諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

永井平九郎は平将門の息子!?

2013年01月13日 10時29分17秒 | 永井平九郎

さて、のびのびになっていましたが、「永井平九郎」シリーズの続きです。

 その前に何故のびのびになってしまったか言い訳させていただきますと、文章はほぼ書き終えて、チョット不確かな点を調べている最中に、書いていた文章が消えたからです。パソコンだけじゃなく機械音痴の私にはよくある事なのですが、落ち込んじゃったんです。

何か、私の人生、そのものだなぁーって感じで。

まあ、立ち直るのに時間がかかっちゃったって事ですわね。

 さてさて、この「御鍋神社」には、「永井平九郎」について、もう一つ、違う説があります。それは何と「永井平九郎は平将門の息子」とも言われているのです。

 まあ、初めにお題でそう書いちゃいましたから読んでいる皆さんは驚かないでしょうけど、私は驚きました。

 それ以上に、何で誰も「永井平九郎」に注目して来なかったのか不思議です。だって「平将門」の息子ですよ。それも「桔梗姫」との。

 これって、凄いことだと思うのですが、何故、誰も研究する人いなかったのでしょうねぇー。

だって、「平将門公」の一族として「千葉氏」や「相馬氏」が挙げられますが、「平将門公」の直系の子孫ではないんです。直系の子孫は行方不明となった「平将国」以外、全て討ち取られたと言われているので、「永井平九郎」が生きていて、「平将門公」の血脈を後世に伝えていたとしたら、こりゃ、一大ニュースですよ。

 まあ、そうならなかったのは、多分、眉唾物だと思われたのでしょう。

でも、調べる価値はあると思うのですが、これは調べる術が無かったのかも知れませんね。まあ、そんな事だろうと思います。

 息子説に付いては、「御鍋神社」の由緒書きに、こう書かれています。

 「平将門公が戦に敗れ奥州清原氏を頼り逃げ延びていた際に、妻の桔梗の前は平九郎を産んだが、行軍に女が足手惑いになるのを恐れて、桔梗姫は一族に平九郎を託して自害。

一族はこの地に留まり、本神社を祀り再起を図っていた。しかしながら、飢餓がつづき一族は三々五々次第に他の地に移住し、神社だけが残った」と言う事でした。

 まあ、それが正しいかどうかは最後に私の妄想を持って総括したいと思いますが、取り敢えずこれが、「永井平九郎、平将門公の息子説」となります。

 ここで、「永井平九郎」を知る為にも、一寸だけ簡単に「平将門公」について説明しときます。知っている人は、すまんこってす。

 そんでわです。「平将門公は、平安時代中期の関東の豪族。平氏の姓を授けられた高望王の三男・平良将の子。桓武天皇五世。下総国、常陸国に広がった平氏一族の抗争から、やがては関東諸国を巻き込む争いへと進み、その際に国衛を襲撃して、何か分かんないけど印鑑??を奪い、京都の朝廷・朱雀天皇に対抗して「親皇」を自称し、東国の独立を画策。朝敵になるも即位後かずか2ヶ月足らずで、藤原秀郷、平貞盛連合軍によって討伐(承平天慶の乱)。死後は御首神社、築土神社、神田明神、国王神社等に祀られる。武士の発生を示すとの評価あり。合戦においては所領から産出される豊富な馬を利用して騎馬隊を駆使し、反りを持った最初の日本刀を作らせたと言われている。」そうです。

以上、ウィキペディアからそっくり頂き書いてみました。簡単に書くと言っておきながら、余りにも「将門公」の伝承が多すぎて、諦めでコピってしまいました。すんません。

 まあ、「平将門公」=天下の逆賊って事ですね。朝廷側からすれば。でも正義は「将門公」にあることは誰だって分かると思います。朝廷は征服者ですからね。

そこで思ったのですが、日本三大逆賊って、「平将門公」の他に、時代は違えど「ナガスネヒコ」、「アテルイ(悪路王)」が挙げられますが、伝説で考えるとこの三者のストーリーって、凄く似てます。

最終的に裏切られていますし、戦った理由は征服者への反抗ですし、正義はこの三者(三神??)にあるし・・・・。

 そしてこの三者には、ある女神が関わっているのではと思えるのです。

それを書き込むとまた長くなっちゃいますんで止めときますが、「平将門公」に付いては、また改めて書いてみたいと思います。

もう疲れちゃったので・・・・・・。

 

