先日、昨年から通院している心療内科・精神科・内科のクリニックに行ってきた。
このクリニックはネットでの評判が悪い。入院施設があると言う事は、重度の患者が通院していると言える。だから評価が低かったのだろう。仙台では良い心療内科だと私は思っている。
私は精神病の薬の怖さを知っている。抗うつ薬には依存症がある。薬なしでは生きていけなくなる。薬を切らすと精神に異常をきたし、幻覚を見るようになる。そうなったら人間、御終いである。そう思っていたのである。
母が認知症になった。私の名前も覚えていない。認知症の感覚は分からないが、かつての自分とは違う存在になる。それは自分にとって正なのか負なのか。
かつての苦しみも忘れるのであれば鬱病は治るのではないだろうか。しかし、自分の歴史と言える記憶を無くすのは辛い。自分が自分で無くなる。それは肉体は生きていたとしても心は死んでいる事になるのではないか。
否、多少の記憶は残っている筈。っと言う事は心は半分死んだ状態と言えるのか。
昨年亡くなった私の父はアルツハイマーでありパーキンソン病でもあった。
実は私が5歳の頃から父親の異常性に気が付いていた。私が生まれる前に父親を事故で亡くした。姉を癌で亡くした。そして最近分かったのだか兄も亡くしていた。その辛さから精神に異常をきたしていたのだろうか。
私の通っているクリニックは入院施設がある。精神病患者が入院する。その為か、明らかにおかしい人物も通院している。
元々そうなのか。段々とおかしくなったのか。急におかしくなったのか。私もおかしくなっているのか。
私は元記者をしていたこともあり、話し方は上手い方だと思う。質問に的確に答えられる方だと思う。医師も私の鬱は軽いと感じているようだ。回復に向かってきていると言っていたし。
しかし、薬が無いと苦しくて辛いのだ。薬で本来の人格を変えているのだ。薬を飲んでいる私は本来の自分ではないのだ。それって治ってきていると言えるのだろうか。
私がこんなブログを書いているのは、自分を保つ為でもある。書きながら本来の自分と会話しているのである。
考えてみたら私ほど子供の頃と変わらない人間は珍しいのではないか。来月、59歳になるが全然そんな感覚が無い。東京へ旅立った26歳の時の自分と変わっていない。
もう一度26歳になって東京で働きたい。その想いが強いから26歳から進歩が無いのだろうか。
医師は回復に向かっていると言っているが、私は元々鬱病ではなかったのか。
HSPゆえに考えに考えないと動けない性格である。今の私はいくら考えても答えが出ない。否、答えは出ているのだが空しくて動けないのである。
26歳の時の私は動けた。現在の私は動けない。それは老いたから。
その点を考えると認知症と鬱病は似ている。同質と言える。
ただ、鬱病は治る可能性がある。大いなる幸せで満たされれば治る。鬱病を治すには幸せになるしかない。
「自分は幸せだ」と思い込む。念じる。そうすれば鬱病は軽くなるらしいのだが、そんな事で納得する私ではない。そんな馬鹿ではない。だから治らないのか。
そんな事ばかり考えていると最終的には死に辿り着く。死が解決策だと気付く。
自殺者にとってはそれが最良の答えだったのだろう。
でも、寿命を残して死ぬのは勿体ない部分もある。辛さを忘れれば生きていける。そうなると認知症にもメリットがあるのではないか。
こんな事まで考えてしまうのはHSP故か。否、それもあるだろうが幸せだと感じた事が少ないから。成功体験が少ないからなのだろう。
私の場合、成功が失敗に繋がるケースが多かった。だから裏を考える性格になった。人を信じられない性格なったのだろう。
それもまた私の経験値であり人生の結果なのだろう。そにれ向き合う事が私の人生なのだと言える。
っと言う事は鬱は回復に向かっていないのではないか。老化して体力が落ちたから希望が持てなくなった。だから鬱になったのか。
まっ、チョットした事でも良い。それをBIGFUNと感じる事としよう。それしか心を維持する方法が思いつかないし。
それにしても今日は寒いなぁー。
ではでは。