諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

蛇の祟りは続いていたのだろうか・・・。その2

2015年06月22日 00時11分12秒 | 霊体・恐怖

続きです。話を母の長姉に戻します。

何故、長姉の夫が事故死したのか。42才厄年で亡くなったと言う事は、人生の肉体的な転換期です。真空になっている部分に魔が刺したと言うのでしょうか。陰陽的な転換が上手くいかなかったから事故にあったのか。うーん、私には判りませんね。

実は母方も人殺しの家系です。会津の武家です。名門です。有名人を何人も出しています。文武両道の血筋で、大河ドラマの「八重の桜」にも出て来ます。人の命を左右した家柄です。その因果が影響したのか。

その場合、因果は夫ではなく長姉に降りかかって来る筈。でも長姉も心身とも苦しんだ。影響は皆無とは言えない。

姓名判断はどうか。これは当て嵌まる。長姉には旧姓にも夫の姓にも「水」の字がある。水は祓い清め。命が祓い清められる。つまり死が訪れる。だから凶。そして長姉は季節の名前。季節は移り変わる。つまり寿命が短い。これも凶。

それだけではない。結婚後の総画が20画。「9、10、19、20」の四大凶数の中でも一番悪い凶数。これは致命的と思われる。

0画は幸せの後ろの魔数。幸せな気持ちに忍び寄る。そして全てを無にする。

長姉は娘を妊娠していた。幸せだった。一番危ない時だったと言える。

本来は自分に凶が降りかかる事が多いが、0画は周りにも影響を及ぼす。長姉の場合、愛する夫に自分の負を渡したと言える。負を渡した事で長命を得たのかも。

しかし辛い人生だった事は間違いない。自分が死ぬよりも愛する者の死の方がずっと辛い訳だし。

私の父方・母方で不幸になった者には全員0画がある。それに気付いて姓名判断に興味を持ったが、やはり姓名は生命だと思う。名前通りの生き方を演じてしまう。名前は良い意味合い、良い画数である事に越したことが無いが、それだけで人生が全て決まる訳ではない。

先祖の因果、自分の業が降りかかる。それも今の私は実感している。でも、それだけでは無いような気がする。

まさか、殺した蛇の祟りがまだ続いていた。神主の祈祷が十分に効かなかったのではないか。蛇は執念深い訳だし。

蛇は瞬きしない。同じ爬虫類であるトカゲや亀は瞬きするのに。

瞬きしない人間、そして幽霊と対峙した事があったが、瞬きしない生き物??には空恐ろしさを感じる。瞬きせず見開いたままの眼には執念を感じる。執念はそう簡単には断ち切れない。まだ祟りは続いていた。優しい夫がその因果を背負ってくれたのだろうか。

うーん、どうなんでしょう。うーん、判らない。何か法則があるのか。無いのか。それも判らない。

判らないのは理不尽だし不条理。判っていたら何とかなるのかも知れないのに。それが大変歯痒い。

 これが占いの限界。完璧には見通せない。因果な家系に産まれた者は、慎重に生きるしか術は無いのかも知れない。引き篭もりの人生に何の意味があるかは判らないが。

 

ではでは。

 

コメント
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