ではでは。

 

 

 

 

 

 

 

 

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永井平九郎と御鍋神社 その2

2013年01月05日 23時29分52秒 | 永井平九郎

「平ノ九郎」の意味について語ると言っておきながら、まだ、「御鍋神社」の所在地、まだ言っていませんでしたね。

後々書くと訳が分からなくなりそうなので、今書いときます。

 

さて、「御鍋神社」の鎮座する場所はと言うと、福島県天栄村の二岐温泉(ふたまたおんせん)のあたりです。

天栄村と言うと羽鳥湖のレジーナの森やスキー場、発泡スチロール??で出来たジャパンドームハウス製のホテル当たりが有名なのでしょうか。名産は健康食品のヤーコンくらいなもんだと思います。

 

二岐温泉は、温泉作家(こう言うのか知りませんが)が最初に「秘湯」と呼び始めた温泉らしいです。それだけとんでもない山奥にあるという事ですわね。

 

実は私もまだ「御鍋神社」へは行っていませんし、詳しい住所も分かりません。かなり山奥に入るようなので、ちゃんとした住所はないと思います。

 

まあ、私のブログを読んで、「御鍋神社」に行きたいと思われる奇特な方はいないと思いますが、ちょっと行き方をご説明しますと、二岐温泉から二岐橋を渡り、二岐林道に出て、小白森山登山口の看板から4キロの道のりです。神社までは二俣川に沿って道が続いていて、「御鍋林道」とも言うらしいです。

車で行けないこともないようですが、かなりのダートで、バイクならオフロードでないとダメみたいですね。

途中、「山の名水百選(誰が選んだのだろ)」にも選ばれた「桔梗清水」があるそうですが、説明文には「源義経の側室の桔梗姫が使用した清水」とあり、「桔梗の姫のかくし清水授水場」と呼ばれているそうです。

うーん、これって間違っていると思うのですがね。源義経の側室に桔梗姫なんていないし、多分、「静御前」と間違えたのでしょう。

これまた多分ですが、、「源九郎義経」も「永井平九郎」と間違えたのだと思います。「九郎」違いです。ご苦労な事です。まあ、伝説なんてこんなもんです。

 

「御鍋神社」の目印は、鳥居がわりに「森の巨人百選(村起しの一環ですかね)」に選ばれた二本のサワラの巨木が立っており、その隙間から大鍋(本当は大釜)が見えます。

ハイキングコースにあるような神社なので、当然、神職の方が常駐しない無人の神社です。

 

何故、こんな人目を隠すようなところに鎮座しているかと言うと、「永井平九郎」は時の朝廷に追われている逃亡者ですので、ここまで逃げてきたからと言う事ですね。

 

その「永井平九郎」に付いては、諸説色々あります。

例えば、「永井平九郎は平将門公の家臣で、時の朝廷に叛旗を翻した将門公を諌めたが聞き入れられず、将門公は戦中、額に矢を受けで死亡。

"そんでわっ"ってことで、永井平九郎は時の帝から賜った鼎を持ち、将門公の側室の「桔梗姫」を伴い、一部の一族を連れて、追っ手からこの地まで逃げてきた。

桔梗姫はその時、将門公の子供を宿しており、逃亡中に出産。桔梗姫は出産後、か弱き女の身での逃亡は足手纏いになるとして、その場で自害。

永井平九郎は生まれた将門公と桔梗姫の子供を抱え、朝廷の鼎(大鍋??、大釜??)で飯を食い食い逃亡生活を続けるのであった。」と言う説があります。

申し訳ない、少々私のフィクション入りです。

 

ここまで言うとお分かりかも知れませんが、「御鍋神社」には「永井平九郎」の他に、「平将門公」と「桔梗姫」も祀られています。

中央に主祭神の「永井平九郎」。配神として「平将門公」、「桔梗姫」となります。

 

天下の「平将門公」を差し置いて、無名の「永井平九郎」を中央に祀るのは大変おこがましいのではとお思いの方もおられるでしょうが、この伝説の主人公は「永井平九郎」でありますし、「永井平九郎」には別の説というか、まだまだ秘密があります。

 

それはまた次回に、お題を変えてお話したいと思います。

 

ではでは。

 

 

 

 

