院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

今年はゴキブリの外れ年

2007-08-13 10:24:25 | Weblog
 ゴキブリには大発生する年とそうでない年があるようだ。

 それがどういうサイクルで起こるのか分からないけれども、今年はゴキブリが少ないとは思われないだろうか?

 少ない年にはゴキブリホイホイの宣伝も少ない。今年はゴキブリホイホイのCMをまだ見ていない。

 ゴキブリホイホイの会社は、今年はゴキブリが少ないと、どうやって予測しているのだろうか?

 TVのCMを出すには、CM作成の時間も入れれば、かなり前から用意しなくてはならないだろう。そのためにはゴキブリ発生の予測が必要である。

 ゴキブリホイホイの会社は、なにか特別な調査研究でもしているのだろうか?

大学教授の収入

2007-08-12 07:28:06 | Weblog
 私の出身高校は、聞けば誰でも「えーっ」というほど有名な超一流校である。

 同級生に頭脳明晰な奴が多かった。頭脳が明晰だと出世する確率が高いのだろうか、現在、社会のトップで活躍している者が少なくない。
 
 一流企業の社長や重役、有名大学の教授、一流弁護士などである。(医者は、意外に少ない。医者には超一流の頭脳が必要ないからだろう)。

 大学教授になった連中には、高校時代の私にとって、「これは、とてもかなわん」というほどの頭脳の持ち主が多い。

 それなのに大学教授は給料が安い。年収1000万円を少し超えるくらいである。ちなみに勤務医の年収は1500万円前後である(いずれも税込み)。

 教授が1000万円を超えるなら恩の字ではないかという見方もあるだろう。でも、彼らより少し頭脳が下の連中が、一流企業の重役になっている。彼らの年収は税込み5000万円から6000万円である。

 すばらしい頭脳をもちながら大学教授になった連中が可哀そうに思えてくる。

 もっとも重役は清濁あわせ呑まなくてはならない。法律違反すれすれのこともしなくてはならない。

 その点、大学教授は自分が好きな研究だけをやっていればよい。世の中の雑事から逃れられる。

 大学教授は好きな研究だけをやっていればよいのだから、半ば趣味みたいなものである。収入が安くても、好きなことを何のケガレもなくやれるのだから、仕方ないだろうと言ったら、教授になった連中がイヤな顔をした。

個々人が省エネをしても効果はない

2007-08-11 16:04:20 | Weblog
 あなたが省エネに協力しようと、自宅の電気のスイッチをこまめに切ったとしよう。

 もっと協力しようとして、夏はエアコンを使わずにウチワだけで耐え、冬は暖房を使わずにドテラをかぶって我慢したとしよう。

 そうすると、電気ガス代が2万円くらい浮くはずだ。

 その2万円をどうするかが問題である。2万円でセーターを買ったとする。そうすると、工場でセーターを作るのにすでにエネルギーが消費されているから、省エネに協力したことにならない。

 だったら、2万円を預金に回すとする。銀行はその2万円を産業界に融資するだろう。産業界はその2万円で生産を行うから、これも省エネにならない。

 要するに、個々人が省エネにはげんで浮いたお金は使えないのである。タンス預金にしておくしか仕方がない。しかも、そのタンス預金は省エネのためには、永遠に使えないタンス預金である。

 ざっと以上のようなことが、先だって紹介した『環境問題はなぜウソがまかりとおるのか』(洋泉社)に書いてあって、膝を叩いた次第。日本全体の生産性を下げなければ省エネにはならないということである。

性も「秘すれば花」か?

2007-08-10 13:24:16 | Weblog
 性描写をなぜ青少年から遠ざけるのかという疑問を、昨日書いた。青少年だけでなく、一般に性というものは隠蔽されがちである。これはなぜだろうか?

