また昔の話で恐縮ですが、小学1年生の絵日記を見ながら、
生活の細部を思い出してみました。
①ちり紙
小学一年生の私が自転車の後ろに積んだ
ちり紙とはどんなものだったのか?
トイレットペーパーの前身であるトイレのおとし紙と思ったのは、
当時の汲み取り式のトイレの便器の斜め左あたりに、
長方形の竹で出来た籠がおいてあって、
そこに灰色のごわごわしたおとし紙がおいてあったのを
思い出したからです。
多分、当時5人家族のわが家で一番消費する紙は、
このちり紙だと思ったのです。
後にはもう少し白くてやわらかな品質になったと思いますが、
地方に行くと、切った新聞紙が置いてあることがありました。
幼い私は、こんなに固いものでどうやって拭くのだろうと、
泣きそうになり、恥ずかしいので誰にも聞けず、
トイレ恐怖になった覚えがあります。
うろ覚えですが、新聞紙どころか、
藁が置いてあったこともあるのでは?
母にたずねても、このちり紙、
どういう形態のものを買ってきたのか、覚えていないそうです。
少し調べてみましたが、
どうもこのおとし紙の歴史は江戸時代に遡るらしいのです。
江戸時代は紙のリサイクルが徹底して行われ、
回収された古紙を再生して使っていましたが、
おとし紙として使われるのは簡単な再生紙で、
色が残っていたりゴミが交じっていました。
色を抜いたり手間をかけて丁寧に再生されたものは、
上等な紙として使われます。
どうやら、高度成長期前はその江戸時代からの
システムの続きらしいのです。
やがて水洗トイレの普及とともにロール状になった
トイレットペーパーが使われるようになりました。
しかし、確か、トイレのおとし紙のほかに、
鼻をかんだりするための、ちり紙もあったはず。
小学校で、ハンカチちり紙検査というのがあって、
毎朝ポケットにハンカチとちり紙をたたんで入れていた気がします。
今でいう、ティッシュペーパー、ポケットティッシュの類です。
家の中のどこにどのように置いてあったのか?
今のティッシュほど大量に消費はしていなかったはずですが、
どこかに置き場所があったはずです。
毎日、学校に持っていっていたのですから。
当時発売されたばかりのティッシュペーパーだったのでしょうか?
どなたか覚えていらしたら、教えてくださると、
このもやもやがすっきりします。
お願いいたします。<m(__)m>
②ジャー
ちっちゃな冷蔵庫の横に、「ジャー」がおいてあったのを思い出しました。
これは、まだ保温機能がついた電子炊飯機が出回る前の商品と思います。
当時うちでは、ガス台で飯盒のご飯を炊いていました。
炊いたご飯が冷めないように、飯盒を布巾でくるんで、
「ジャーに入れて」と頼まれて、入れていました。
金属製の灰色の円筒形で、外蓋を開けるとしっかりとした内蓋があって、
内蓋を開けると中は銀色の鏡のようになっていて、
底の方に飯盒を入れると、上にまだ隙間があったと思います。
しかし、なべの類を入れた覚えはないので、
私が思うより小型であったかもしれません。
もちろんお湯を保温するためのポットよりもずっと大きくて、
私の記憶では外形50cm×1mくらいではなかったかと思うのですが、
子供の記憶ですので、大きく感じたのかもしれません。
母に聞くと、私がまだ1年保育の幼稚園に上がる前(1960頃?)
に買ったもので、温かいものだけでなく、冷蔵庫のなかった時代には
氷を入れて半分に切ったスイカを冷やしたそうです。
私が中学3年生のときの引越しには
このジャーは連れてこなかったらしいので、
保温機能つきの電子炊飯器が現れる前の、
過渡期の製品だったのでしょう。
調べてみると、このジャーは魔法瓶の系譜らしい。
20世紀初頭に世界で普及した魔法瓶が
日本で生産しはじめられたのが1912、
卓上魔法瓶が1923、
大量生産が可能になったのが1963、
象印などはこのときにお米を保温するジャーを作ったらしいのです。
それより以前に、どこのメーカーがジャーを作っていたのか
・・調べた範囲では出てきませんでした。
うすらぼんやり覚えている灰色の金属についたマークは日立ですが、
扇風機も同じ色だったので、扇風機の記憶かもしれませんし。
のちに来た掃除機は東芝だったような気がします。
③扇風機
ちなみに扇風機は私の誕生とともにわが家にやってきました。
熊本から大阪に越してきたばかりで、
母は大阪のむうっとした酷暑に耐えかねて、
扇風機を買ったのだそうです。
確かに赤ん坊にお乳を含ませながら、
団扇を使うことはできません。
私は汗疹(あせも)だらけで、
ドクダミの行水をしてもらったそうです。(今でいう、ハーブバス?)
