ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

新聞は一見にしかず

2013-09-24 12:46:00 | 社会・政治・一般

もちろん正しくは、百聞は一見にしかずである。

新聞の広告に雑誌SAPIOの今月号のものがあり、そのなかに今どきの子供たちの学力を憂う記事の紹介があった。その一例がタイトルに掲げた「新聞は一見にしかず」であった。

子供たちに出された問題自体は、四角い枠の中に数字の漢字を入れなさいと、ヒント付きで出題されている。つまり、問題文は「〇聞は一見にしかず 」であり、もちろん正解は百の字である。

記事自体は、子供たちの基礎学力の低下を憂うものであるようだが、興味がある方は雑誌SAPIOを読んでいただくのがイイでしょう。私自身は恐縮ながら、さらっと立ち読み程度で済ませているが、あまり力の入った記事ではないように思えた。深く掘り下げれば、今少し興味深い記事になると思う。

それはともかくも、この間違った回答に、思わずニヤついた人は少なくないのでは?

実際、日本の新聞が事実を正確に報道していないと実感している人は少なくないと思う。新聞が取り上げたいと考える事実のみ報道し、世論を自らの思うところへと誘導せんと画策していると勘繰られても仕方ないと思う。

新聞信者であった私がそのことに気が付いたのは、1986年のヨーロッパで巻き起こった緑の党旋風と、中距離核ミサイルの欧州配備反対運動であった。当時の朝日新聞を読むと、ヨーロッパでは環境運動と反核運動がコラボしての大反対が巻き起こっているかのごとき印象を受ける。

そして、日本もその世界的潮流に乗り遅れるなと言わんばかりの論調であった。しかし、結論から言うと確かに反対運動はあったが、それは過激な少数派のもので、大多数のヨーロッパの人々は核ミサイル配置を支持してソ連の侵攻を抑制することを選択していた。

つまり朝日新聞は多数派の意見を無視して、自らの意向に合った緑の党と反米反核運動のみをクローズアップして、それが真実であるかのように報道していた。要するに大衆を朝日新聞の意向に沿わせようと目論む情報操作であった。

私が新聞を疑うようになったのは、この時からであるが、なまじ活字信者であるだけに社会経験を積み重ねないと、容易にマスコミの情報操作に踊らされてしまう。現在はインターネットがあり、新聞やTVの情報操作が効かなくなってきているが、ITの世界には碌でもない情報も数多あり、情報の選別が難しくなっている。

だからこそ、自らの目で見て、耳で聞き、足を運んで確かめることが重要となる。まさに百聞は一見にしかずであり、新聞は一見にしかずでもある。つまるところ、自らの見識を高める努力こそが大切となる。

情報が溢れる時代だからこそ、情報を選別し判別する見識が求められる時代だと思います。

コメント (4)
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