(1)東日本大震災被災地の陸前高田の大津波に倒された松の木を京都五山の野焼き送り火で使用しようとした計画が、結果として同市民の反対もあって中止になった。
被災地を励まそうという震災復興の自治体、民間レベルでの善意協力計画が、放射性物質の拡散に疑念を抱く市民の反対で中止になった。
そして再び福島製造花火の遠く離れた地域での花火大会使用計画が、同じように市民の反対で中止となることが起きた。
善意の取り違い、かけ違い、行き違いで、結果として善意が損なわれた。震災に福島原発事故の相乗影響で、毎日メディアには農産物へのセシウム基準値超過による出荷停止の記事が載る。関東地域の排水処分場からも基準値を超えるセシウムが検出されている社会現象だ。
福島原発事故では、当初原子炉格納容器の圧力、水量上昇対応で大量の放射性物質が海に放出されて批判をあびた。現在も来年1月末の第1段階レベルの事故収束に向けての原発事故建屋のカバーリング、格納容器の冷温安定作業が続き、放射性物質の漏えい、拡散、封じ込め工程実施中だ。
原発事故では、まず第1段階として放射性物質の漏えい、拡散防止、エリア内封じ込め対策は安全対策の重要な工程だ。
(2)この究極(ultimate)の対策に万全を期して(と期待しているが)集中的に対応している重要な現在時に、仮にその影響度はないと思われても(また科学的な実証が当地で行われたとしても)余程のことがない限り、あえて影響力を拡大、拡散するかのような行為、行動はとらないのが、今はとるべき前向きな善意というものだ。
風評被害という言葉が先行して、安全確認の被災地の生産物品に理由、根拠のない被害が及んでいるという話を聞く。原発事故が起きた周辺エリア及び大気中に放出され拡散する放射性物質(離れた場所でのホットスポット現象もある)の現状からは、エリアにかかわらずそれだけで消費者には理由、根拠は存在すること、それが原発事故の影響力の甚大さと解釈することも否定できないのが現実論だ。
もちろん現実論であって、科学的に安全が実証されたもの(生産物品)を選別する自由な消費者の判断をまったく否定するものでもない。
(3)問題は「両論」とも、理由、根拠があって「存在」するものであり、一方だけが否定される現実ではないということだ。
そこで冒頭の事例では、あえて可能性として原発事故影響の理由、根拠はある松の木を、遠く京都五山にその影響力を拡散させる形で同行事(送り火)に使用させる一挙の無理、判断をしたのかだ。
気持ちは分からない訳でもないが、被災地からの安全性のメッセージの強調、実証に無理強い、結果を急いだ冷静な判断を欠いた被害者意識の油断、行動がなかったのかだ。
それでは被災地感情は持たないなら、ここはまず被災地、地元での安全性の実証、実行の積み重ね、努力、発信が求められていた。
一種の油断、結果優先の構図が、こういう前例があるにもかかわらず18日に福島製造花火を愛知県内での花火大会で使用する計画が市民の反対でまたまた中止となったことにあらわれた。
反対した市民の不条理を責める前に、この事例では被災地の思慮、思考にも問題があることを知るべきだ。
被災地を励まそうという震災復興の自治体、民間レベルでの善意協力計画が、放射性物質の拡散に疑念を抱く市民の反対で中止になった。
そして再び福島製造花火の遠く離れた地域での花火大会使用計画が、同じように市民の反対で中止となることが起きた。
善意の取り違い、かけ違い、行き違いで、結果として善意が損なわれた。震災に福島原発事故の相乗影響で、毎日メディアには農産物へのセシウム基準値超過による出荷停止の記事が載る。関東地域の排水処分場からも基準値を超えるセシウムが検出されている社会現象だ。
福島原発事故では、当初原子炉格納容器の圧力、水量上昇対応で大量の放射性物質が海に放出されて批判をあびた。現在も来年1月末の第1段階レベルの事故収束に向けての原発事故建屋のカバーリング、格納容器の冷温安定作業が続き、放射性物質の漏えい、拡散、封じ込め工程実施中だ。
原発事故では、まず第1段階として放射性物質の漏えい、拡散防止、エリア内封じ込め対策は安全対策の重要な工程だ。
(2)この究極(ultimate)の対策に万全を期して(と期待しているが)集中的に対応している重要な現在時に、仮にその影響度はないと思われても(また科学的な実証が当地で行われたとしても)余程のことがない限り、あえて影響力を拡大、拡散するかのような行為、行動はとらないのが、今はとるべき前向きな善意というものだ。
風評被害という言葉が先行して、安全確認の被災地の生産物品に理由、根拠のない被害が及んでいるという話を聞く。原発事故が起きた周辺エリア及び大気中に放出され拡散する放射性物質(離れた場所でのホットスポット現象もある)の現状からは、エリアにかかわらずそれだけで消費者には理由、根拠は存在すること、それが原発事故の影響力の甚大さと解釈することも否定できないのが現実論だ。
もちろん現実論であって、科学的に安全が実証されたもの(生産物品)を選別する自由な消費者の判断をまったく否定するものでもない。
(3)問題は「両論」とも、理由、根拠があって「存在」するものであり、一方だけが否定される現実ではないということだ。
そこで冒頭の事例では、あえて可能性として原発事故影響の理由、根拠はある松の木を、遠く京都五山にその影響力を拡散させる形で同行事(送り火)に使用させる一挙の無理、判断をしたのかだ。
気持ちは分からない訳でもないが、被災地からの安全性のメッセージの強調、実証に無理強い、結果を急いだ冷静な判断を欠いた被害者意識の油断、行動がなかったのかだ。
それでは被災地感情は持たないなら、ここはまず被災地、地元での安全性の実証、実行の積み重ね、努力、発信が求められていた。
一種の油断、結果優先の構図が、こういう前例があるにもかかわらず18日に福島製造花火を愛知県内での花火大会で使用する計画が市民の反対でまたまた中止となったことにあらわれた。
反対した市民の不条理を責める前に、この事例では被災地の思慮、思考にも問題があることを知るべきだ。