④洗濯機
これは私が1年生のときではなく、しばらくしてからです。
お風呂場においてありました。
ちなみにお風呂は灯油で沸かすタイプで、
勝手口に炬き口がありました。
この洗濯機、脱水機などはなく、洗濯物を2本のローラーに挿んで、
取っ手を回すと洗濯物が絞れて押し出されてくるのです。
手で絞るよりも楽ですが、何しろ手動ですから、
取っ手を回すお手伝い、洗濯物を挿むお手伝いをしました。
洗濯物もうまく平均して薄くして入れないと、
取っ手が回らなくなりますから、気をつけました。
これが来る前、母は「たらい」で洗濯板を使って洗っていました。
手洗いの方がよく落ちるといって、来てからも長く
つい10年前まで「たらい」は使っていました。
⑤洗い張り
電化製品ではありません。
祖母が和服をほどいて、洗い張りをしていたのでお手伝いをよくしました。
商売ではなく、普通の女性がする仕事です。
反物になった着物地を洗って、布の初めと終わりを挿んで
柱から柱に渡したものに、伸子針を打っていきます。
伸子針というのは、両端に小さな針が付いた細い棒で、
竹でてきていたのでしょう、よく撓いました。
布の両端にそれぞれ針を刺すと伸子針は弓状になり、布はぴんと伸びます。
これを20センチ間隔くらいで打っていき、天気のよい日に干します。
皺が寄らないように、きちんと平行になるように、
等間隔になるように気をつけます。
お日様と、割烹着の祖母の背中と、光を通して揺れる反物と。
乾いたら、また和服に仕立て直します。
今ならクリーニングがありますが、昔の女性は忙しかったのです。
お裁縫やお洗濯が苦手では、暮らしてゆけなかったのですね。
おそろしい時代です。(笑)
私などは、主婦失格(今でもそうですが(・ω・;A )間違いなしです。
大柄で骨格のしっかりした明治生まれ祖母と違って、
熱ばかり出して直ぐダウンするチビの私など、
主婦としての役目をまっとうできたとは思えません。
そうそう、洗濯物を干すのも、最初は竹竿、
のちにそれがビニールでコーティングされたものになり、
やがて金属製になりました。
歌人三ケ島葭子は明治19年生まれ。
きっと祖母のようにこまごまと家事をこなしていたに違いありません。
・裾の方は灯に遠し夜の部屋に布子ひろげて綿を入れをり
・天気よくて張物さはに乾きたり布(ふ)海苔の汁の少し餘れる
・竹竿の朽ちて割れ目に入りし雨打ちおとしつつもの干す今朝は
三ヶ島葭子
生活の細部を思い出してみました。
①ちり紙
小学一年生の私が自転車の後ろに積んだ
ちり紙とはどんなものだったのか?
トイレットペーパーの前身であるトイレのおとし紙と思ったのは、
当時の汲み取り式のトイレの便器の斜め左あたりに、
長方形の竹で出来た籠がおいてあって、
そこに灰色のごわごわしたおとし紙がおいてあったのを
思い出したからです。
多分、当時5人家族のわが家で一番消費する紙は、
このちり紙だと思ったのです。
後にはもう少し白くてやわらかな品質になったと思いますが、
地方に行くと、切った新聞紙が置いてあることがありました。
幼い私は、こんなに固いものでどうやって拭くのだろうと、
泣きそうになり、恥ずかしいので誰にも聞けず、
トイレ恐怖になった覚えがあります。
うろ覚えですが、新聞紙どころか、
藁が置いてあったこともあるのでは?
母にたずねても、このちり紙、
どういう形態のものを買ってきたのか、覚えていないそうです。
少し調べてみましたが、
どうもこのおとし紙の歴史は江戸時代に遡るらしいのです。
江戸時代は紙のリサイクルが徹底して行われ、
回収された古紙を再生して使っていましたが、
おとし紙として使われるのは簡単な再生紙で、
色が残っていたりゴミが交じっていました。
色を抜いたり手間をかけて丁寧に再生されたものは、
上等な紙として使われます。
どうやら、高度成長期前はその江戸時代からの
システムの続きらしいのです。
やがて水洗トイレの普及とともにロール状になった
トイレットペーパーが使われるようになりました。
しかし、確か、トイレのおとし紙のほかに、
鼻をかんだりするための、ちり紙もあったはず。
小学校で、ハンカチちり紙検査というのがあって、
毎朝ポケットにハンカチとちり紙をたたんで入れていた気がします。
今でいう、ティッシュペーパー、ポケットティッシュの類です。
家の中のどこにどのように置いてあったのか?
今のティッシュほど大量に消費はしていなかったはずですが、
どこかに置き場所があったはずです。
毎日、学校に持っていっていたのですから。
当時発売されたばかりのティッシュペーパーだったのでしょうか?
