諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

永井平九郎の兄は安倍晴明!?【平将国伝説】 その1

2016年09月05日 22時38分10秒 | 永井平九郎

本来なら「平将門公の息子は安倍晴明!?」の方がしっくり来るのでしょうけど、それはそれ世界で唯一の永井平九郎研究家の私です(恥かしい)。永井平九郎の兄として今回のお題を書きたいと思います。その方が判りやすい部分もありますので。

っとは言っても、「平将国=安倍晴明」説は多くの方が書いてますし、伝説として残っています。私も同じ事をなぞってもしょうがないと思うのですが、後に書きたいと思っている永井平九郎の陰に隠れる瀬織津姫との関係について、序章として語るには都合が良いと思いました。

今回はやっつけ仕事になっちゃいますし発見は無いかも知れませんが、チラッと書いておきます。暫しお付き合い下さい。

さて、あの陰陽師・安倍晴明は平将門公の息子・平将国であると言う伝説が伝わっています。

その前にちょこっと平将国に付いて説明します。将国は将門公の次男から下だと思われます(長男は良門)。平将門の乱で平貞盛、藤原秀郷、藤原為憲に一族郎党が誅され、将門公の息子では唯一生き残ったとされています。

大叔父の平良門に匿われて常陸の国の信太、今の霞ヶ浦まで逃れ二代新皇を名乗り、領地の回復に尽力したとされます。

この平将国が何故に安倍晴明だとする伝説が残っているのか。

安倍晴明は北斗信仰です。北極星の神格化である妙見菩薩を崇めています。そして平将門公も妙見菩薩を守護神としていた。平将門公の家紋である九曜紋も北斗七星を示しています。その点は間違いない。勿論、息子の平将国も妙見菩薩を崇める北斗信仰なのは当然。そこが第一の共通点です。

そして出身地にも謎が残る。安倍晴明は大阪市阿倍野区阿倍野町に鎮座する安倍晴明神社が生誕の地とされています。境内には安倍晴明生誕の地の碑もあります。少なくても関わりのある地なのは間違いないです。

それがもう一箇所生誕の地があります。「ほき抄」と言う書に晴明の由来が書かれており、常陸国筑波山麓の猫島、つまり現在の茨城県真壁郡明野町猫島が安倍晴明の生誕の地と記載されています。

更に安倍晴明の母親は信太の森の白狐だとの話が伝わってます。大阪市和泉区にその伝説の舞台となった信太森葛葉稲荷神社があり、その祭神は安倍晴明の母親の白狐・信太明神が祭られています。

そして信太と言う地名が茨城県にもあるんです。信太の森もあります。そして安倍晴明を祭る晴明神社も。

茨城の信太では平将国がこの信太郡に逃げ延び、信太姓を名乗ったと伝わっています。ここから「安倍晴明=平将国」説が出たと思われます。

平将国である安倍晴明が信頼する花山天皇と共に、父である平将門公の意思を次いでこの地に独立国を作ろうとした。その説が茨城の信太に根付いて晴明神社が建立されたと思われます。

 

つづく。

 

 

 

 

 

 

 

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永井平九郎の長兄は酒呑童子?!、土蜘蛛?! 【平良門伝説】 番外・善知鳥安方篇

2013年02月24日 03時18分52秒 | 永井平九郎

善知鳥(ウトウ)中納言安方の続きです。

話はタイトルから著しく逸脱しちゃってますが、鬼渡神はニワトリとも読めますんで、鳥と付くと、どうしても興味が湧いてしまうんですよねぇー。申し訳ないです。

 

さてさて、この善知鳥安方ですが、山海の悪鬼を成敗した後、現地のエミシ達に漁業や農作を教えた人物とされている一方、元々は安方悪智と言う名で、親子で流罪となり陸奥まで流されてきたのですが、深く深く反省して善智となり、外が浜なる地で神になったとも言われています。


