(1)名張毒ぶどう酒事件。容疑者の死刑が確定してから40年が経過する。その間、取調
べ中は一旦事件への関与を自白(confession)した確定犯は、その後一貫して無罪を主張し
て、再三再四の再審請求、再審開始決定後の取り消し、その特別抗告が繰り返されてきた。
今回、最高裁は、再審請求の審議不十分とし、高裁に審議をやり直すよう差し戻した。
この間、弁護側による、確定犯が当時所持していてぶどう酒に投薬したとされる農薬の再
検証(化学反応)結果が、当時の検察側の鑑定結果とは異なるとする判定結果の提出が、
差し戻しの大きな要因になったようだ。
最高裁の差し戻し条件として、「農薬の再鑑定を事件当時と近い条件で行う」よう命じて
いる。
(2)農薬は、その後販売停止になっており、また当時のぶどう酒も関係者によるとすでに
手に入ることは不可能とのことだ。
最高裁の裁定も、証拠物件の分析、証拠能力に再調査の必要があるとした、しかし今と
なっては行くも、戻るも八方塞がりの難題を押し付けた。
事件が発生してから半世紀も経過して、証拠物件の鑑定も現実的ではない。当時の検察
側による農薬の化学反応分析と、その後の弁護側による科学的分析結果の反応の差異を
どう斟酌(しんしゃく)するのか、使われた農薬の再鑑定、確定犯の所持、不所持の判断、
入手経路と、事件は闇の中だ。
一般論として、あきらかな犯罪構成要件が科学的物証として確認されなければ、「疑わし
きは再審理」として、再審請求が認められる公算は大きい。
しかし、たとえばDNA鑑定の精度の違いによる誤認定のような決定的な錯誤がなければ、
今となっては事件は闇の中のままだ。
(3)半世紀前の事件の中身については知る由もないが、「問題」は、死刑が確定して40年
も経過して、その間一貫して確定犯は無罪を主張して、再三再審請求が出されてきたとはい
え、その再審請求も一旦は取り消されている。
誤解を恐れずに言うなら、40年の長年にわたって「どうして」司法(法務大臣)は決定した
「判決(decision)」を「放置」してきたのか、だ。
死刑が確定して40年もの間、当の人間、関係者に多大な恐怖と精神的苦痛を与え続けた
のは、正義とコンプライアンス(compliance)の象徴の司法当局のとるべきスタンス、目的で
はない。
再審請求の審理で、判決への「確固」たる「証拠能力」があれば、特別抗告まで争われる
こともない。
誤解を恐れずに言うなら、「判決」の40年の放置は、判決後の司法当局に当時の捜査、
立証能力に対する確信が持てない、証左ではないのか、だ。
(4)儒教精神のかっての日本社会は、究極の場面で人間は「うそ」をつかない思想、理念
(theory)が根底にあって、刑法(criminal law)も「自白(confession)主義」が法規範の基本
にあった。
国家権威(検挙至上)主義と自白主義がリンクしての当時の、事件の無理な結論付けによ
る冤罪事件が生まれた。
今日の法律(刑法)は改正して「物証(material evidence)主義」で、事実性、客観性、透明
性を高く構成している。
「人が人を裁くことのむずかしさ」、そして「人が人を殺(あや)める」危うさが混在する、人間
社会の不合理性が読み解けない。
べ中は一旦事件への関与を自白(confession)した確定犯は、その後一貫して無罪を主張し
て、再三再四の再審請求、再審開始決定後の取り消し、その特別抗告が繰り返されてきた。
今回、最高裁は、再審請求の審議不十分とし、高裁に審議をやり直すよう差し戻した。
この間、弁護側による、確定犯が当時所持していてぶどう酒に投薬したとされる農薬の再
検証(化学反応)結果が、当時の検察側の鑑定結果とは異なるとする判定結果の提出が、
差し戻しの大きな要因になったようだ。
最高裁の差し戻し条件として、「農薬の再鑑定を事件当時と近い条件で行う」よう命じて
いる。
(2)農薬は、その後販売停止になっており、また当時のぶどう酒も関係者によるとすでに
手に入ることは不可能とのことだ。
最高裁の裁定も、証拠物件の分析、証拠能力に再調査の必要があるとした、しかし今と
なっては行くも、戻るも八方塞がりの難題を押し付けた。
事件が発生してから半世紀も経過して、証拠物件の鑑定も現実的ではない。当時の検察
側による農薬の化学反応分析と、その後の弁護側による科学的分析結果の反応の差異を
どう斟酌(しんしゃく)するのか、使われた農薬の再鑑定、確定犯の所持、不所持の判断、
入手経路と、事件は闇の中だ。
一般論として、あきらかな犯罪構成要件が科学的物証として確認されなければ、「疑わし
きは再審理」として、再審請求が認められる公算は大きい。
しかし、たとえばDNA鑑定の精度の違いによる誤認定のような決定的な錯誤がなければ、
今となっては事件は闇の中のままだ。
(3)半世紀前の事件の中身については知る由もないが、「問題」は、死刑が確定して40年
も経過して、その間一貫して確定犯は無罪を主張して、再三再審請求が出されてきたとはい
え、その再審請求も一旦は取り消されている。
誤解を恐れずに言うなら、40年の長年にわたって「どうして」司法(法務大臣)は決定した
「判決(decision)」を「放置」してきたのか、だ。
死刑が確定して40年もの間、当の人間、関係者に多大な恐怖と精神的苦痛を与え続けた
のは、正義とコンプライアンス(compliance)の象徴の司法当局のとるべきスタンス、目的で
はない。
再審請求の審理で、判決への「確固」たる「証拠能力」があれば、特別抗告まで争われる
こともない。
誤解を恐れずに言うなら、「判決」の40年の放置は、判決後の司法当局に当時の捜査、
立証能力に対する確信が持てない、証左ではないのか、だ。
(4)儒教精神のかっての日本社会は、究極の場面で人間は「うそ」をつかない思想、理念
(theory)が根底にあって、刑法(criminal law)も「自白(confession)主義」が法規範の基本
にあった。
国家権威(検挙至上)主義と自白主義がリンクしての当時の、事件の無理な結論付けによ
る冤罪事件が生まれた。
今日の法律(刑法)は改正して「物証(material evidence)主義」で、事実性、客観性、透明
性を高く構成している。
「人が人を裁くことのむずかしさ」、そして「人が人を殺(あや)める」危うさが混在する、人間
社会の不合理性が読み解けない。