正直に書くね、
ぽつお番長さんに喧嘩を売るわけじゃないですが、映画というエンターテインメント作品としては、つまらなかった。尊厳死へゆっくり時が流れるロードムービーだったから。
でもね、尊厳死を扱ったドラマ作品としては、とても良かった。感想を書くのにたくさんの言葉や作品が降りてきたから!
私にとって本当につまらない作品とは、感想を書く言葉すら降りてこないくらい、書くことがない作品。
怒りでも書くことがあればブログネタになるが、書く内容がないことほどつまらないを象徴していることはない。
その点、この作品は、書きたいこと山の如し!
ということで、泣ける映画を観たい!と思って観たら、思いの外、自分なら…、自分なら…、と泣くどころかめちゃくちゃ自己対峙しまくっていました。そういう意味では、考えさせられる良い映画!
見終えたあと、たくさんの作品がフラッシュバックされた。映画作品だけでなく舞台作品もね。
先ず、フラッシュバックされた作品は、
「イングリッシュ・ペイシェント」
ミヒャエル・ハネケの「愛・アムール」
浦井氏と杏ちゃんの二人芝居の「星ノ数ホド」
そして、宝塚の私の運命の作品「恋人たちの肖像」…。
ぶっちゃけ、この映画は、「星ノ数ホド」の同性愛者ver.と思ったほど設定がよく似ている。どちらも星と尊厳死がキーワードになってるから。
ただ主人公の二人が同性カップルなだけで、普通の男女関係と至ってなんら変わりはしない。
同性愛者だから身内から差別されているわけじゃないし。むしろ、普通に接している。同性愛は、ここではそれほど重要なテーマにはなってない。
それぞれの悩みや葛藤は同性愛とは関係ない。誰にでも起こりうる人間同士の葛藤に過ぎない。
ここで重要になってくるのは、
もし自分が認知症と診断され、これから記憶が徐々に失くなっていき、愛する人の顔も名前も分からなくなり、このまま一緒に居たら相手に迷惑をかけるかもしれない、国家的に尊厳死が認められているなら、自分は尊厳死を選ぶスタンリー・トゥッチ派か?
反対に、
愛する人が、尊厳死を望んでいる。そんな相手の考えを尊重せず、生きて欲しいと望むコリン・ファース派か?
どちらの視点で観るかで、その人の価値観が見えてくる、考えさせられる作品だと思いました。
設定は、ほんと「星ノ数ホド」と同じ。ただ映画では主人公二人の出会いが描かれていないだけ。舞台は、尊厳死が実行されたのかは不明だが、映画ではおそらく実行されたと推察される。
ここでワタクシの持論を書かせていただくと、
ぶっちゃけ私は、基本コリン・ファース派です。
相手が死にたいと言うなら、『さっさと認知症になれ!記憶も失くしてしまえ!その代わりちゃんと最期までケツ拭いたるから!』と怒鳴る。相手が死にたいことに対して、決して悲しまない。生かすためにあらゆる言葉を投げかける。決して尊厳死なんて認めない。
かといって、スタンリー・トゥッチの気持ちも分からないでない。だって愛する人を自分のせいで苦しめたくない気持ちは分かる。尊厳死を選ぶのは愛するが故なのも分かる。
ただ、
私がスタンリーなら、尊厳死が認められているならさっさと死ぬ。別れを惜しまない!
尊厳死実行までの残り僅かで思い出作りなんかしない。出来ない。自分のことを愛してくれていると分かっていて、思い出作りなんて残された相手の気持ちを思ったら尊厳死以上の残酷さを与えてしまう。
そりゃ、尊厳死ええで!認めたる!大歓迎や!と思っているなら話は別ですが、コリンは、そうじゃないからね。
もし私がスタンリー派だったら、とことん相手に嫌われるように仕向ける。「恋人たちの肖像」のネッシーさんのようにね。相手から、『お前なんか死んでしまえ!』と言わせるくらい嫌われるよう仕向ける。それから死ぬ。尊厳死が認められているならね。相手には、未練を断ち切って未来を生きてもらいたいやん。決して、゛愛してる゛なんて言葉をカセットに録音して残さへんわ、私ならね。
っていうか、尊厳死を選ぶなら付き合うなよ!結婚するなよ!と言いたい。
認知症で尊厳死は、認めたらダメだと思う。
認知症になることは決して悲しいことだとは思わない。だってもう自分じゃないんだから。
スタンリーのように、なまじ確かな記憶が残っている方が苦しいと思う。色々考えてしまうから。相手に迷惑がられて捨てられたら…。ケツ拭くと言っておいて施設に入れるんじゃ…とか考えると気が狂うと思う。ただの相手でなく、愛する相手ならなおさら。
実際問題として、完全に記憶を失くし認知症になってしまったら、世話する方は本当に大変だと思う。「愛・アムール」の旦那さんのようにね。奥さんを殺める気持ちも分かる。
ってなると、「イングリッシュ・ペイシェント」のように、愛する人を先に失い、しかも自分のせいで。自分も死ぬ覚悟でいたのに、自分だけ大火傷をして生き残ってしまったとなると、あの尊厳死はアリだと思うんですよ。もう十分生き抜いたし、早くあの世で恋人に再会して欲しいやん。あー、今思い出すだけでも泣けてくる…。
ここで、全ての伏線を回収させてもらいました。
私の結論は、
イングリッシュ・ペイシェントは、あれは尊厳死だと言えるけど、認知症で尊厳死は、自殺と同じ。
認知症で尊厳死はないわ!尊厳死なんて言葉を使ってはダメだと思う。
認知症になってでも、迷惑をたくさんたくさんかけてでも、生きろ!生き抜け!
と言いたい。「フェイクスピア」のように。
ぶっちゃけワタクシ、孤独死覚悟で生きているし、そうじゃないと独りで生きていけない。
そもそも、よく考えてみて下さいよ。世の中、完全に天涯孤独な人の方が圧倒的に少ないと思うんですよ。この私ですら。
皆、血縁でなくても、誰かがそばに、近くに、はたまた遠くにも、必ず居てくれると思うんですよ。その人たちが、早よ死ね!なんて思ってると思いますか?そんな人が近くに居られますか?一緒に働けますか?ね、天涯孤独な人って少ないでしょ?
生きていて欲しいと願う人が1人でもいるなら生きるべきだと思います。
だから、悪女(悪魔とは書きません)になってでも、邪魔になっても、迷惑がられても生き抜くべきだと私は思う。
スーパーノヴァのように、しっかり寿命を全うして爆発したらいいと思う。
おっ、タイトルも回収したぞ!藁
と、たくさん言葉が降りてきた作品でした。
だから、ぽつお番長さん、良い映画を紹介して頂きありがとうございます!