えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

・鐘を聞く耳遠くまで

2024年01月01日 | コラム
「世間が間違ってるのは、大晦日、紅白歌合戦が終わって12時、鐘がボーンと鳴るとともに行くのが初詣だと思っている人が多いんですけど、あれは初詣とは言いません。初日の出が上がるまでは除夜詣というんですね。」―-「日本の扉 浅草 2023年秋冬号」内「浅草寺子屋」より

 厳密には初日の出が登る前の深夜のお参りはまだ「新年」に入っていないらしい。そんなことを伝えるメディアはとくに無く、今年も神社の拝殿の前には長蛇の列が出来ていた。昔父が「不況の時は増えるんだよ、神頼み」と神社の外にまで続く列を眺めて言った。その歳の除夜詣の帰りは一時を回っていたことを覚えている。今年は『孤独のグルメ』が終わって十一時半に家を出たのでまだ一〇組ほどしか並んでいなかったと思いきや、鐘の音が鳴り響くに連れて列はどんどん伸びていき、待っている間の一〇分であっという間に列は神社の正門まで届いていた。開かれた拝殿は元の建物を保全するため鉄筋の建物を覆い被せるように建てており、奥まった本殿の手前で氏子と思われる人々がストーブで足を温めながら儀式を見守っている。ぼんやり見上げた空は薄曇りで月には暈がかかっていたが、雨は上がって空気は薄ら湿気を滲ませながら澄んでいた。ダウンジャケットで留められるほどの寒さだった。素手を出していてもかじかむ気配もなく、財布からお賽銭を出しても小銭は冷え切っておらず金属の冷たさそのままだった。鈴が鳴り始める。新年を迎える参拝が始まった。列が少しずつ動き三本の鈴が次々と揺らされる。

 私の前にいた人はよく響く柏手を打って体を曲げ、背中から熱が静かに登るような祈りを捧げていた。祈らざるを得ないことは存在する。年々神頼みが増えていく気がする。それは人生のままならぬことが社会に生きる実感として襲いかかるためで、長く生きれば生きるほど神様にお縋りしなければ心が保たないのかもしれない。人と人とのつながりで心を保とうと訴える商品が増える一方、こうして神頼みが続くことはまだ祖先から連綿と続く人間の「いたらなさ」を私たちが自覚せずとも体に覚えているせいなのかもしれない。

 二〇二四年、これを書いていた只中に石川県で震度七の地震が発生いたしました。被害の規模はまだ詳細に報告されておりませんが、石川県と近隣の県の皆様の被害が少しでも少なく済むよう願っています。神頼みのことを書きながら新年早々に神を憾むような出来事が起こりましたことに衝撃を受けて降りますが、人の善意が続く限りは苦境に陥っても人の手という形でだれかが助けてくれるものであると信じるのは甘い考えでしょうか。
 それでも甘さを求めなければならない弱さを抱えて付き合いながら、本年も書き綴る所存です。何卒よろしくお願い申し上げます。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ・どこか遠くに顔合わせ | トップ | :『PERFECT DAY』 ヴィム・... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

コラム」カテゴリの最新記事