諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

熊野の本地、五衰殿。 その11

2015年05月30日 00時17分22秒 | 神道

続きますわよ。

さて、次に気になるのが「とうはつの玉剣」です。私は髪を切る「頭髪の剣」なのかと思っちゃいましたが違いました。この剣は古事記・日本書紀に登場する「豊布都神(とよふつのかみ)」を示しているそうです。

この豊布都神ですが、武士の棟梁である物部氏の氏神である石上神宮の御神体・フツ霊神剣の事だそうです。

「フツ」と言いますと「人をフツっと切る」経津主を思い出しますね。陸奥国一ノ宮・塩竃神社にも祀られていますが、これは蝦夷を殺した言い訳??して祀ったのだと考えます。

それは兎も角、五衰殿を「とうはつの玉剣」てフツっと切る。これは死即生。つまり殺して産まれ返させる意味合いがあります。

先代旧事本紀に「死人も返り生きむ。是れ即ち謂ふところの布瑠(フル)の言本なり」と書かれてます。フツとフルは同じですね。簡単に言うと殺す事も祓い清めと言う事です。

因みに「子連れ狼」の拝一刀のような介錯人(首切り人役人??)は、元々物部氏の世襲だったそうです。殺す事が物部氏の鎮魂と言えます。以前話したイオマンテもそうですが、処刑人は昔は高尚な職業だったと言う事です。

五衰殿は醜い姿だった。夫に愛されなかった。美しい姿になったら夫の愛を独占し、先妻達に嫉妬された。妊娠したら不義密通の疑いがかけれれた。無実の罪で処刑された。死で子供と別れなければならなかった・・・・・・・・・等々、女性としては最悪??の人生を歩んだ訳です。これは聖婚を意味しています。

つまり神は神でありながら人間として産まれ、人間の苦しみを味わい、無実の罪をかけられ殺され、そして蘇る。これは神は人間として産まれる前も神であり、人間となっても神、そして殺され蘇っても神と言う事です。

これは無実の罪を背負う事も祓い清めである事を示していると思います。そして人間の罪を神が代わって背負う。これが祓い清めの神の役割であると思います。

スピリチュアルなヒーラーさん達の中には、「私は神である」、「神の生まれ変わりである」と言う人が大勢いますが、私は神道の考えから有り得ないと思っています。

だって一度人間として生まれて酷い人生を歩んで無実の罪で処刑され、また神として蘇る訳です。それなのに何故もう一度人間としての人生をやり直さなければならないのでしょうか。

「ダライラマはどうなのだ」と言われても困りますが(神ではなく仏の生まれ変わりって事ですかね)、私はどうしても信じられません。

神の聖母になりたいとする人もいます。しかし、神を宿す女性は皆幼女です。神功皇后は5歳で応神天皇を宿し、7歳で出産してます。巫女も本来は幼女でなければなりません。いい歳した女性には聖母も巫女も無理です。

「私は神だ、聖母だ、巫女だ、跪け」と言われても困っちゃいますね。

自分一人で神様ごっこするなら良いですが、神を語り人を惑わす事は良くないと思います。

私、思うのですが、そんな事言っている人たちは神の眷属から罰を受けるのではないかと危惧してます。本来、神やその眷属の役割を人間が行うなどおこがましいです。

現にヒーラーの方々には体調を崩したり、事故にあったり、大病を患っている人を多々見かけます。罰が当たっているとしか思えません。そう言う私だって警告されたとしか思えない出来事を体験しています。神には畏怖の心が必要だと思います。

その点、重々考えなければならないと思いますね。

 

続く。

 

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 熊野の本地、五衰殿。 その10 | トップ | 熊野の本地、五衰殿。 その12 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

神道」カテゴリの最新記事