 ひとつ思いつくのは、性があまりに開放的になると、国民全体の性欲が落ちてしまうのではないかという危惧を、多くの人が無意識的に感じているのではないかということである。

 「秘すれば花」と言うではないか。秘されないものには興味も魅力も感じなくなってしまう。

 イスラム圏では、女性が全身を服で覆って、まったく肌を見せない部族がある。こういう部族の男性は、女性がチラとでも肌を見せると、ものすごくセクシーに感じるのではないか?

 わが国では「小股が切れ上がったいい女」という言葉がある。小股とは足首のことらしい。

 昔の日本女性は顔以外は他人に見せなかった。だから、和服の裾から足首(小股)がちょっと見えただけで、とてもセクシーだったに違いない。

 私の頭では、性を隠蔽する理由は、性欲低下説のほかには思い当たらない。隠蔽する別の必然性を知っている人がいたら教えてほしい。

性描写、暴力描写は青少年に悪影響を与えるか?

2007-08-09 11:47:12 | Weblog
 性描写や暴力描写は青少年に悪影響を与えるという論調があるが、本当か?

 実際、18禁の映画やマンガやインターネットのサイトがある。悪影響を与えるという「世論」に応えてのことだろう。

 性描写に関して言えば、それらは性犯罪を助長するという意見が大勢である。でも、証拠はあるのだろうか?

 よく考えてみれば、バーチャルな世界で性的に満たされれば、かえって性犯罪を実行に移さなくなるという説も、悪影響があるという説と同じ権利で主張しうるのではないか?

 性犯罪を助長するか、性犯罪を抑止するかは、データを取ってみないと分からないはずである。つまり、昨日述べたように、性描写への接触を禁じた青少年のグループと、禁じない青少年のグループに分けて、性犯罪について差が出るかどうかを追跡調査しなければ確かなことは言えない。

 世界には、子供の前で親が性交を隠さない民族もある。当然ながら、戦争をやっている国では、殺人が子供の目の前で行われている。

 先進国が性描写、暴力描写を青少年から隠すのは、よくよく考えると理由がいまひとつ分からないのである。

集団検診は有害無益

2007-08-08 10:20:19 | Weblog
 遅ればせながら近藤誠著『成人病の真実』(文春文庫)を読んだ。7,8年前に同氏の『患者よがんと戦うな』を読んで以来である。

 『患者よ・・』もそうだったが、この本も極めて説得力の強い本だった。医療のプロである私が読んでもそう思う。

 著者は成人病検診や集団検診など、およそ症状のない人に行う検診は、すべて無意味かかえって有害であると言い切っている。

 著者は無根拠にそう主張しているわけではない。逆に非常に厳密な根拠に基づいている。

 著者がより所とするのは、いわゆるEBMである。EBMとは Evidence Based Medicine の略で、「証拠に基づく医療」という意味である。

 EBMは予断や思い込みを最大限排除する。例えば手術後、抗菌剤を投与するかどうか、感染防止のために「念のために」やっておきましょう態度を認めない。

 手術後、抗菌剤を投与するグループとそうでないグループを比較して、どちらに術後の感染症が多いかどうか、きちんと証拠を出してからでないと、その医療行為をエビデンス(証拠)がないとして認めないのがEBMの態度である。

 この例では、大規模な試験によって、抗菌剤の投与は術前に一回やればよいという結果が得られた。だから「念のために」というのは無駄ないし有害ということになる。

 EBMが大規模試験の方法でもっとも重きを置くのが「くじ引き試験」(RCT)である。素人さんには、これがなぜ最強の研究方法であるのかが分かりにくく、近藤氏も説明に苦労している。

 RCTは、予断や思い込みを徹底的に排除した疫学的研究方法である。海外では、検診を行ったグループと放置したグループを何年も追跡調査したRTC研究がいくつかあり、いずれの結果も死亡率に影響はなかった。

 つまり、無症状の人の検診でなんらかの異常を見つけることは、本人に不安を植え付けるだけであり、実用的な有用性は何もないということである。ということはお金と時間の無駄ということになり、近藤氏もそう言っている。

 同感である。でも、私のクリニックではスタッフの定期健診を行っている。なぜかと言えば、法律がそれを薦めているからであり、またスタッフから希望があるからである。

 理屈だけでは人間の行動は統御できないという、これは一例である。

書画骨董の値段

2007-08-07 13:16:14 | Weblog
 書画骨董がなぜあんなに高価なのか分からない。掛け軸一本に1千万円とかの値段がつく。

 自由主義経済だから、その値段でも買いたいという人がいるから、そういう値段がつくのだろう。ああいうものを買う人はどんなに金持ちなのだろうか?

