諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

永井平九郎と永井伝八郎直勝。そして私。【御鍋神社参拝編】

2017年08月16日 13時31分05秒 | 永井平九郎

永井平九郎と永井伝八郎。名前、似ていますよね。それよりも前に永井平九郎と永井伝八郎直勝についてご存知じゃない人も多いと思いますけど。

永井平九郎については過去の永井平九郎シリーズを見てください。

永井伝八郎は池田恒興を討った長田伝八郎直勝が、主君・家康より「ワシは一応源氏だ(嘘の可能性あり)。源義朝を討った長田姓のままはマズイ。遠くは同祖である鎌倉の大江流に入って長井姓を名乗れ」と言われた。

長田氏は元来、永井の姓も持っている。多分、平将門公の時代には持っていたのだろう。それならと言う事で、長井姓ではなくて永井姓を名乗る様になった模様です。

実は数年前、永井平九郎、そしてその両親とされる平将門公・桔梗姫を祀る福島県天栄村の御鍋神社へ参拝に行きました。チョット大げさですが、正直、死を覚悟して。

何故、死を覚悟したのか。私は永井伝八郎直勝の一族に入ります。そして直勝の10代前は源義朝を討った長田忠敬。直勝は長田忠敬の実兄の家系となります。

そして長田氏の家系は平将門公の従兄弟でライバルでもある平貞盛に繋がります。

平将門公が朝廷に使えていた時、貞盛の母方の叔父である源護が将門公の領地を奪った。それに激怒した将門公は朝廷から戻る。そこを待ち伏せしていた源護は戻って来た平将門公を襲撃。源護にしたがっていた貞盛の父・平国香はこの時、将門公に討たれて死亡した。

平貞盛は非は父・国香達にあるとして、父の敵討ちは考えていなかった。しかし、叔父である平良兼、良正の説得で将門公を討つ事を決意した。

戦は終始平将門公側優位に進展した。平貞盛は何度も敗退して逃げ回る。

そして最終的には母方の叔父である藤原秀郷の協力を得て、4000の兵と共に平将門公に対峙。急であり、繁農期で兵を集められない平将門公は少ない兵で応戦。

将門軍は平貞盛連合軍を蹴散らし2900の兵を逃亡させるも急に風向きが変わり、平将門公の軍が窮地に陥る。そして流れ矢を額に受け将門公は絶命。平将門公の乱は平定。以上です。

つまり平将門公・永井平九郎親子と私は、同じ家系でありながら敵味方に別れた関係です。私は将門公と永井平九郎の仇筋となるのです。

どうですか、坂東平氏って複雑でしょ。土地をめぐって肉親同士で争う。出世と欲の塊。こんなだから野蛮人として朝廷から蔑視されるのです。

もっとも永井伝八郎直勝が大名になった頃、色んな方面の長田さんが永井姓に変えたみたいで、訳がわからなくなりましたが。。

永井伝八郎直勝も平将門公を十分意識していたと思います。直勝は知多半島・大浜出身ですが、何の因果か将門公と祖先の平貞盛が争った土地である古河藩の藩主となったので。

こんな事からも因果ってものが、何かしら関わっていると思わずにはいられないです。

将門公の乱は、将門公の領地を奪った源護・平国香に原因があります。子である平貞盛それを認め許しはしていた。将門公と貞盛は元々は仲が良かった事もあった。

しかし周りの意見に逆らえず将門公の討伐に参加。そして討った。将門公は坂東平氏の為にも朝廷からの脱却を考えていた。一族で争っている場合ではなかったのに。

その将門公の恨み、そして祟りにより貞盛の子孫である長田忠敬や平清盛の平家、源氏(源護と系統は違うけど)、そして藤原秀郷の血筋の奥州・藤原氏の滅亡につながったのではないか。私はどうしてもそう考えちゃいます。

その私が永井平九郎と平将門公が祀られている御鍋神社に参拝に行く。正直、恐ろしい。祟られるのか。どうなるのか。

結果、死にました。私の愛車・ダイハツアトレーのエアコンが。

仙台からアトレーで御鍋神社に向っていたのですが、福島市の辺りでエンジンがキュルキュル言い出して、恐る恐るエンジン低回転で向ったのです。そして天栄村入ったらキュルキュル音が止まった。直ったと思ったのですがエアコンのベルトか何かが切れたみたいで、エアコンが死んでしまいました。真夏だったのに。

