全てのものが、終わりを迎える。
会社は倒産する。
お気に入りの店は移転する。
人は集団から卒業する。
関係は離散する。
物は壊れる。
身内は死んでゆく。
蓄えるべきものは、お金より、孤独に耐える力だ。
都合の良いところで、苦しまずに、
自分が死んでくれるとは限らない。
「G線上」のバイオリン教室だって、
先生も生徒も辞めていく。
自分もいつか、今の仕事を辞める日が来るだろう。
「ザ・ノンフィクション」で、
「ぼけますから、よろしくお願いします」を見た時、
ボケたお母さんが、布団にくるまって、
「死にたい。」と言っていた気持ちが、よく分かる。
死にたくはないが、何もできない事が辛いのだ。
介護ヘルパーが来ると、
「気忙しくなる」、「居場所が無くなる」、「死にたい」、
お母さんが言ってる事は、もっともだ。
それより、知らないヘルパーが、
かん高い声で挨拶して、
すごい勢いでアプローチして来る方が、うっとうしい。
年上のお母さんに対して、
「よしよし。」だなんて、バカにしている。
「世の中の役に立つ仕事をしている人」の、
上から目線が嫌なのだ。
料理をしようとするヘルパーの後に、
ついて行くお母さんを、カメラで追いながら、
「何もしなくていいんだよ。」と、くり返す娘は、
その言葉が、母親を、どれだけ傷つけるか、
分からないのだろうか?
お父さんも、本当は、
ヘルパーが入るのは嫌なのだろうが、
自分では支えきれないから、観念したのだろう。
ごねるお母さんに、「感謝しろ!」と怒鳴ったのが、
自分に言い聞かせるようだった。
私が、この作品の中に見たのは、
認知症の介護の苦労ではなく、
どんな相手だろうと、言っている事を、
ちゃんと聴かねばならないという事だ。
相手をボケと決めつける前に、
自分がボケじゃねーか、確認しろ。
終わってゆくものはみな、デリケートなのだ。
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