さて、のびのびになっていましたが、「永井平九郎」シリーズの続きです。
その前に何故のびのびになってしまったか言い訳させていただきますと、文章はほぼ書き終えて、チョット不確かな点を調べている最中に、書いていた文章が消えたからです。パソコンだけじゃなく機械音痴の私にはよくある事なのですが、落ち込んじゃったんです。
何か、私の人生、そのものだなぁーって感じで。
まあ、立ち直るのに時間がかかっちゃったって事ですわね。
さてさて、この「御鍋神社」には、「永井平九郎」について、もう一つ、違う説があります。それは何と「永井平九郎は平将門の息子」とも言われているのです。
まあ、初めにお題でそう書いちゃいましたから読んでいる皆さんは驚かないでしょうけど、私は驚きました。
それ以上に、何で誰も「永井平九郎」に注目して来なかったのか不思議です。だって「平将門」の息子ですよ。それも「桔梗姫」との。
これって、凄いことだと思うのですが、何故、誰も研究する人いなかったのでしょうねぇー。
だって、「平将門公」の一族として「千葉氏」や「相馬氏」が挙げられますが、「平将門公」の直系の子孫ではないんです。直系の子孫は行方不明となった「平将国」以外、全て討ち取られたと言われているので、「永井平九郎」が生きていて、「平将門公」の血脈を後世に伝えていたとしたら、こりゃ、一大ニュースですよ。
まあ、そうならなかったのは、多分、眉唾物だと思われたのでしょう。
でも、調べる価値はあると思うのですが、これは調べる術が無かったのかも知れませんね。まあ、そんな事だろうと思います。
息子説に付いては、「御鍋神社」の由緒書きに、こう書かれています。
「平将門公が戦に敗れ奥州清原氏を頼り逃げ延びていた際に、妻の桔梗の前は平九郎を産んだが、行軍に女が足手惑いになるのを恐れて、桔梗姫は一族に平九郎を託して自害。
一族はこの地に留まり、本神社を祀り再起を図っていた。しかしながら、飢餓がつづき一族は三々五々次第に他の地に移住し、神社だけが残った」と言う事でした。
まあ、それが正しいかどうかは最後に私の妄想を持って総括したいと思いますが、取り敢えずこれが、「永井平九郎、平将門公の息子説」となります。
ここで、「永井平九郎」を知る為にも、一寸だけ簡単に「平将門公」について説明しときます。知っている人は、すまんこってす。
そんでわです。「平将門公は、平安時代中期の関東の豪族。平氏の姓を授けられた高望王の三男・平良将の子。桓武天皇五世。下総国、常陸国に広がった平氏一族の抗争から、やがては関東諸国を巻き込む争いへと進み、その際に国衛を襲撃して、何か分かんないけど印鑑??を奪い、京都の朝廷・朱雀天皇に対抗して「親皇」を自称し、東国の独立を画策。朝敵になるも即位後かずか2ヶ月足らずで、藤原秀郷、平貞盛連合軍によって討伐(承平天慶の乱)。死後は御首神社、築土神社、神田明神、国王神社等に祀られる。武士の発生を示すとの評価あり。合戦においては所領から産出される豊富な馬を利用して騎馬隊を駆使し、反りを持った最初の日本刀を作らせたと言われている。」そうです。
以上、ウィキペディアからそっくり頂き書いてみました。簡単に書くと言っておきながら、余りにも「将門公」の伝承が多すぎて、諦めでコピってしまいました。すんません。
まあ、「平将門公」=天下の逆賊って事ですね。朝廷側からすれば。でも正義は「将門公」にあることは誰だって分かると思います。朝廷は征服者ですからね。
そこで思ったのですが、日本三大逆賊って、「平将門公」の他に、時代は違えど「ナガスネヒコ」、「アテルイ(悪路王)」が挙げられますが、伝説で考えるとこの三者のストーリーって、凄く似てます。
最終的に裏切られていますし、戦った理由は征服者への反抗ですし、正義はこの三者(三神??)にあるし・・・・。
そしてこの三者には、ある女神が関わっているのではと思えるのです。
それを書き込むとまた長くなっちゃいますんで止めときますが、「平将門公」に付いては、また改めて書いてみたいと思います。
もう疲れちゃったので・・・・・・。
ではでは。