身体は一つ、でも心は一つとは限らない。
それが分かったのは20代の頃だ。治る目処が立たず、働くことも出来ず、ただ食べて薬を飲んで眠るだけの毎日は、私を狂気に追いやり始めていた。寝ても覚めても、病気のことしか脳裏に浮かばず、生きる価値さえ見いだせずにいた。
時はバブル景気の華やかな時だけに、狭い部屋に閉じこもっての惨めな境遇は私を追い詰めた。光が眩しければ、その光が作る影はより一層濃くなる現実を噛みしめていた。
太陽の下で汗を光らせる日焼けした肌に羨望を抱き、屈託のない笑顔に嫉妬を燃やし、何気ない労りの言葉に深く傷ついた。幸せを他人と競うことの愚かさは知っているはずだし、そもそもそれほど欲深い性格でもない。
それなのに、長きに渡る病気療養生活が、私の心を蝕んでいた。未来に希望を抱けない絶望が私を狂気に追いやりつつあった。一番辛かったのは、自分が狂気の淵を彷徨っていることを自覚できることであった。
狂ってしまえば、こんな煩悶から逃れられるのではないかと真剣に思い悩んだ。元来暢気な性分が私を狂気の淵へと転落することを防いでいることを冷静に自覚していた。それだけに、自身の冷静さが憎らしかった。
あの当時、私が一番恐れていたのは、私の狂気を他人に知られることだった。だからこそ、最も親しい友人には会えなかった。会えば本音が噴出する可能性を否定できなかった。そうなれば自分の狂気を気付かれてしまうことが怖かった。
本当は会いたい、話したい、話を聞きたい。狂おしいほどに切望していた。その一方で、会ってしまえば狂気を隠し通す自信がないことも分かっていた。だから会えなかった。
だからこそ、親しくはなく、さりとて無視されることもない相手と会うことが、当時の私に残された数少ない楽しみであった。幸い私には当てがあった。それが大学のクラブの後輩たちであった。
ふらりと大学を訪れ、OBとして部室に顔を出せば必ず話し相手がいた。偉ぶることもなく、ただ素直に話をし、長居することなく立ち去った。ただ、それだけの時間。深刻な話は一切しなかった。軽い世間話と山の話をするだけだ。
その僅かな時間は、私が狂気を表に出すことなく、普通に話が出来る貴重な時間であった。今だから分かるが、あの普通の時間を持てたからこそ私は狂気に染まることを避けられた。
白状すると、私は心のうちに狂気を孕みつつ、それを隠して平静に振る舞える事に、ある種の悦楽を感じていた。他人を騙す快感に近いものかもしれないが、悪意はなかった。騙す相手を傷つけようとは思わなかった。むしろ騙されてくれることに感謝をさえ感じていた。
身体は一つ、でもあの頃の私には狂った心と、冷静で暢気で淡々とした心が同居していた。
あれから20年以上たつと、大したことではなかったかのように思えるば、実際はかなり際どかった。親しい相手と会うのは浮ゥったし、家族とさえ距離を置かざる得なかった。そうしないと狂気が噴出することが分かっていたからだ。
私が狂気を抑え込むことが出来るようになったのは、病気が安定して症状がほとんど出なくなり、再発の可能性が大きく減退してからだ。朝起きて、夜寝床に着くまで一度も病気のことを考えていないと気付いた時、初めて狂気が我が身を去ったことが分かった。
私はなによりも、この平静を大切に思っている。だからこそ、病気の再発を異常なほど恐れている。
私は知っている。誰の心にも狂気の芽は息吹くことを。このような境地に至ったからこそ、私はサイコ・ミステリーには虚心でいられない。表題の作品の犯人もまた、私と同じく狂気と平静を一つの身体に住まわせている。
誰からも気づかれることなく、狂気を隠し通し、平時には優秀に仕事をこなし、日常生活を淡々とこなしていく。その狂気を暴走させてしまったのは、犯人が隠していた秘密に気が付いた被害者がいたからこそだろう。
だが、もう一人キーパーソンがいる。それは犯人の心に最も深く寄り添った、寄り添ってしまった恋人だ。皮肉なことに、最も親しくなった相手にこそ隠したいのが己の狂気。でも、自分を一番理解して欲しい相手でもある。
こんな時こそ狂気は暴走してしまうものだ。それが分かるだけに、この作品はちょっときつかった。でも、ミステリーとしては良作なのも間違いなし。機会がありましたら是非どうぞ。