け声は、これからビンタを始めるという合図の掛け声だったらしいです。このようにして日本の旧軍隊ではビンタが日常的に行われていたようです。

 シベリヤ帰りの亡父はビンタの経験があまりありません。それは父が士官だったからです。シベリヤでは日本軍での指揮系統が温存されました。温存したほうが統率がとれるとロシア軍は考えたようです。士官は拳銃の携行を許されていました。でも食い物は同じ。薄いおかゆのような配給ではとても足りず、被抑留者はネズミさえ獲って食べたそうです。

 もっとも旧軍隊でビンタは「いじめ」の手段としても行われたようです。いかにも、ありそうなことです。

 上官「便所掃除はちゃんとできたか?」
 部下「できました!」
 上官「自信あるか?」
 部下「あります!」
 上官「じゃあ、便器を舐めてみろ!」

 このようにしてイジメは行われました。なにも体罰だけに限ったことではないようです。こうしたことは姿を変えて現代でも行われました。急に仲間外れにされるのです。私もされました。(小学生のころ)。でも、(問題児だった私は)そういう連中をすぐに殴ってしまい、それで即チャラになりました。

 私の娘は小3で同じ経験をしました。仲間の女の子たちに突然無視されたのです。娘は意味がわからず目を白黒させていました。私は言ってやりました。

 「そういう子はマトモな大人になれないよ。見ていてごらん」

 娘は自分に非がないと分かって安心したようです。そして意地悪をしない子に育ちました。

 話は元に戻りますが、私が中学生になると教師による暴力はなくなりました。これで毎日苦労しなくてすむとホッとしたものです。中学では勉強さえちゃんとやっていればいいのです。教師はみな紳士でした。

 ただ例外が一例。あだなが「青パン」という体育教師です。同じクラスのH君は「青パン」のムシの居所具合で、ささいなことでボカボカに殴られました。クラスの全員が思いました。

 「青パンって頭悪そ~」

 私の中学の生徒は大部分が温和で意地悪をしない子たちでした。しかも、ものすごく勉強ができる。みんなとは現在でも仲良くしてもらっています。


 ※今日の俳句(夏)
    八月を灯す火のあり忘るるな  (亜紀)