まあ、どっちにしろ善知鳥安方によって開かれた土地は善知鳥村と呼ばれるようになり、今の青森市になったとさ、っと言う事です。


処で善知鳥って何なのかと言うと、海鳥なんですよね。良くは知りませんがウミスズメ科らしいです。

写真でチラッと見たのですが、何か鵲とカラスを足して二で割ったような鳥ですね。一見、ちょっと色の入ったカラスにしか見えません。


アイヌ語で「ウトウ」は「沼のある場所」の意味になりますが、「善知鳥」を直訳すると・・・・、

[善]・・・徳の究極、すなわち神の意思に叶うこと

[知]・・・神を祀ることによって、神より与えられるもの

[鳥]・・・予知能力を持ち、天空の神々と地上の世界を結ぶ神の使わしめ

っと言う事で、三つ合わせて「ウトウは天空の神々より与えられた神意を、地上の世界に使わし、人々を善へと導く聖なるものと考え、神使の象徴として善知鳥の字を充てた」と言うことになっています。


これって大変不謹慎ではありますが、大和朝廷によるエミシ征伐の言い訳なんでしょうね。

こんなこと言うと罰が当たりそうで怖いのですが、東北人の私としましてはチョット受け入れたくない思いなんです。


さて、善知鳥村、つまり青森市の発祥の地に「善知鳥神社」が鎮座しています。

祭神は市杵嶋姫、多岐都姫、多紀理姫の宗像三女神。

配神は天照大御神、猿田彦神、宮姫神、海津美神となっています。


ここで何故、宗像三女神を祭っているのかですが、「善知鳥」は安方の後妻の「善知鳥の前」が生神になったから付けられた説もあり、そこから善知鳥の前=弁財天となり、宗像三女神が祀られるようになった気もします。


しかしながら、青森県は宗像三女神を祀る神社が多く、同じ青森県にある八戸三島神社もその一つですが、同神社の市杵嶋姫の説明文には、「市杵嶋姫は大変美しい女神なのですが、気の強い性格で、門番を任せられたりする」旨、書かれています。

 

門番となると私は東北故、アラハバキ神を思い起こします。

時の大和朝廷はエミシ征伐の前線基地である多賀城に、都から十一面観音を持ってきた話が伝わっており、その理由として十一面観音の力でエミシ達をやっつけてやろう的に以前は考えていました。。

しかし、今は不動尊、薬師如来同様、十一面観音をエミシの神、或いはエミシとして祀り、殺生の罪を許して貰うが為に祀っているのではと考えます。

そして宗像三女神も同様と考えます。つまり、アラハバキ神を市杵嶋姫に書き換えて大和側の神として祀っているのではないかと思うのです。

 

時代は変わって平将門公の時も、当時の関東はエミシの土地であり、将門公や長男の良門も朝廷に刃向かう敵は鬼であり、土蜘蛛とされ成敗された話が伝わったと考えます。

反面、後ろめたさからの怨霊・祟の恐怖に怯え、神・仏として祀っていると思います。


っと言う事で、この章は長々となりすぎて、もう、シドロモドロになってきましたので、この辺でお開きに致したいと思います。

 

ではでは。



 

 

 

 

 

 

 

 









 

 

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永井平九郎の長兄は酒呑童子?!、土蜘蛛?! 【平良門伝説】  その2

2013年02月19日 02時29分01秒 | 永井平九郎

えー、徳川家康関係の本を読んでいて、ここのお題、のびのびになっちゃいました。失礼しました。

さて、続きです。


今回は良門復讐篇となります。

さてさて、父親の将門公が打ち取られ、復讐に燃えた将門公の長男・良門は、奥州を立ち全国を回って武芸を磨き、同士を集め播州三国の奥に柵を構え、当時、西国第一の要塞と謳われた新田城を襲ったのですが、時の英雄・源頼光にあっさり負けちゃった訳です。

 

こんでは駄目だって事になり、再び兵力を整えるため何故か立山連峰の地獄谷まで行って伊賀寿太郎と出会います。

この伊賀寿太郎は、平将門公と時を同じくして朝廷に叛旗を翻した藤原純友の側近であり、軍師でした。

通称・活閻羅大王。つまり、現世の閻魔大王と称していた様です。

 

このお方のまた、良門同様、「恨み晴らさでおくべきか」と諸国を回り、兵力を蓄えていたところ、同じ志を持つ良門と出会い、源頼光を討つ事で意見が一致。良門の軍師に就任。

 

そして二人は、将門山ってところで決意を新たに旗揚げし、仲間と共に「えい、えい、おー」と雄叫びをあげ、再度、源頼光に再戦を挑んだのですが、源頼光が率いる四天王の一人、渡辺綱に良門が捕らえられました。

そして、父・将門公同様、野望と共に首を跳ねられ、復讐劇は幕を下ろした訳です。

めでたし、めでたし。

 