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永井平九郎と御鍋神社 その1

2013年01月05日 09時09分13秒 | 永井平九郎

えー、お題目はチョット変わりましたが、前回からの続きです。

 永井平九郎の事について、どこまで話したらいいか、問題発言にならないか考えていましたが、その時はその時。気にせず書きたいと思います。

 さて、永井平九郎については、馬鹿でかい福島私立図書館でも結局は発見出来ませんでした。

多分、探し方に問題があるのでしょうけど<限られた時間でそんなマイナーな人物を探すのはやはり難しかったです。永井平九郎を載せていた40年前の本も流石に見つかりませんでした。当然でしょうね。

 しょうがないからまたネット検索です。今度は永井をとって「平九郎」だけで探してみたりしましたが、「曲垣平九郎」なる馬術指南役が江戸の愛宕山の石段を馬で登った話」とかしか出てきません。

 こうなったら丹念に調べるしかないです。そしてら福島県に「平九郎」の地名が出てきた。それならと「平九郎、福島、神社」で検索して出てきたのが、タイトルの「御鍋神社」です。「永井平九郎」を祀る「永井神社」は、この「御鍋神社」に間違いないです(私としては珍しく断言します)。

理由は「平ノ九郎」なる人物が祀られていますし、御神体も大鍋・・・・・・っと、言いたいところですが、こりゃ、どう見ても大釜なんですがね。でもまあ神社の名前が「御鍋神社」なのですから、神社の前に吊り下げられている大釜は大鍋なのだと思います(汗)。

 ここで問題なのが「永井平九郎」を祀る「永井神社」が、何故「御鍋神社」なのか。まあ、理由は3つしかありません。

1.40年前、「御鍋神社」を「永井神社」と私が間違って覚えたから。

2.「永井平九郎」の民話を書いた作者が間違ったから。

3.或いは「御鍋神社」の神社名を作者が伏したから。

の、どれかでしょうね。

そのことについては、今となっては調べる術もないことですし、しょうがないですね。

それと、神社には「平ノ九郎」として祀っているのに、何故、民話では「永井平九郎」となったのか。

「御鍋神社」でネット検索したら、「平将門」研究の第一人者である「村上春樹」氏の書物に「平ノ九郎」を「永井平九郎」として記載されていました。

まあ、多分、地元の言い伝えでも「平ノ九郎」の本名は「永井平九郎」なんだと思います。

それでは何故「平ノ九郎」または「平九郎」として祀ったのか・・・・・。

 その前に、誤解するといけないので、平将門研究科の「村上春樹」氏について申し上げときます。まず、この村上春樹氏は、あの村上春樹氏ではありません。同姓同名で、出身校も同じなので、大抵の人が間違っているようなのですが、ベストセラー作家の村上春樹氏ではないのです。

 私も「平将門公(祟りが怖いので、今後、公を付けて表記します)」に大変興味があるので、研究家の方の村上春樹氏の本をアマゾンで調べてみたら、アマゾンでの購入者のコメントに、「あの村上春樹が、平将門公の研究してたのかと勘違いして買ってしまった」旨の記載がありました。

そりゃ、そうですわねぇー。私だってそう思いましたしね。

 この村上春樹氏の平将門公研究本は数冊あるようですが、アマゾンでのお値段が、皆、数万円してます。今の私には買えませんわ(涙)。

何れ、私自身が復興したら買いたいと心にチョットだけ刻んだつもりになっている次第です。

 

つづく。

 

 

 

 

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永井平九郎と鬼渡神社 その3

2013年01月02日 04時53分15秒 | 永井平九郎

続きます。

まぁ、長々と書き込みましたが、結局のところ、永井神社の祭神は分からずでした。

 しかしながら、私、この永井神社の雰囲気が大好きになり現在まで3回ほど参拝に詣っています。

無人の神社ながら、正月に一升瓶の地酒と升を置いて参拝客を労っているところに親しみを感じました。流石福島県です。勿論、永井と冠しているいることもありますが、実家のような気がしましたね。

大変不謹慎ですがトイレと風呂があったら、住んでも風流だなとも思いました。

 それから季節は過ぎ、夏間近の6月に高校教師の知人のパジェロに私のカートップボートを載せ、裏磐梯の桧原湖へスモールマウスバスへ行ってきました。毎年恒例でした。

震災後は桧原三湖の魚にも高濃度放射能が検出されて、今は行っていません・・・・(涙)。

 何故か分かりませんが、淡水魚は放射能が蓄積されやすいため、渓流魚等の淡水魚は福島県だけでなく、宮城県や遠く離れた岩手県でも採取が禁じられています。

 昨年、近所に釣具の上州屋が開店し、リョービの投げ竿、船竿、磯竿、ルアー竿、渓流竿が1500円均一、3000円均一で売っており、もう海の釣りは放射能でダメだから、渓流釣りを本格的にやろうと考え、テンカラ竿1竿、渓流竿2竿、大人買い??しちゃったのですが、まさか宮城県や岩手県までダメとは思いませんでした。