 銀座の一等地に高い値段がつくのは分かる。その場所にテナントなどを建てれば、それなりの利潤が生まれるからである。

 書画骨董は利潤を生むのだろうか?ほんとうに「好き」というだけで1千万円出せるものだろうか?

 もしかすると、書画骨董は利潤を生むのかもしれない。そうでないと、あの値段はみみっちい私には説明がつかない。

 どういう利潤か?私には相続税対策くらいしか思いつかない。書画骨董の値段があいまいな点を利用して、税務署員をケムに巻くのではなかろうか?

台風の左巻き

2007-08-06 14:04:04 | Weblog
 台風を左巻きの渦と見る見方はいつごろから発生したのだろうか?

 戦前にすでに、こういう見方があったのだろうか?なぜそんなことに興味を持つかというと、左巻きというのは、宇宙から地球を見た視点だからである。

 地上から台風を見上げれば右巻きである。ロケットや人工衛星のない時代にも宇宙的な視点はあったのだろうか?

 あったとすれば、いつごろからだろうか?明治時代には、そういう視点はすでにあったのだろうか?妙に気になるので、いつか機会があったら気象庁にでも聞いてみることにしよう。

音に対する寛容

2007-08-05 08:23:44 | Weblog
 子供のころ繁華街に住んでいた私は、閑静な住宅地に住む祖父母宅に行くと、その静かなことに驚いた。何も音がないのである。静か過ぎて耳鳴りがするほどだった。

 昔は音が少なかった。車も多くはないし、人通りも少ない。

 もっと昔、戦前は音に対して今よりずっと不寛容だった。なんと通りを歩く下駄の音がうるさいと苦情が出た。隣の風鈴がうるさいという話もあったらしい。

 現代は、音に対して極めて寛容である。昔より圧倒的に車が多いが、車の騒音に文句を言わない。隣家のオーディオも我慢してしまう。

 マンションやアパートで階上の世帯のトイレを流す音が聞こえるだろう。それに対しても苦情を言わない。自分の家のトイレの音も近隣に届いているから、お互い様と思っているのだろうか?

 匂いに対しては不寛容なくせに、音に対してはずいぶん寛容になってしまった現代人である。こういう面でも流行があるようだ。

 「タバコの匂いがするタクシーなんて絶対イヤ」と声高に叫んだ中年女は、現在、タバコ排斥運動が盛んだから、言えたのだろう。昔だったら同じ女が「タバコの匂いって憂いがあって好き」なぞと言ったに違いない。

匂いに対する不寛容

2007-08-04 13:34:25 | Weblog
 名古屋にひきつづき東京のタクシーも禁煙になるそうだ。

 TVのインタビューで中年女性が「タバコの匂いのするタクシーなんて絶対イヤ」と大声で言っていた。

 私はタクシーをよく使う。私は香水の残り香がイヤだ。運転手のポマードの匂いもイヤ。ワキガの人が乗ったあともイヤである。でも、文句を言わずに乗っている。

 日本人はなぜ匂いに対してこうも不寛容になってしまったのだろうか?消臭剤ファブリーズなんていう製品がよく売れている。

 昔は、魚屋は魚の匂いがした。ペンキ屋はペンキの、牧童は家畜の匂いがした。それでも誰も文句を言わなかった。

 それどころか、水洗便所が普及する前は、どこの家もかすかに便所の匂いがしていた。

 匂いに対する不寛容は最近の特徴である。それに引き換え、音には寛容である。昔は音に対しては今よりずっと不寛容だった。それについては稿を改めて述べる。

阿久悠さん逝く

2007-08-03 12:17:23 | Weblog
 作詞家の阿久悠さんが死去した。

 彼の歌を聴いてきた世代としては、感慨深いものがある。抜群のヒットメーカーだった。

 彼をすごい人だと最初に思ったのは、TV番組「スター誕生」の審査員をやっていたときの発言である。「あなたには花がないから、芸能界なぞに入らず、普通のお嫁さんになりなさい」といった具合だった。