ってのはまるっきりのフィクションです。

この話、山東京伝の読本「善知鳥安方忠義伝」からの話です。

 

まあ、当時は反乱を起こした将門公、藤原純友はそれだけ恐れられていた訳で、もしこのお二人が手を組んでいたら、とんでもない事になっただろうって話で、その恐怖をもう一度と言う事で、平良門・伊賀寿太郎が組んだ話を作ったと思われます。

この話、勿論、当時ではなく、江戸時代に作られた話なんですけどね。

 

ここでやっとお題の「酒呑童子、土蜘蛛」についてです。

前回、平将門公が額、または片目を打ち抜かれて死亡した話をしまして、それが俵藤太のムカデ退治のモデルとなったのでは・・・・・と言いました。

 

そして今回は酒呑童子を討ち、土蜘蛛を退治した源頼光に平良門が討たれた訳ですから、もしかしたら酒呑童子や土蜘蛛のモデルは平良門だったのではないかと考えた次第です。

大した根拠がなくでスイマセン。

 

ところで「善知鳥安方忠義伝」の「善知鳥安方」って、何なのか気になって調べてみました。

どうも「善知鳥中納言安方」とは、時の征夷大将軍だった様で、陸奥の方まで出向いてきて夷人山海の悪鬼を誅伐平定した人物のようです。

まあ、この悪鬼は朝廷に対抗した荒エミシでしょうから、坂上田村麻呂の先輩なんだと思います。

 

つづく。

 

 

 

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永井平九郎の長兄は酒呑童子?!、土蜘蛛?! 【平良門伝説】 番外編・妙見信仰を掴みだけ語ってみました。

2013年02月10日 04時12分03秒 | 永井平九郎

さて、今度は討ち取られた平良門の話ですが、その前にチョットだけ平将門公一族が信仰していた妙見信仰を語っておきます。

 

またまた家紋の話からですが、平将門公一族の家紋は「九曜紋」です。九曜紋こそが妙見信仰の証です。

この九曜紋ですが、「チョットだけ白山・・・・」でも九曜紋について話しましたが、北斗七星は実際は八つの星があり、真ん中は太陽。太陽と北斗七星を括りつけたからククリヒメ。つまり菊理姫になると書きました。

 

でも、妙見信仰の九曜紋は、周りが北斗七星とアルゴルとされる輔星。そして真ん中が太陽ではなく北極星となります。

何でも輔星が次期北極星候補の星と言う事です。

 

他には月、火星、水星、木星、金星、土星、太陽に加え、「計都、羅ごう」の2つの星を加えた9星が九曜紋と言う話もあります。

これはどうも仏教・ヒンズー教の流れから来ている様です。実際、「計都・羅ごう」なる星は存在しませんが、この二つの星は、日蝕を引き起こす凶星と考えられている様です。

 

妙見信仰を示す家紋、もしくは神紋には、九曜紋の他に七曜、八曜、十曜紋や、一対の月星紋、九曜紋でも真ん中が三日月の月星紋、そしてオリオン星を表す「三つ星に一」の渡辺星紋なんてのがあります。

 

実は私の家の家紋も「一に三つ星」の家紋です。

長州藩と言うか、毛利氏と同じですね。まあ、鎌倉の大江氏の流れです。

簡単に言うと、大江氏に養子に入る形で「一に三つ星」に変わったようです。本来は「黒餅に鉄線(花)」の家紋でした。

 

さて「一に三つ星」の家紋ですが、、本名は忘れましたが、桓武天皇の流れの一品天皇の落胤の家系で有る事から、どうも「一品」が「一に三つ星」になったようです。

「オリオン三つ星」の家紋とは言われていますが、本当かどうかは定かではないです(残念)。

 

さて、詰まらない話をしてしまいました。妙見信仰に戻ります。

妙見様と言ったら「天之御中主」ですね。ある意味、神道の最高神です。北斗七星の神です。

これは案外、知られてはいませんが、徳川家康を祀る「日光東照宮」も、実は頂点に天之御中主を祭っています。

 

だったら北極星の神はどなた様でしょうか・・・・・・。

九曜紋が北斗七星と北極星なら北極星も天之御中主と言って良いですが、北極星に限定すれば「太一」が挙げられます。

この「太一」・・・なんて神様を呼び捨てにして大変恐縮なのですが、北極星を神霊化した神様です(神とは付きませんが・・・)。

どうも中国・道教の流れの様で、道教では「天帝」と呼ばれ、宇宙を支配する最高神で、紫微宮って所に住んでいるようです。

 

