諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

今頃だが「ゴジラ-1.0」を視ての感想。その2

2024年06月25日 22時03分31秒 | 映画・ドラマ
続きます。

銀座はゴジラの放射砲で半径6キロが焼失。それでも占領軍であるアメリカは、ソビエト連邦に考慮して軍事行動が出来ない。

ゴジラは放射砲を放った自身のダメージで一旦海に帰ったが、また上陸してくるのは目に見えている。

そこで駆逐艦・雪風の艦長を中心にゴジラを相模トラフまで誘き出し、フロンガスにより海峡まで引き落とし、更には浮上させる時の減圧でゴジラを殺す「海神作戦」を発表。

敷島はそれだけでは不十分として、戦闘機による誘導を発案。後部にプロペラがある震電の整備を橘に依頼。特攻の意思を伝え、震電の前部に爆弾を積んで整備させる。

海神作戦は決行。海峡までゴジラを沈めることには成功するが、バルーンは食い千切られゴジラの急浮上には失敗。そこに震電に乗った敷島はゴジラの口に目掛けで特攻を敢行。ゴジラの頭部を吹き飛ばした。

死んだと思われた敷島は、橘が震電に備え付けた脱出装置により生還。更には爆風で吹き飛ばされた典子も生きていたと知り病院へ。

典子は敷島に「戦争は終わりましたか」と尋ね、敷島もそれにこたえて頷く。

しかし、典子にはゴジラ細胞と思われる黒い痣が出来ており、ゴジラも海底で再生しつつあった。終焉。って感じですかね。

この原作は優秀です。90点は上げて良い。でも、人間って限界を超えたら死が待っているものです。それが人生ってヤツです。

放射能を浴びる前の体長15メートルのゴジラだったら、敷島はゼロ戦の機銃で殺せた可能性があった。それを恐怖でできなかったから3万人が亡くなった。

その罪を考えたら、ハッピーエンドで終わらせるのは罪だと思います。私が原作者だったら敷島に罪を償わせて死亡させます。それが命の有意義な使い方ですから。

敷島が何としても生き延びようとした気持ちは分かります。親からの手紙で「何としても生き延びる様に」と書かれてあった。だから特攻から戻り、ゴジラに機銃も打てなかった。

生き延びて戻ったら両親は亡くなっていた。その哀しさ、辛さを十分に描かれなかった。放映時間の関係はあったと思いますが、長いストーリーをコンパクトにまとめ過ぎた感じがします。その点は血が通っていなくて残念です。

それとゴジラ。体長50メートルに設定したのは70年前のゴジラと同じ体長なので良いと思います。しっかりと発達した腕にしたのも良いです。でも、放射砲を放つ前のボコボコボコボコと段々と隆起する背ビレは必要かなかった。

ゴジラの生物感が薄れた。あれでは生物と機械が合体したガメラと同じに見える。ゴジラの生物としての怖さがスポイルされた。

怖さと言ったら、ゴジラが人を食べるシーンを省いた点も挙げられます。

それは仕方がないのも分かります。東宝との規約でゴジラは人間を食べない契約になっていますから。

だからアメリカ製のゴジラも人間は食べていない。シン・ゴジラも歯の形状から人を食べない説明をしている。

映倫の関係もあるでしょう。。折角のゴジラ映画なのに成人指定にする訳にはいかない。だったらゴジラか人を咥えて投げ捨てるシーンはいらなかった。踏みつけるシーンだけでよかった。

でも、ゴジラは爬虫類ベースの生物なのです。鮪も食べれば人間も食べる。それが生物。

私なら何としても人間を食べるシーンを入れます。例え企画を変えてでも。


続く。




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