拒まれている様な気がしました。でも、行かなくては。お参りしなければ。それも禊になるでしょうから。

何とか無事参拝してした私は、或る程度、少しは許して貰えたと思っています。私の代わりとなったアトレーには悪い事をしちゃいましたが。多少の禊にはなったと思っています。

こんな事考えている私をイカレた奴だと思っていただいて結構です。私もそうかもしれないと少なからず思っています。でも、そう思わずにはいられないのです。私の人生は色々ありますので。

また行って見る必要があると考えています。そして実感したい。許されているのかどうかを。それが切欠に何かが変わるかも知れないので。

 

ではでは。

 

 

 

 

 

 

 

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平将門公を諌めた男。平将平と伊和員経。そして永井平九郎。

2017年04月11日 01時35分55秒 | 永井平九郎

永井平九郎は将門公の暴走を諌めたが聞き入れられず、朝廷から賜った鼎を手に将門公の側室・桔梗姫を連れて逃亡。福島県の天栄村まで逃げ延びた。

知っていますか、鼎って三本足の中国の古来の鍋だって。

しかし、永井平九郎が祀られている御鍋神社の御神体は御釜。鼎はどこにも無い。御鍋とは本当は鼎なのではないか。鼎が御神体じゃないとおかしい。鼎はどこに行ったのか。これは永遠の謎でしょう。判りませんわ。

さて、永井平九郎とは一体何者なのか。余りにもデーターが少なくて調べようが無いです。しょうがないので永井平九郎と同じ行動を取った者を調べよう。そうだ、永井平九郎同様、平将門公を諌めた人物がいないだろうか。それで出て来たのがタイトルの平将平(たいらのまさひら)と伊和員経(いわのかずつね)です。どちらも新皇を名乗る平将門公の暴走を諌めた。残念ながら聞き届けられなかった。

先ずは平将平。平将門公の弟です。将門公は9人兄弟の三番目。将平は五番目みたいです。ここに永井平九郎を重ねると接点はあります。「平」の字と「9人兄弟」が。もしかしたら平九郎は将門公の9人の兄弟全員を示しているのではないか。

否、もう一つ接点がある。「9」と言えば妙見信仰の九曜紋。将門公の家紋。

九曜紋は北斗七星と太陽の紋。そして将門公には7人の影武者がいたと言う。うーん、これは太陽が将門公で7人の影武者が北斗七星(北斗七星は軸星を入れて本当は8星)。合計で九曜紋。つまり永井平九郎は将門公を含めた影武者全員を示すのかも。うーん、そんな訳はないな。

シンプルに9人兄弟の末っ子が永井平九郎なのでは。その最後の末っ子は平将種。この人が永井平九郎なのか。調べたけど全然データーが無く判らず。駄目だこりゃ。

もう一人の諌めた人物である伊和員経。平将門公の小姓だったようです。

伊和氏は出雲神族ですね。伊和大神は大物主や大国主と考えてよいでしょうし。

でも永井平九郎にどう繋がるだろう。長族は出雲神族と考えて間違いないだろうから、接点はゼロではない。

伊和と言うと伊和手。つまり安達ヶ原の鬼婆の岩手(伊和手)を思い出すけど、岩長姫がモデルだとしたら、永井平九郎に繋がるかな。うーん、やっぱり苦しいな。

もしかしたら平将平と伊和員経の二人が永井平九郎なのでは。これも厳しいけど、チョット掠っているか。いやー違うかなぁー。

実は将門公を諌めたと言う伝承はないのですが、平将門公の家来に隅田九郎将貞なる人物がいます。平将門公と共に掛川市の十九首塚に祀られています。殺されたみたいです。

「将貞」と言う名から平将門公の血筋かも知れませんが、この人もデーターが無い。判んないなぁー。

どうもそう簡単には答えは出そうにも無い。今日の所はこの辺で止めときます。そう簡単には繋がらないもんですね。

 

ではでは。

 

 

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御鍋を背負う者。アンバサマと永井平九郎。その7

2017年04月03日 11時50分27秒 | 永井平九郎

そろそろ終わりたいと思いながら続きます。

永井平九郎と常陸坊海尊の共通点は、出身が同じ可能性がある点です。そして平九郎は平将門、海尊は源義経に従っていた。どちらも敗者の家臣である。

そして平九郎は大鍋を背負っている程の力がある。将門公を諌めた程の実力がある。息子の可能性もある。将門公の勢力を盛り返す事が出来る人物である。警戒されると思います。

