途中中断失礼しました。再開します。続きです。
会津に逃げてきた海人族ですが、アタ族、或いは安曇族とも呼ばれている様です。
福島県は安達太良、安積、熱海、安達ケ原、阿賀川等々、アタ族に由来する地名が多い。そしてそれらの地は産鉄の地でもある。会津まで逃げてきたアタ族は逃げてきたのではなく、鉄を求めて会津まで来たのではないか。
その可能性は十分有りますね。そして内陸部まで来てしまったが生魚への欲求があった。でも川魚は回虫が心配で食べられない。だから馬と鳥を刺身で食べたのではないか。信州も安曇族の拠点となっていたが、やはり馬刺しは名物になっている。安曇族、アタ族は生食の文化を持っている。
ここて一つ疑問点があります。縄文時代の日本人は食べ物は生では食べなかった。全て煮て食べていた。これは貝塚を調べて確実視されています。っと言う事は会津のアタ族は縄文人ではない。少なくても縄文時代に会津に来た訳ではないのは確か。では何時の時代に会津に来たのか。
これは一つの過程ですが、会津には阿賀川が流れています。河口は新潟県。福島県では阿賀川。新潟県では阿賀野川と呼ばれています。
この阿賀川は河口から遡る形で弥生式土器が入って来ています。それまでは縄文式土器が出土されているが、段々と弥生式土器が阿賀川を遡っている。この弥生式土器を作った人物は弥生人なのか。
弥生時代であっても縄文人の血筋は当然続いています。大陸から渡って来た弥生人が弥生式土器を作っている訳ではないでしょう。
縄文式土器は岡本太郎曰く芸術品です。装飾が素晴らしい。そして縄文の名がつく様に縄で模様を付けている。これは蛇神への信仰が伺われます。
それに対して弥生式土器は基本的に装飾が省かれている。ツルンとした感じの土器。現代の土瓶は弥生式土器と言える。何故に装飾が省かれる様になったのか。それは移動を考えて簡略的に作った可能性があると思います。
当時の人たちは土器を持って移動していたとは考えにくい。持って行ったとしても最小限度で、滞在したその場、その場で土器を作っていた可能性が高い。どうせ移動するのであれば土器としての機能すればそれでいい。そう考えて装飾は省かれたのだと思います。
その反対に縄文式土器は移動を考えて作られなかった。その地で定住していたから装飾が施されていたと考えられます。
その点で考えて弥生式土器を作りつつ阿賀川を遡って行ったのは、産鉄を目的として移動していたアタ族が考えられる。
アタ族の会津への旅は新潟県に注ぐ阿賀野川の河口からスタートしている。
新潟県はその昔、越の国と呼ばれていた。その越の国で産鉄をしていたと考えると思い浮かべる人物、否、生物がおります。その生物の名は八岐大蛇。
八岐大蛇は素戔嗚尊に強い酒を飲まされ殺されてる。そしてその尾から草薙剣が出てきた。つまり草薙剣を作ったのは八岐大蛇。八岐大蛇は産鉄の一族であると考えられる。
八岐大蛇は素戔嗚尊に敗北した。敗者は逃げる。敗北の名の通り北へ・・・・っとは言わないまでも素戔嗚尊の勢力が及ばない場所。そうなると東北。一番近いのが会津。そんなところじゃないでしょうか。
私、以前にも書いていますが、八岐大蛇の正体は記紀で被害者として描かれた手名稚命・足名稚命と考えています。その一つの証拠として福島県には会津磐梯山や鹿狼山等々に手長足長の伝説が多い。
信州も地主神は手長足長。手長神社、足長神社は建御名方神を祀る諏訪大社よりも古い筈です。元々諏訪大社の祭神は手長足長だった可能性がある。諏訪大社に祀られる神は蛇神に間違いないので。
「手名稚命・足名稚命=手長足長」説を取るならば、素戔嗚尊側の手名稚命・足名稚命が福島に手長足長として存在するのはおかしい。
これは最初に渡来した天津神である素戔嗚尊を正当化する為にでっち上げた。出雲を最初に征服した素戔嗚尊を、全て八岐大蛇の悪行のせいにして正当化したのではないかと考えます。
つまり出雲の元々のリーダーは手名稚命・足名稚命の一族で、素戔嗚尊に征服され服従した者もいれば、東北に逃げた者もいる。その逃げた者は手長足長として全国に散らばったのではないでしょうか。
