(1)不服、不満、中傷は現象(phenomenon)否定でまだしも「撤回」で済むけれども、侮辱やべっ視は人格(character)否定で「撤回」では済まない。東京五輪組織委員会森会長の発言が「女性べっ視」として「批判の嵐」(報道)となっている。
報道されている評議員会での発言をみると、「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかります」これは女性べっ視というよりは不服、不満、中傷の部類だ。
(2)そのトレンドで話が続き、「女性を数で増やしていく場合は、発言の時間をある程度規制を促しておかないとなかなか終わらないと困ると言っておられた。誰が言ったかは言わないけれど、そんなこともある。」(報道)
これは民主主義、自由主義国家、社会で保障された「言論の自由」に反する人権問題であり、日本では、五輪組織委員会会長としては言ってはならない言葉で、別の委員が言ったと紹介してのものだが「そんなこともある」と森会長自身も肯定している。
(3)言論の規制発言は一発退場ものではあるが、別の委員が言った言葉の紹介としてここまでで終われば評議員会全体の問題として批判された。次に同組織委の女性委員に触れて「(競技団体出身、国際的に大きな場所を踏んだ女性委員は)みんなわきまえておられる方々ばかりです。お話もきちっと的を射ており、我々は役立っている」(報道)と続き、同組織委の女性委員はまるで評議に全面協力でむずかしい話を一切しない賛成者(イエスウーマン)だといわんばかりで、これは女性べっ視、軽視、侮辱発言で撤回では済まない。
(4)報道は「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかります」発言をとらえて強調して女性べっ視と批判しているが、その後の言論規制発言の上、話の背景には女性委員が次々と「みんな話される」裏には男性委員はものわかりが良く、議事進行に協力的だという男女隔てない人間べっ視、軽視がみえて、今回の発言では女性べっ視だけが注目、強調されているが、日本社会の持つ、改善が進まない男性優位社会に対する社会の自己否定が背景に強くあることを感じる。
(5)そういう象徴としての森会長の独権力、問題発言だった。首相時代に日本は天皇を中心とした神の国と発言したことなどをみれば、五輪組織委員会会長としてふさわしかったのかは考えもので、問題発言は今更感はあり、国、社会全体の責任の問題でもある。
報道されている評議員会での発言をみると、「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかります」これは女性べっ視というよりは不服、不満、中傷の部類だ。
(2)そのトレンドで話が続き、「女性を数で増やしていく場合は、発言の時間をある程度規制を促しておかないとなかなか終わらないと困ると言っておられた。誰が言ったかは言わないけれど、そんなこともある。」(報道)
これは民主主義、自由主義国家、社会で保障された「言論の自由」に反する人権問題であり、日本では、五輪組織委員会会長としては言ってはならない言葉で、別の委員が言ったと紹介してのものだが「そんなこともある」と森会長自身も肯定している。
(3)言論の規制発言は一発退場ものではあるが、別の委員が言った言葉の紹介としてここまでで終われば評議員会全体の問題として批判された。次に同組織委の女性委員に触れて「(競技団体出身、国際的に大きな場所を踏んだ女性委員は)みんなわきまえておられる方々ばかりです。お話もきちっと的を射ており、我々は役立っている」(報道)と続き、同組織委の女性委員はまるで評議に全面協力でむずかしい話を一切しない賛成者(イエスウーマン)だといわんばかりで、これは女性べっ視、軽視、侮辱発言で撤回では済まない。
(4)報道は「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかります」発言をとらえて強調して女性べっ視と批判しているが、その後の言論規制発言の上、話の背景には女性委員が次々と「みんな話される」裏には男性委員はものわかりが良く、議事進行に協力的だという男女隔てない人間べっ視、軽視がみえて、今回の発言では女性べっ視だけが注目、強調されているが、日本社会の持つ、改善が進まない男性優位社会に対する社会の自己否定が背景に強くあることを感じる。
(5)そういう象徴としての森会長の独権力、問題発言だった。首相時代に日本は天皇を中心とした神の国と発言したことなどをみれば、五輪組織委員会会長としてふさわしかったのかは考えもので、問題発言は今更感はあり、国、社会全体の責任の問題でもある。