海尊は修験者。法力を持っている。弁慶に次ぐ強さ。ニンカン食べて不老不死になった。追う者としても強敵です。

現在も英雄の神格化が見られますが、永井平九郎も常陸坊海尊も強者。島の坊も強い。その者たちを殺した事に恐れを感じる。祟られると考える。

平将門公の祟りもその一つ。罪の無い??正統な主張をする者を殺す後ろめたさが罪悪感となり、祟りを恐れて祀らずにはおえなくなる。

特に坊主と修験者を殺すのは不味い。戦国時代、出家していた池田恒興を討った永井直勝は、坊主を殺した事に恐怖した。自分の屋敷の敷地に池田神社を建立し、恒興の頭を御神体にして祀った。それだけ仏教を敵に回すのは怖い。その思いが島の坊、永井平九郎、常陸坊海尊への信仰が生まれた様に思えます。

気になるのは茨城県の阿波の地名に「乗濱」、「安婆之島」がある事「能理波麻乃村」と呼ばれていた事。

「能理波麻」とは「海苔の浜」の意味。そして常陸坊海尊は宮城県の青麻神社に祀られている。どちらも眷属として祀っていると思われる。海苔と麻は何か接点があるのか。どちらも当時は貴重なものだから信仰が生まれた。どちらも植物。植物の神の眷属として常陸坊海尊を祀ったのでしょうか。これは難しいですね。

そして茨城の阿波の地は「建借間命」によって地元の国栖は殺され侵略された。

私は「タテカシマ様」の藁人形を見た事があるが、武将の鎧を来て、立派な男性器を出した姿です。つまりタテカシマ様は道祖神。猿田比古命。私は鹿島の地主神は阿須波神と考えていますが、鹿島の本来の神は猿田比子命の流れである事は間違いないと思います。

大杉神社の主祭神は大物主となってますが、「大物主=猿田比子命」は十分考えられると思いますね。

神道の神々は罪を犯す存在です。それは人々の代わりに罪を犯し罰を受ける。それが神道の信仰と言えます。

島の坊、常陸坊海尊、そして永井平九郎もその神々の眷属として迎えられた。その神々をカモフラージュの目的もあると思いますね。

それと茨城の阿波ですが、隣接する水戸市では那珂川が流れています。つまり四国の阿波同様、粟族と中族の土地。出雲神族の土地と考えます。

タテカシマ様は鹿島神・香取神である天津神の建御雷神、経津主と考えられますが、元々は日本の地主神である国津神を天津神に仕立て天孫族、天皇家の神に信仰しているものと考えます。

えっー以上です。最初のテーマとチョット路線が変わっちゃいましたが、また機会があれば考えを練りまくって書きたいと思います。

 

ではでは。

 

 

 

 

 

 

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御鍋を背負う者。アンバサマと永井平九郎。その6

2017年04月01日 17時55分31秒 | 永井平九郎

続きです。

大杉神社が鎮座する阿波は霞ヶ浦の西浦、利根川流域の低地に突き出た半島に鎮座しています。半島と言いますとアイヌ語で「イズ」。つまり伊豆は半島の意味。そして人の体では鼻を指します。

鼻と言いますと天狗。そして猿田彦命。常陸坊海尊も天狗とされているが、猿田彦命への信仰をカムフラージュする為に常陸坊海尊を出してきたのかも知れません。

大杉神社の創建は767年に勝道と言う僧が大杉を依り代として三輪明神を迎え、数々の奇跡で人々を救った事から始まり、「悪魔ばらえのアンバサマ」と呼ばれる様になった。特に疫病に効果があるみたいです。

大杉が御神体と考えられますが、実際は勝道が彫った「霊神不動尊」が御神体だそうです。そして高丸とされる悪路王の降伏を祈願してます。悪魔は蝦夷なんですかね。

ここで島の坊(とうせん坊)と常陸坊海尊を比べてみます。

常陸坊海尊は源義経に従い平泉へ逃亡。奥州藤原氏四代・藤原秦衡の裏切りにより義経や弁慶は討たれた。その時、海孫は10人程度の徒を連れて、どこぞの山寺に参拝に出かけていた。それだ助かった。