続く。
会津に逃げてきた海人族ですが、アタ族、或いは安曇族とも呼ばれている様です。
福島県は安達太良、安積、熱海、安達ケ原、阿賀川等々、アタ族に由来する地名が多い。そしてそれらの地は産鉄の地でもある。会津まで逃げてきたアタ族は逃げてきたのではなく、鉄を求めて会津まで来たのではないか。
その可能性は十分有りますね。そして内陸部まで来てしまったが生魚への欲求があった。でも川魚は回虫が心配で食べられない。だから馬と鳥を刺身で食べたのではないか。信州も安曇族の拠点となっていたが、やはり馬刺しは名物になっている。安曇族、アタ族は生食の文化を持っている。
ここて一つ疑問点があります。縄文時代の日本人は食べ物は生では食べなかった。全て煮て食べていた。これは貝塚を調べて確実視されています。っと言う事は会津のアタ族は縄文人ではない。少なくても縄文時代に会津に来た訳ではないのは確か。では何時の時代に会津に来たのか。
これは一つの過程ですが、会津には阿賀川が流れています。河口は新潟県。福島県では阿賀川。新潟県では阿賀野川と呼ばれています。
この阿賀川は河口から遡る形で弥生式土器が入って来ています。それまでは縄文式土器が出土されているが、段々と弥生式土器が阿賀川を遡っている。この弥生式土器を作った人物は弥生人なのか。
弥生時代であっても縄文人の血筋は当然続いています。大陸から渡って来た弥生人が弥生式土器を作っている訳ではないでしょう。
縄文式土器は岡本太郎曰く芸術品です。装飾が素晴らしい。そして縄文の名がつく様に縄で模様を付けている。これは蛇神への信仰が伺われます。
それに対して弥生式土器は基本的に装飾が省かれている。ツルンとした感じの土器。現代の土瓶は弥生式土器と言える。何故に装飾が省かれる様になったのか。それは移動を考えて簡略的に作った可能性があると思います。
当時の人たちは土器を持って移動していたとは考えにくい。持って行ったとしても最小限度で、滞在したその場、その場で土器を作っていた可能性が高い。どうせ移動するのであれば土器としての機能すればそれでいい。そう考えて装飾は省かれたのだと思います。
その反対に縄文式土器は移動を考えて作られなかった。その地で定住していたから装飾が施されていたと考えられます。
その点で考えて弥生式土器を作りつつ阿賀川を遡って行ったのは、産鉄を目的として移動していたアタ族が考えられる。
アタ族の会津への旅は新潟県に注ぐ阿賀野川の河口からスタートしている。
新潟県はその昔、越の国と呼ばれていた。その越の国で産鉄をしていたと考えると思い浮かべる人物、否、生物がおります。その生物の名は八岐大蛇。
八岐大蛇は素戔嗚尊に強い酒を飲まされ殺されてる。そしてその尾から草薙剣が出てきた。つまり草薙剣を作ったのは八岐大蛇。八岐大蛇は産鉄の一族であると考えられる。
八岐大蛇は素戔嗚尊に敗北した。敗者は逃げる。敗北の名の通り北へ・・・・っとは言わないまでも素戔嗚尊の勢力が及ばない場所。そうなると東北。一番近いのが会津。そんなところじゃないでしょうか。
私、以前にも書いていますが、八岐大蛇の正体は記紀で被害者として描かれた手名稚命・足名稚命と考えています。その一つの証拠として福島県には会津磐梯山や鹿狼山等々に手長足長の伝説が多い。
信州も地主神は手長足長。手長神社、足長神社は建御名方神を祀る諏訪大社よりも古い筈です。元々諏訪大社の祭神は手長足長だった可能性がある。諏訪大社に祀られる神は蛇神に間違いないので。
「手名稚命・足名稚命=手長足長」説を取るならば、素戔嗚尊側の手名稚命・足名稚命が福島に手長足長として存在するのはおかしい。
これは最初に渡来した天津神である素戔嗚尊を正当化する為にでっち上げた。出雲を最初に征服した素戔嗚尊を、全て八岐大蛇の悪行のせいにして正当化したのではないかと考えます。
つまり出雲の元々のリーダーは手名稚命・足名稚命の一族で、素戔嗚尊に征服され服従した者もいれば、東北に逃げた者もいる。その逃げた者は手長足長として全国に散らばったのではないでしょうか。
続く。