(1)最近、司法判決で目につくのが証拠が正当な手続きで得られなかったり、捜査手法に問題があると判断されて、裁判審理にかかわらずにその以前の問題として被告が無罪になるケースだ。
警察、検察の捜査能力、資質の低下を示すものではあるが、ひとりの人間の自由や身分が法律で拘束、制限されるという人間の権利関係にとって基本的で重要な問題で公平、公正性を欠くというのはあってはならないことだ。
(2)疑わしきは罰せずの法理論はそのための格言でもある。最高検による調査では、検察審査会が2013~15年に強制起訴相当(検察による不起訴不当、起訴相当)とした212事件について、「18%」にあたる38件が再捜査後に一転起訴(報道)されていたことがわかった。
この事例では重要証拠の見落とし、容疑者を取り調べていなかった、捜査にもとづかずに供述の信用性を認めなかったなどがあげられて、冒頭の事件でっち上げないしは稚拙な証拠認定とは対極にある、こちらは捜査不作為による非事件化の問題だった。
(3)ひとりの人間の事件責任性が問われるだけでも本人、社会にとっては大変な大きな問題であるのに、検察による不起訴処分のうちの38件(強制起訴相当の18%)もが事件性が見過ごされてきて検察審査会の強制起訴相当のあとの再捜査後に起訴されていたことは、非常に重い多い数例結果だ。
法治国家の根幹にかかわる人間の自由、身分、搾取、不正の見過ごしであり、社会正義のパラダイム(paradigm)、公平、公正基準に反する社会信頼性が揺らぐ問題だ。
(4)司法に対する国民参加としては高度な法知識、経験が求められる裁判員裁判(近年、裁判員裁判の判決が最高裁により覆る判決が目立つ)よりは、司法チェック機関としての検察審査会の方がふさわしいと書いてきたが、それを実証するデータ検証(verification)だ。
検察審査会の判断については、専門機関としての検察が裁判で証拠維持ができないなどとして不起訴処分にしたものを再び強制起訴することは被疑者に過度の責任負担を強いるとの批判もあるようだが、むしろ疑われた事件責任について裁判のなかで決着をつけることが本人の名誉回復ないしは事件責任のとり方である。
(5)事件責任性が見過ごされる不利益よりはよほど法治社会の理論にかなったものであることが、前出の最高検の「18%」データが実証している。
警察、検察の不起訴処分の事例が重要証拠の見落とし、取り調べていなかったなどとは論外だが、近代政治、社会は権利関係が複雑化してきており、必ずしも当該者の責任能力に結びつかない社会性、事件性も見られる今日的特性、問題がある。
東日本大震災での福島第一原発事故では、巨大地震による大津波を原発事業者の東電の歴代社長、会長が知り得ずに適切な安全対応をとれなかったのかが責任争点となって、必ずしも証拠能力だけで判断できない社会問題の責任性も問われている。
(6)「ひとり」の人間の自由、身分、責任を拘束、制限する司法判断は非常に重く大きいもの、責任があるが、国民の「不特定多数」が重大被害を受けた原因としてその事業者の最高責任者の誰もが責任を問われない、責任を取らない社会パラダイムも不条理(unreasonableness)ではある。
警察、検察の捜査能力、資質の低下を示すものではあるが、ひとりの人間の自由や身分が法律で拘束、制限されるという人間の権利関係にとって基本的で重要な問題で公平、公正性を欠くというのはあってはならないことだ。
(2)疑わしきは罰せずの法理論はそのための格言でもある。最高検による調査では、検察審査会が2013~15年に強制起訴相当(検察による不起訴不当、起訴相当)とした212事件について、「18%」にあたる38件が再捜査後に一転起訴(報道)されていたことがわかった。
この事例では重要証拠の見落とし、容疑者を取り調べていなかった、捜査にもとづかずに供述の信用性を認めなかったなどがあげられて、冒頭の事件でっち上げないしは稚拙な証拠認定とは対極にある、こちらは捜査不作為による非事件化の問題だった。
(3)ひとりの人間の事件責任性が問われるだけでも本人、社会にとっては大変な大きな問題であるのに、検察による不起訴処分のうちの38件(強制起訴相当の18%)もが事件性が見過ごされてきて検察審査会の強制起訴相当のあとの再捜査後に起訴されていたことは、非常に重い多い数例結果だ。
法治国家の根幹にかかわる人間の自由、身分、搾取、不正の見過ごしであり、社会正義のパラダイム(paradigm)、公平、公正基準に反する社会信頼性が揺らぐ問題だ。
(4)司法に対する国民参加としては高度な法知識、経験が求められる裁判員裁判(近年、裁判員裁判の判決が最高裁により覆る判決が目立つ)よりは、司法チェック機関としての検察審査会の方がふさわしいと書いてきたが、それを実証するデータ検証(verification)だ。
検察審査会の判断については、専門機関としての検察が裁判で証拠維持ができないなどとして不起訴処分にしたものを再び強制起訴することは被疑者に過度の責任負担を強いるとの批判もあるようだが、むしろ疑われた事件責任について裁判のなかで決着をつけることが本人の名誉回復ないしは事件責任のとり方である。
(5)事件責任性が見過ごされる不利益よりはよほど法治社会の理論にかなったものであることが、前出の最高検の「18%」データが実証している。
警察、検察の不起訴処分の事例が重要証拠の見落とし、取り調べていなかったなどとは論外だが、近代政治、社会は権利関係が複雑化してきており、必ずしも当該者の責任能力に結びつかない社会性、事件性も見られる今日的特性、問題がある。
東日本大震災での福島第一原発事故では、巨大地震による大津波を原発事業者の東電の歴代社長、会長が知り得ずに適切な安全対応をとれなかったのかが責任争点となって、必ずしも証拠能力だけで判断できない社会問題の責任性も問われている。
(6)「ひとり」の人間の自由、身分、責任を拘束、制限する司法判断は非常に重く大きいもの、責任があるが、国民の「不特定多数」が重大被害を受けた原因としてその事業者の最高責任者の誰もが責任を問われない、責任を取らない社会パラダイムも不条理(unreasonableness)ではある。