相手が欲しいと願っているものを与えて幸せにしてあげるのが私の仕事です。
そううそぶいた詐欺師がいたそうだ。訝る刑事に向かってその詐欺師は更に言い張った。
幸せにしてあげたからこそ、私は報酬を戴いたのです。なにが悪いのですか、と。
実際問題、詐欺を立証し逮捕するのは案外難しい。なにより騙された被害者が、騙されたと認めないことが少なくないからだ。騙されたと思うどころか、その嘘を心の底から信じ切っていることさえある。
多分、そのほうが幸せなのだろう。
厳密な事実は、時として残酷でいたわりもなく、ただ心を傷つけるだけ。ならば、嘘でもいいから虚構の世界で幸せでいたい。そう考える人は驚くほど多い。
それは歴史の世界でもよくあること。我が日本でも「竹内文書」とか「東日流外三郡誌」あたりの偽書が有名だ。これを真に受けて、日本は太古の昔より偉大な国であったと悦に入る日本人がどれほど多かったかを思えば、偽書の威力には驚かされる。
多くの場合、偽書の大半は緻密な検証作業と論理的考察の積み重ねにより、その嘘が露呈する。偽書はやはり偽書でしかない。
しかし、問題がある。信じたいものが提示されて、それに飛びついた人にとっては、事実か否かよりも、自身の心を満足させてくれたことこそが重要なのだ。この信奉者には、偽書は真実の書以外の何物でもない。
更に付け加えるのならば、偽の歴史が偽書により語られたからといって、誰が傷つくのか。むしろ人々に誇りを与え、明るく元気づけられるぐらいではないか。そう考える偽作者は少なくない。
だが、本当にそうなのか。いつわりの栄光ある過去が与えられたからといって、人は本当に幸せなのか。むしろ実力不相応な過剰なプライドを育み、矮小な自分を客観視することが出来ない不適応者を創るだけではないのか。
率直に言って、私はこの手の偽書を嫌悪する。過去を着飾って、今の自分を取り繕う無様な生き方を軽蔑する。
先祖は偉大でなければいけないのか。先祖が偉いからといって、今の自分が偉いのか。
先祖の栄光がなければ、今の自分が不安なのか。
歪んでいると思う。過去の虚飾にすがるより、今の自分を何とかしてみろと言いたくなる。親や祖先を大事にしたいのなら、その過去を美化するよりも、今の自分が祖先が誇りに思うような業績を上げるほうがイイと思う。
私が偽書を嫌うのは、それが後ろ向きの努力だからだ。私は歴史を学ぶのは好きだ。だから、誤解や誤読による間違った歴史があることは分かる。政治的意図をもって、事実がゆがめられた場合(日本書記なんて、かなり怪しい)もある。シナの正史だって、政治的偏向は相当にある。でも、そこに書かれた事実から真実の一面を推測することも出来る。
だが、偽書が書かれた場合、そこにあるのは過去を歪めて今を美化しようとする歪んだ虚栄心が必ずある。だからこそ、私は偽書を憎む。
表題の本は、そんな偽書について代表的な作品を幾つか取り上げて解説しています。著者の原田氏は、現在は「ト学会」のメンバーですが、かつては「東日流外三郡誌」を真実の書として信じていたこともあり、やがて偽書だと納得した経歴の持ち主。オカルト系書物で有名な八幡書房の編集者であり、雑誌「ムー」に寄稿していた経歴もあるだけに、偽書を暴き出す手法にも慣れている。
偽書入門としても悪くないので、興味がありましたら是非どうぞ。