どなたか覚えていらしたら、教えてくださると、
このもやもやがすっきりします。
お願いいたします。<m(__)m>
②ジャー
ちっちゃな冷蔵庫の横に、「ジャー」がおいてあったのを思い出しました。
これは、まだ保温機能がついた電子炊飯機が出回る前の商品と思います。
当時うちでは、ガス台で飯盒のご飯を炊いていました。
炊いたご飯が冷めないように、飯盒を布巾でくるんで、
「ジャーに入れて」と頼まれて、入れていました。
金属製の灰色の円筒形で、外蓋を開けるとしっかりとした内蓋があって、
内蓋を開けると中は銀色の鏡のようになっていて、
底の方に飯盒を入れると、上にまだ隙間があったと思います。
しかし、なべの類を入れた覚えはないので、
私が思うより小型であったかもしれません。
もちろんお湯を保温するためのポットよりもずっと大きくて、
私の記憶では外形50cm×1mくらいではなかったかと思うのですが、
子供の記憶ですので、大きく感じたのかもしれません。
母に聞くと、私がまだ1年保育の幼稚園に上がる前(1960頃?)
に買ったもので、温かいものだけでなく、冷蔵庫のなかった時代には
氷を入れて半分に切ったスイカを冷やしたそうです。
私が中学3年生のときの引越しには
このジャーは連れてこなかったらしいので、
保温機能つきの電子炊飯器が現れる前の、
過渡期の製品だったのでしょう。
調べてみると、このジャーは魔法瓶の系譜らしい。
20世紀初頭に世界で普及した魔法瓶が
日本で生産しはじめられたのが1912、
卓上魔法瓶が1923、
大量生産が可能になったのが1963、
象印などはこのときにお米を保温するジャーを作ったらしいのです。
それより以前に、どこのメーカーがジャーを作っていたのか
・・調べた範囲では出てきませんでした。
うすらぼんやり覚えている灰色の金属についたマークは日立ですが、
扇風機も同じ色だったので、扇風機の記憶かもしれませんし。
のちに来た掃除機は東芝だったような気がします。
③扇風機
ちなみに扇風機は私の誕生とともにわが家にやってきました。
熊本から大阪に越してきたばかりで、
母は大阪のむうっとした酷暑に耐えかねて、
扇風機を買ったのだそうです。
確かに赤ん坊にお乳を含ませながら、
団扇を使うことはできません。
私は汗疹(あせも)だらけで、
ドクダミの行水をしてもらったそうです。(今でいう、ハーブバス?)
④洗濯機
これは私が1年生のときではなく、しばらくしてからです。
お風呂場においてありました。
ちなみにお風呂は灯油で沸かすタイプで、
勝手口に炬き口がありました。
この洗濯機、脱水機などはなく、洗濯物を2本のローラーに挿んで、
取っ手を回すと洗濯物が絞れて押し出されてくるのです。
手で絞るよりも楽ですが、何しろ手動ですから、
取っ手を回すお手伝い、洗濯物を挿むお手伝いをしました。
洗濯物もうまく平均して薄くして入れないと、
取っ手が回らなくなりますから、気をつけました。
これが来る前、母は「たらい」で洗濯板を使って洗っていました。
手洗いの方がよく落ちるといって、来てからも長く
つい10年前まで「たらい」は使っていました。
⑤洗い張り
電化製品ではありません。
祖母が和服をほどいて、洗い張りをしていたのでお手伝いをよくしました。
商売ではなく、普通の女性がする仕事です。
反物になった着物地を洗って、布の初めと終わりを挿んで
柱から柱に渡したものに、伸子針を打っていきます。
伸子針というのは、両端に小さな針が付いた細い棒で、
竹でてきていたのでしょう、よく撓いました。
布の両端にそれぞれ針を刺すと伸子針は弓状になり、布はぴんと伸びます。
これを20センチ間隔くらいで打っていき、天気のよい日に干します。
皺が寄らないように、きちんと平行になるように、
等間隔になるように気をつけます。
お日様と、割烹着の祖母の背中と、光を通して揺れる反物と。
乾いたら、また和服に仕立て直します。
今ならクリーニングがありますが、昔の女性は忙しかったのです。
お裁縫やお洗濯が苦手では、暮らしてゆけなかったのですね。
おそろしい時代です。(笑)
私などは、主婦失格(今でもそうですが(・ω・;A )間違いなしです。
大柄で骨格のしっかりした明治生まれ祖母と違って、
熱ばかり出して直ぐダウンするチビの私など、
主婦としての役目をまっとうできたとは思えません。
そうそう、洗濯物を干すのも、最初は竹竿、
のちにそれがビニールでコーティングされたものになり、
やがて金属製になりました。
歌人三ケ島葭子は明治19年生まれ。
きっと祖母のようにこまごまと家事をこなしていたに違いありません。
・裾の方は灯に遠し夜の部屋に布子ひろげて綿を入れをり
・天気よくて張物さはに乾きたり布(ふ)海苔の汁の少し餘れる
・竹竿の朽ちて割れ目に入りし雨打ちおとしつつもの干す今朝は
三ヶ島葭子