 多才な人で、小説も手がけた。「瀬戸内少年野球団」は面白かった。でも、さすがに直木賞は無理だった。

 歌が次々とヒットして、阿久悠さんは莫大な印税を稼いだに違いない。カラオケで未だに歌われることがあるから、何もしなくてもお金が入ってきたことだろう。

 だが、どんなに稼いでも死んだら持っては行けないな、と妙な感想をいだいた次第。

水蒸気とCO2

2007-08-02 11:14:25 | Weblog
 水蒸気は地球温暖化ガスである。雲は水蒸気が水滴となった集まりである。

 そのおかげで、地表はエベレスト山頂のような寒冷状態にならずにすんでいる。地球温暖化ガスは、地表の温度を一定の高温に保つために必要不可欠なガスである。

 私は酸素や窒素も地球温暖化ガスだと思っている。水蒸気や酸素や窒素が、地表を温暖化させ、寒冷状態から地表を守っている。

 そこで例のCO2 である。水蒸気に比べて、地球温暖化にCO2 はどれだけ寄与しているのだろうか?マスコミからは、このあたりの情報はいっさい出てこない。

 想像するに、水蒸気に比べてCO2 が地球温暖化に果たす役割は微々たるものだろう。それなのに、ハイブリッド車とか京都議定書とか、大騒ぎし過ぎているのではないか?

 もっと科学的な論拠を教えて欲しい。それを教えないで、やれCO2 を削減すべきだ、CO2 を排出すると将来えらいことになると脅されても、にわかには信じがたい。

 いつぞや述べたが、火山活動などで自然発生するCO2 と、人間が発生させるCO2 とは、どのくらいの差があるのか、そこを教えて欲しい。そんなデータも示さずにCO2 削減と言い張っても、説得力はない。

小田実氏に対する違和感

2007-08-01 08:15:46 | Weblog
 小田実氏が死去した。ご冥福をお祈りする。

 小田実の名前が世に出たのは、1961年「何でも見てやろう」という本だった。当時、私は中学生だった。少年のころからベストセラーは読まないというツムジ曲がりの私は、このベストセラーを読んでいない。

 本の内容は、一日1ドルで世界中を放浪した旅行記であるらしい。当時は海外旅行は自由化されておらず、私たちはTVの「兼高かおる世界の旅」くらいで海外の巷を見るしかなかった。

 その時代の海外放浪記が「何でも見てやろう」である。海外旅行と言うよりも、ほとんど冒険である。

 それはそれで、青年の挑戦魂が感じられてよかったのだが、私が怪訝に思ったのは小田氏が「ベトナムに平和を市民連合」(通称・ベ平連)に関与してきたことである。

 そのころは学生運動が盛んで、私も大学生になっていた。ただ、学生運動や「ベ平連」の活動に疑問を感じていた。要するに安全なところから平和を唱えているだけではないか。そんなことは誰でもできる。

 なぜ、世界放浪青年が平和活動なのだろう。小田氏のそこが私には分からなかった。「ベ平連」という週刊誌まで創刊された。私は読まなかった。いずれ廃刊になると思っていたら、すぐに廃刊になった。

 その時の私の小田氏に対する評価は、ファッションに敏感な人だなということである。自己愛が強い人である。

 死者へのたむけの言葉としてはいささか不謹慎かもしれないが、「一時代が去ったというよりも、うるさいのが去った」という感じである。小田氏は少なくとも私には何の影響も与えなかった。