どうりで安売りしていた訳です。それなのに、福島原発から35キロしか離れていない「いわき市」が渓流も海もOKなのは分かりませんね。ホント、どうなってるんだろ。

 話を戻します。釣行は1泊で朝早く切り上げ、福島市の市立図書館に寄りました。

この図書館、福島大学の跡地に建てたのですが、まぁー無意味なくらいデカいです。訳のわからない巨大プールのような噴水なんかもあるとし、図書館としての規模は、日本一じゃないでしょうか。

レストランも完備し、料理には訳の分からないピラルクーのカルパッチョ(もう食べません)まであるし、人知を超えた図書館でした。

まあ、放射能マネー・・・・・じゃなかった、原発マネーが落ちる福島県では、これが普通なんですがね。

 さて、図書館に寄った目的は、「永井平九郎」と「永井神社」を調べる為なのは、言うまでもありません。

宮城県にも「上物にいくら金かけりゃ気が済むんだ」と言いたくなるような、現代アート作品のような図書館がいくつもあるのですが、本がまたショボイ。当たり前の本しか置いておらず、全然調べることは出来ませんでした。だからまあ、福島県市立図書館まで寄った次第です。

 そして調べた結果、色々とアプローチしましたが「永井平九郎」に付いては分からず。

「永井神社」も祭神は不明。しかしながら「永井神社」を名乗る以前は、「鬼渡神社」、「神渡神社」、「三輪渡神社」であったことが分かりました。

 長くなりましたが、これが私の「鬼渡神社」を知った経緯です。

 「神渡神社」の呼び名ですが、「神」=「鬼」と考えて良いと思います。それと前にアイヌ語訳で「神」=「蛇を産む、蛇女」と訳しましたが、蛇も関係ありでしょうね。

 「鬼渡神社」は何故か「諏訪神社」と合わせて祀られているケースが多いのですが、諏訪湖の「御神渡り」と「神渡」」は関係すると思います。建御名方神との関係はまだ分かりません。建御名方神の事もよく分かりませんし・・・・・・。

 また、「三輪渡神社」の呼び名ですが、「永井神社」の所在地は「三和町(みわまち)」ですので、福島県の地名辞典にもその理由は載っていませんでしたが、「三輪渡神社」の呼び名から町名が付いた可能性もあると思います。

 「三輪渡」と言うと大物主を祀る「三輪山」を思い出しますが、「三輪」とは「巳輪」。へび年だから言う訳ではないですが、「とぐろを巻いた蛇」の意味と考えます。

因みに正月に飾る「鏡餅」ですが、あの形はとぐろを巻いた蛇を表しています。「鏡」は「蛇々身」という事です。

 また、私は毎年仙台・桜岡大神宮の神輿を担いでいますが、神輿の中には御神体として丸い鏡を載せています。あの丸い鏡は「蛇の目」を意味していますし、鏡餅に載せている蜜柑も「蛇の目」の意味です。正月に鏡餅を飾ると言う事は、大年神も蛇神と言う事だと思います。

 最後に「鬼渡神社」ですが、郡山市等、会津の中心に「鬼渡神社」集中して鎮座しています。祭神は「阿須波神」、「波比岐神」。永井神社も両神を祭っている可能性は高いと思います。

 この両神は前出の「大年神」と「天知加流美豆姫」の子供とされているが、ヒロエスガモス(聖婚)で考えれば、同神の可能性もあります。

 因みに「阿須波神」、「波比岐神」とも払い清めの神ですが、両神の名前が、イザナギ尊の払い清めの池であり、卑弥呼の出生の地とされる「阿波岐原」から名付けられたと考えているのですが、どうでしょうね。

まっ、その意味合いは小刻みにお題を上げて考えて行きたいと思います。

 あっ、肝心の「永井平九郎」を忘れていました。実は見つけました。

それは次回、お題を変えて語りたいと思います。

 

ではでは。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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