えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

喋る馬の風景

2010年06月17日 | 読書
問 う な !

:喋る馬 バーナード・マラマッド 柴田元幸訳 スイッチ・パブリッシング

馬は外に向けて問いかけること、誰かに問いを受け止めてもらうことが禁じられていた。
自分に問いかけるしかなかった馬は、喋る馬だという以外のもの、喋っている馬として
喋っている何かをうっかりと見つけてしまう。深く自分にもぐった問いかけを続けて、
どんな槍が降ってきていても問いかけをやめず、痛くてもつらくても悲しくても、
馬は自分に向かって問いかけを投げ続けた。それは本質を確認するための問いだった。
唖の動物使いは答えないが応えている。馬の問いかけは受け入れられないが、確実な
答えに向かって進むよう動物使いの一挙一動が馬の問いかけを先へと導いている。

マラマッドは、誰かがことばを発すること、ということをとても細心に扱っている。
馬のことば、狂人のことば、言語をなくした人のことば、ふつうの家のことば、
どれもひと言ひと言が、よく描きこまれた風景画のように、ことばを放つ顔の首の
曲がり具合までがはまっている。
それでいて話をことばのためだけにつなぐことをしない。だからことばの組み合わせの
妙に気持ちを昂ぶらせていると話の筋に置き去りにされてしまう。
むしろ、ことばを最後まで言わせまい、ことばの深いところまで行かないけじめを話で
しっかりとつけている。どの話も(この本は短編集だ)、必ず最後にひとつの落しどころが
与えられている。作者による読者へのちょっとしたサービスなのかもしれない。

たとえばカレル・チャペックの「受難像」連作のように、登場人物のことば自体が
哲学的な構想と思考にあふれていて、互いのことばは見事な話し合いを演じていたり、
あるいは一人の思考を丁寧にていねいに書きつくすことで問いかけを与えているものは
ある種眺めていて安心するものがある。話にほうっておかれてもことばに埋もれて
安心ができるからだ。詳細に考えれば考えるほど、話の筋までかっちりとした理論で
解き明かすことができそうになり、もはや読む楽しみと言うよりは思索の一環に
過ぎなくなってしまう。

「喋る馬」はそうした問いかけだらけの本のはずなのだが、終わりはいつも整然と
片付けられている。ただしその分、すっきりと片付いた話の中に残るわだかまりは
溶かし忘れたインスタントのコーンスープのように濃い。


それでも黙っていた馬はみんなの前で大きく口を開いた。鞭打たれてもまた口を開いた。

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