永井平九郎と永井伝八郎。名前、似ていますよね。それよりも前に永井平九郎と永井伝八郎直勝についてご存知じゃない人も多いと思いますけど。
永井平九郎については過去の永井平九郎シリーズを見てください。
永井伝八郎は池田恒興を討った長田伝八郎直勝が、主君・家康より「ワシは一応源氏だ(嘘の可能性あり)。源義朝を討った長田姓のままはマズイ。遠くは同祖である鎌倉の大江流に入って長井姓を名乗れ」と言われた。
長田氏は元来、永井の姓も持っている。多分、平将門公の時代には持っていたのだろう。それならと言う事で、長井姓ではなくて永井姓を名乗る様になった模様です。
実は数年前、永井平九郎、そしてその両親とされる平将門公・桔梗姫を祀る福島県天栄村の御鍋神社へ参拝に行きました。チョット大げさですが、正直、死を覚悟して。
何故、死を覚悟したのか。私は永井伝八郎直勝の一族に入ります。そして直勝の10代前は源義朝を討った長田忠敬。直勝は長田忠敬の実兄の家系となります。
そして長田氏の家系は平将門公の従兄弟でライバルでもある平貞盛に繋がります。
平将門公が朝廷に使えていた時、貞盛の母方の叔父である源護が将門公の領地を奪った。それに激怒した将門公は朝廷から戻る。そこを待ち伏せしていた源護は戻って来た平将門公を襲撃。源護にしたがっていた貞盛の父・平国香はこの時、将門公に討たれて死亡した。
平貞盛は非は父・国香達にあるとして、父の敵討ちは考えていなかった。しかし、叔父である平良兼、良正の説得で将門公を討つ事を決意した。
戦は終始平将門公側優位に進展した。平貞盛は何度も敗退して逃げ回る。
そして最終的には母方の叔父である藤原秀郷の協力を得て、4000の兵と共に平将門公に対峙。急であり、繁農期で兵を集められない平将門公は少ない兵で応戦。
将門軍は平貞盛連合軍を蹴散らし2900の兵を逃亡させるも急に風向きが変わり、平将門公の軍が窮地に陥る。そして流れ矢を額に受け将門公は絶命。平将門公の乱は平定。以上です。
つまり平将門公・永井平九郎親子と私は、同じ家系でありながら敵味方に別れた関係です。私は将門公と永井平九郎の仇筋となるのです。
どうですか、坂東平氏って複雑でしょ。土地をめぐって肉親同士で争う。出世と欲の塊。こんなだから野蛮人として朝廷から蔑視されるのです。
もっとも永井伝八郎直勝が大名になった頃、色んな方面の長田さんが永井姓に変えたみたいで、訳がわからなくなりましたが。。
永井伝八郎直勝も平将門公を十分意識していたと思います。直勝は知多半島・大浜出身ですが、何の因果か将門公と祖先の平貞盛が争った土地である古河藩の藩主となったので。
こんな事からも因果ってものが、何かしら関わっていると思わずにはいられないです。
将門公の乱は、将門公の領地を奪った源護・平国香に原因があります。子である平貞盛それを認め許しはしていた。将門公と貞盛は元々は仲が良かった事もあった。
しかし周りの意見に逆らえず将門公の討伐に参加。そして討った。将門公は坂東平氏の為にも朝廷からの脱却を考えていた。一族で争っている場合ではなかったのに。
その将門公の恨み、そして祟りにより貞盛の子孫である長田忠敬や平清盛の平家、源氏(源護と系統は違うけど)、そして藤原秀郷の血筋の奥州・藤原氏の滅亡につながったのではないか。私はどうしてもそう考えちゃいます。
その私が永井平九郎と平将門公が祀られている御鍋神社に参拝に行く。正直、恐ろしい。祟られるのか。どうなるのか。
結果、死にました。私の愛車・ダイハツアトレーのエアコンが。
仙台からアトレーで御鍋神社に向っていたのですが、福島市の辺りでエンジンがキュルキュル言い出して、恐る恐るエンジン低回転で向ったのです。そして天栄村入ったらキュルキュル音が止まった。直ったと思ったのですがエアコンのベルトか何かが切れたみたいで、エアコンが死んでしまいました。真夏だったのに。
拒まれている様な気がしました。でも、行かなくては。お参りしなければ。それも禊になるでしょうから。
何とか無事参拝してした私は、或る程度、少しは許して貰えたと思っています。私の代わりとなったアトレーには悪い事をしちゃいましたが。多少の禊にはなったと思っています。
こんな事考えている私をイカレた奴だと思っていただいて結構です。私もそうかもしれないと少なからず思っています。でも、そう思わずにはいられないのです。私の人生は色々ありますので。
また行って見る必要があると考えています。そして実感したい。許されているのかどうかを。それが切欠に何かが変わるかも知れないので。
ではでは。