さて、この太一様(祟りが怖いので様をつけます)、日本ではどこに居るのかと言うと、伊勢・志摩周辺のようです。

この地域の「お田植え祭り」の時や、神社の祭礼の時に「太一」と書かれた幟が掲げられるそうです。


そして、伊勢・志摩と言ったら「伊勢神宮」ですが、伊勢神宮でも20年に一度の御遷宮の際、御正殿建築の為の御神木を運ぶ「お木曳き」において、「太一」と書かれた木札をその御神木を付けているそうです。

まあ、伊勢神宮に太一様が関係しているのは間違いないようです。


だったら太一様は伊勢神宮に祀られている神様の中のどの神様なのか、気になりますね。

太一様は紫微宮に住んている訳ですが、「紫微」って色で言うと「薄紫」となります。

薄紫といえば藤の花。藤の花は「豊受大神」の花。つまり「太一様」=「豊受大神」になるのではないでしょうか。


更に更に、「平将門公」は「瀬織津姫」を信仰していた節があり、「太一様」と「瀬織津姫」の繋がりも「伊勢神宮」にて示されているのですが、この件はもっと練が必要ですので、今回はこの辺にしときます。。


ではでは。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

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永井平九郎の長兄は酒呑童子?!、土蜘蛛?! 【平良門伝説】  その1

2013年02月05日 09時05分54秒 | 永井平九郎

次いでと言っては大変失礼なのですが、平将門公の長男、平良門についても語っておきますね。

っと言っても、平良門の史実と言えるかどうかは知りませんが・・・・。

 

先ず、生き延びた話です。

 

この平良門はフルネームで言うと、平太郎良門と言うらしいですが、家臣6名と一緒に三豊市高瀬町音田の毘沙門谷(現在はおにが谷)に落ち延び、そこに住み着き六名氏(ろくみょう)を名乗ったそうです。

 

更にもう一つ。

良門は下総国の光圀という者に匿われていたが、将門公が討たれた事で、やはり六名の家臣とともに各地をさすらい、逃亡の成功を祈っていたのか、通るを神社ごとに律儀に参拝しながら大麻神社(多分、茨城県の・・・)に到着。

そこで変なおじさん・・・じゃなく、常人とは思えない爺様と会う。

 

その爺様の言うことには、自分の異様さを棚に上げて、「汝らは常人とは見えない。落人ならばいい隠れ家を教えてやる」とのたまい、善通寺から丑の方角へと連れて行きます。

そして、何か深い谷に来たとなぁーと思ったら、その爺様、ドロロンってな感じで消えた訳です。

 

良門一行は、「やらっちゃー、狐に騙されたぁー、悔しぃー」と言いながらも、何もする事も無いので、しょうがなく木陰で休んでいたそうです。

 

そして日が暮れ始めると、遥か向こうの林の中に火の光が見え、人家を見つけて一晩泊めてもらおうと行った訳です。

 

その家に行くと、また違う爺様が出てきて、「あんたら遠国からの落人だべ。狐に騙されて、こんな山奥まで迷い込んで、えらい目に合ったない。よがす、すがす、我が家に呼ばれない(茨城弁??)」ってことで、一晩の宿を借りる事になりました。

 

「処で爺様、ここは何てとこだい」と良門が聞くと、その爺様「毘沙門谷だよーん」と答え、その後、良門一行は就寝。

朝、起きてみたら、そこは家もなく、爺様もおらず、山中のただの野原で寝ていただけでした。

 

良門一行は、「また狐に騙された。チクショー、こんなとこ、居らったもんじゃにぃー」ってな事で、早々に立ち去ろうとしたら、そこに書付があり、「我は下総国妙見神である。ここに導いたのは、この地に隠れ住めば、末永く栄えるからだよーん」と書いてあったそうです。

 

良門一行はびっくりして、「昨夜の二人の爺様は、俺らの産土神だったのだ。ありがたやー」と喜び、ここの山谷を開き村を造り暮らした。

 

その後、良門は「武田丑之助」と名を改め、この地で暮らし75歳で亡くなり南穴薬師に埋葬。

良門の子孫は相馬氏を名乗ったという事でした。

めでたし、めでたし。

 

つづく。

 

 

 

 

 

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