それが地元では不人気に繋がります。逃げたとか、裏切って敵に通報し自分だけは助かったとか、ボロボロの嫌われようです。

そして海尊は修験者。弁慶の弟分と伝えられているから、それなりに強いと思います。それに衣川の乱の後、ニンカンとか言う赤い羊羹みたいなものを食べて不老不死になった。

島の坊は一本歯の高下駄を履いていたから修験者の特徴がある。観音様に祈祷し超人的な力を得た。地元の人間ではない。嫌われていた。東尋坊まで逃げて行った等々。

どうも島の坊のモデルは常陸坊海尊の可能性は少なからずあると思えます。この二人は似ています。海尊は不老不死で死ななかったですが。

次に永井平九郎と比べます。永井平九郎は平将門公の家来、または息子。出身は千葉県の下総国、もしくは茨城県の常陸国と考えます。そして藤原秀郷、平貞盛の軍勢に追われ、桔梗姫と一緒に福島県の天栄村まで逃げて来た。

家来の永井平九郎は平将門公に対し諫言したと言われてます。平将門公の影武者は7人いたとされてますが、諫言する程の者であるなら、或る程度の実力者と考えられます。

平将門公の息子の場合でも鉄人とされる平将門公です。強い人物と思われたと考えます。

そして永井平九郎は御鍋神社側の平九郎谷に埋葬された。または端午の節句の時に炊飯の煙が敵に見つかり、一族は全滅したとも伝えられている。殺されいる。

そう考えると島の坊と永井平九郎は似ていますね。どちらも御鍋を背負っていますし。

 

続く。

 

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御鍋を背負う者。アンバサマと永井平九郎。その5

2017年03月30日 17時43分34秒 | 永井平九郎

続きです。

アンバサマ総本宮の大杉神社は「夢結びの神」として、茨城県稲敷市阿波に鎮座しています。阿波は「アバ」と読むので「アンバサマ」が地名になったと推測します。

阿波と言うと四国の阿波国を思い出します。粟の生産地だったから阿波の地名が付いたらしいです。また粟と海の波から「阿波」となったとも言われてます。

この四国の阿波国ですが、大昔は粟国(粟族)と長国(長族)に分かれていて、名西山の神域が粟国の中心、名東郡・佐那河内地方が長国の中心だったみたいです。

この粟国の主食は粟、長国は米。米は水田を開拓しなければならない。その開拓した者は「井開、井貝」の姓を名乗った。つまり長国の井開さん。略して長井。うーん、なるほど(笑)。当らずも遠からずかも。

粟族の神は神山町神領に鎮座する「上一ノ宮 大粟神社」に祀られる「大宣都姫命」。

長族の神は佐那河内村に鎮座する「御間都比古神社」に祀られる稲の神であり長国始祖神である「観松比古命」。

この「観松比古命」には興味を覚えます。一体誰なのか。東北では観松比古命を祀る神社は無いと思う。私も「観松比古命」の名前は初めて聞きますし。

先代旧事本紀によると13代・成務天皇の時代、観松比古命の9代孫の「韓背足尼(韓背宿禰)」が長国造に任命。その家系が長姓を名乗った。長氏の支流の大海路命の子孫が長宗宿禰。その子孫が長宗我部氏。

長氏本流では建日別命が長国造の遠祖で、長氏は三輪氏と同族。事代主命の神裔となる。そこから考えると「観松比古命」は神武天皇と戦った長髄彦命と考えられているそうです。

私は永井平九郎から神道に興味を持ったのですが、長髄彦命も「長(永)」繋がりで魅入られてました。何か頭から離れられなかった。ここでチョットだけ接点が出ました。感慨深いです。

長髄彦命に付いては建日別命がその人だとする説も有りますが、難し過ぎますのでまたの機会に考えたいと思います。

茨城県の大杉神社に戻します。

大杉神社は通称「あんばさま」。大杉大明神、大杉大権現、今宮大杉大明神とも呼ばれる。祭神は大物主命、大国主命、少彦名命。出雲系の神々。境内に大杉が御神木なので大杉神社と称する模様です。

この大杉神社での注目点は眷属として「鼻高天狗」、「烏天狗」の信仰がある事。源義経の家来である「常陸坊海尊」が大杉大明神の御神徳で様々な奇跡を起こした。常陸坊海尊を通して大杉大明神が願いを叶えてくれる。その常陸坊海尊のルックスが天狗に似ていたから天狗信仰が生まれたそうです。

天狗には役割が決まっていて、鼻高天狗は「願い天狗」。烏天狗が「叶い天狗」。それぞれの天狗様の働きで願いが叶う事から「日本唯一の夢結び大明神」と呼ばれるそうです。

 

続く。

 

 

 

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