諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

1983 バリーマニロウ初来日武道館コンサート顛末記。その2

2015年06月12日 12時38分13秒 | 出来事

続きです。

以上です。バイクは危ないし怖いのです。そして私はバイクで仙台ー東京間を往復しようと考えている。18歳になったばかりの私が。

いくら16歳からバイクで新聞配達していたとは言えどう考えても無謀。しかも新聞配達をしてから旅立ち、帰って来て直ぐにまた新聞配達をしなければならない。絶対に無謀ですよ。

でも私は爆発したい。限界を味わいたい。それで死んでもある程度は納得。そう考えて決断しました。

先ずは午前2時30分起床。2時50分に新聞が店に到着。3時30分までチラシ入れをし、配達開始。3時間30分の新聞配達を終え7時に店に戻る。そして直ぐに風呂と簡単な食事を採り、8時に出発しました。

ルートは国道6号線。東京までの最短距離のルートです。それでも片道350km以上の道程です。気が遠くなります。

茨城県までは順調に走りましたが、首都圏に入ると流石に道に迷いました。流石大都会ですわ。

東京に初めて来ての実感ですが、埼玉も千葉も神奈川県も全てが東京ですね。こんなにデカイと人間個々のスケールでは計れません。仙台程度がヒューマンサイズで良いのかも。でもやっぱり東京は憧れます。出来れば東京で暮らし続けたかったです(涙)。

そうこう道に迷いに迷って皇居を回りに回って午後6時チョット前に武道館に到着。殆ど10時間走り続けてました。

私の席は2階です。私、全然知らなかったのですが武道館って地下、一階、二階の建物なんですね。つまり私の席は最上階、バリーマニロウは小さい、小さい。これだったら家でレコード聴いていた方が良かったかも。

それにしてもバリーマニロウの人気は日本でも思っていた以上に凄いです。武道館は超満員。そして客の約9割が女性。更に女性の約2割が白人女性です。

私、肉眼でこんなに多くの外国人を見た事なかったのでカルチャーショックを受けましたわ。流石国際都市東京だと思いましたね。

コンサートはさほど感動しませんでした。従兄弟の死のショックの前では感動など出来ません。バリーマニロウもたどたどしい日本語で「さくら、さくら」を歌っていましたが、「いざや、いざや、見に行かん」の所を「いざよ、いざよ」と間違って歌っていましたし。

その後、西城秀樹とのデュエットで「この腕の中に」と言う曲を出し、結構流暢な日本語で歌い日本でも大ヒットしましたが、この頃は歌になってませんでした。多分。この時の失敗から日本語での歌詞でリベンジしたのだと思います。バリーマニロウの音楽には執念が感じられますね。

そして午後9時、コンサートが終了。ここからが勝負です。仙台に出来るだけ早く帰り新聞配達をしなければならない。出来れば午前4時までに着きたい。早く帰らなければ。

行きとは違い夜は寒いです。3月ですから本当に寒かったです。上下の防寒服を着込んで走りに走ります。

いやー寒さもありますが、眠気との戦いでもありました。何度か暖と眠気を取る為に缶コーヒーを飲みましたが、辛かったですねぇー。チョット油断すると居眠り運転で死にますねこれ。ホント大変でした。

それでも店には午後5時に到着。直ちに新聞配達を開始し、かなり遅くなりましたが、午後8時30分無事終了。すぐさま床に就きました。

今回の行程ですが、新聞配達を含めれば24時間バイクに乗っていた計算になります。道に迷いましたからね、八百数十キロ走りました。もうこんな馬鹿げた事、50才を超えた現在の私には出来ませんよ。

もう30年以上前の話ですが、今考えて見るとこの行程は自分で自分を祓い清めたかったのではないかと思います。それ程従兄弟の死は辛かった。それだけだったと思いますね。

今もまだ祓い清めが続いていますが、人生は苦楽があってこその旅だと思います。

何時まで続くかは死ぬまで判りませんが・・・・・・・・・・・・・。

 

ではでは。

 

 

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1983 バリーマニロウ初来日武道館コンサート顛末記。その1

2015年06月12日 03時15分54秒 | 出来事

「1983年は私に取って最悪の年でした・・・・」っと前回の出だしと一緒ですが、本当は今回のタイトルで書いていて感情が高ぶり脱線し、タイトルを変えた次第です。それだけ私の人生に従兄弟の死が今でも重く圧し掛かっていると言う事です。

従兄弟の死から2ヶ月後、14歳の頃から大ファンであったバリーマニロウが初来日し、武道館でコンサートをする事に。

かつての私だったら大感激でコンサートを見に行きたいと思ったでしょうが、従兄弟を失って日が浅い。そんな気持ちも萎えてしまってました。行こうか行かないか迷っていたのであります。

1983年、私の心は半分死にました。何にも感激しなくなったのです。実は今もそうです。美味しい物を食べてもどうって事無い。誰も好きになれない。成りたい者に成ろうとする気力も無い。余りお金も欲しくない。何も欲しくない。もうどうでも良い・・・・・・・。そんな考えに支配されてました。

バリーマニロウの初来日コンサート。どうしようか。行こうか。行った方が良いか。うーん、やっぱり意欲が薄れた。

もうどうでも良い。自分も死にたい・・・・・・っとは差ほど思わないが爆発したい。ギリギリ死に迫りたいと言う事ではないけど、ギリギリの状態に身を置きたい。自分の限界の状態を体験したいと思った。つまりヤケクソに成って見たいと思ったのです。

そして思いました。「よし行こう。バリーマニロウのコンサートへ」と。それも下道を通ってオートバイで。

「限界に挑戦して見よう。それで死んでも良いではないか。生きる意欲も薄れたし、もう人生には期待出来ないし・・・・」。そう思い出かけました。いざ、武道館へ。

時は1983年3月23日。私は18歳になったばかり。バイクはヤマハGX250SP(最終型のヨーロピアンタイプ)。

中型自動二輪の免許は16歳の時に取りました。学校に黙って。当時、高校で中型バイクに乗っている者は高校で私を含め三人いました。スズキGSX400Eの奴とカワサキZ400FXの奴です。

私は一時期野球部に入っていて、GSX400Eの奴とファーストのポジションを争っていました(私は野球は左利きです)。しかし、新聞配達もしていた。勉強も出来なかった。とんでもない状態だった。だから直ぐに辞めちゃいましたけど・・・・・・・・・。

GSX400EとZ400FXの二人は親友同士。そして高校の試験の前日、GSX400Eの奴が自分のノートをコピーさせてやる為にZ400FXの家にバイクで向かった。バイクはバスの直ぐ後ろに付いた。バスは遅い。それで追い越しをかけ対向車線に出たらトラックが走ってきて正面衝突。GSX400Eの奴は死にました。

Z400FXの奴は自分を責めてバイクを降りました。高校は小型自動二輪まではOKでしたが、が原付以外は駄目に。私もバイクを隠して原付以外乗らなくなりました。

話によるとGSX400Eの奴は自分の死期を悟ったのか、今まで部屋の掃除なんてした事無かったのに綺麗に後片付けをしていたそうです。死期が迫ると人間は「飛ぶ鳥、後を濁さず」と無意識に思うものなのでしょうか。従兄弟もそうだったし。

そう言えば私も最近、自分の部屋を掃除しなければ気が済まない様になっている。うーん、どうなのだろ。チョット心配。

 

続く。

 

 

 

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