いのしし くん。

政治、経済から音楽全般の評論
ultimate one in the cos-mos

報道の度量。 magnanimity of media

2014-12-29 20:21:41 | 日記
 (1)近年のメディアは随分と度量(magnanimity)が見えなくなったと痛感する。批評力、精神性も低下した。
 特定秘密保護法では表現の自由、国民の知る権利保障のために連日のキャンペーンを繰り広げていたが、多彩なゲストコメンテーターを総動員しての反対キャンペーンで批判の数を頼りにした情報圧力にみえて、パラドックス(paradox)としてメディアとして本来の自主的な深い分析、比較、批評が伝わってこないものとなっていた。何か自らの立場、利益を守るためのキャンペーンにしか映らない、国民的議論にしていない、結び付かない感慨がある。

 (2)特定秘密保護法は国会審議、それも連立政権が数を頼りの強行採決で決めてしまうものだけに、この段階で国民、メディアが出来うることは法案成立後に政府の情報隠し横暴、強制、圧力行政を監視して、ことあるごとに問題提起をして、時には司法判断を求めて国民の権利、利益、自由を守る国民的議論、運動に広げていく努力、責務があるだけだ。

 法案成立前に多彩なゲストコメンテーターの意見を紹介して、特定の数の力で法案に反対する記事には度量が欠けて見えた。

 (3)政権与党自民党は、今回の衆院選で報道各社に公平、中立、公正な選挙報道を促す(要請する)文書を配布した。安倍首相はこれまで一部報道機関には報道姿勢の偏向ぶりを問題にして批判をおこなってきた。

 どうしても政権与党には厳しい報道姿勢に対して不満を公然と主張して、権力介入を図ってきたものだ。報道機関への文書配布に自民党幹部は放送法(遵守)にもとづいた「当然」のことを言ったまでだと言うが、わざわざ言うまでもない「当然」のことをあえて言うことが政治的圧力になることは自然の理だ。

 (4)国民の審判を受ける選挙報道はもちろん公平、中立、公正が求められるが、意図的でない限りは完全に公平、中立を保つことなど不可能で、公平、中立の基準もむずかしい。時間なのか、内容なのか、人物なのか番組(ニュース)構成時間の枠もあり、報道機関も堂々と自主判断であらかじめ基準を示し努力することを説明すべきだ。

 報道関係者は自民党の文書配布により「制作が完全に萎縮した」(報道)と述べて、因果関係は必ずしもわからないが今回の衆院選の報道時間は前回に比べて40%減った(同)といわれて、前出の萎縮発言を見ると関係がなかったとは言えない状況だ。

 (5)問題は報道機関がこの自民党からの要請文書を受け取ったことをどこも公(ニュース)にしなかったことだ。

 売られた「ケンカ」は堂々と受けて立つのがメディアの使命ではないのか。
 ジャーナリストの池上彰さんが朝日新聞の自身のコラムで朝日新聞の慰安婦問題の記事取り消しで謝罪すべきだと書いたコラム内容を朝日新聞が掲載しなかったことに抗議してコラム掲載中止を申し出て、結局朝日新聞が池上さんの同コラム記事を後日になって掲載することになったが、日本を代表するひとつの報道機関がジャーナリストに報道の自由、使命、度量を「教えられる」というところがメディアの度量凋落を表している。

 (6)特に今回の衆院選は就任早々の女性2閣僚の同時引責辞任に始まり年末の予算編成を控えての安倍政権の解散総選挙であり、政権与党に手厳しいメディアの対応は避けられないものだった。
 自民党にとってはそれだけで報道の公平、中立、公正を欠くものだったともいえる。数の危ない横暴だ。
 

 

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