私が死んだら、どうしよう?
あまり考えたことがなかったが、そろそろ自分の死んだあとのことを考えておくべき時期がきたと思うようになった。別に改まって正式な遺言書を書く予定はないが、一人暮らしが長い故に、妹たちや友人たちへの配慮も兼ねて、なにか書き残しておくべきだと考えている。
同じようなことを考える人は、けっこういるようで最近流行の「エンディング・ノート」が売れ行き好調なのも分かる気がする。私も簡略なものを書いておくつもりだ。そうでないと、私の葬儀を誰に連絡したら良いか、あるいは何が財産で、債務はなにかが分からず、妹たちが苦労すると思うから。
母は葬儀をやらないように言い残していたが、私はやった方が良いと考えている。私自身は既に死んでいるのだから、葬儀なんてどうでもいい話だが、現世に残されたものたちにこそ、葬儀は必要だと思うからだ。
形式ばることは嫌いで、子供の頃から式典なんぞ大嫌いであったが、年を経るにつれ形式も必要だと認識を改めている。
なぜなら、母が亡くなってから気持ちの切り替えに難渋したからだ。母がもう居ないことは分かっているのだが、遺体は大学病院だし、納骨も済ませていないので、気持ちが上手く切り替わらないことに悩んでいたのだ。
まァ、幸い予想よりも早く母の遺骨が戻ってきたので、来月には納骨の儀をする予定だ。別になにかが変わるわけでもないのだが、そこでようやく母の死の区切りが付けられると思っている。
もっとも葬儀をやるにせよ、新聞に黒枠広告を載せることはないと思う。
長年新聞を濫読してきた私だが、この黒枠広告はほとんど素通りであった。関心がまるでなかったのだ。この黒枠広告の仕事に長年携わってきたからこそ書けたのが表題の書だ。
明治時代から始まった黒枠広告だが、マスメディアの発展に伴い黒枠広告も中身が変わってきていることが大変に興味深い。まだ見たことはないが、昨今の新聞の退潮とインターネットメディアの拡張を思えば、いずれ黒枠広告がネットの世界に登場する日も近いのかもしれない。
もっとも自分の事務所のHPさえ、未だに作っていない私だ。自分の死亡広告をネットにアップするなんて、おこがましい気もする。多分、関係者に手紙と電話で済ませるような気もする。事務的に、ただ事実関係だけを報せるだけのものだろう。
ただ、この本を読んでそんな味気ない黒枠広告だけではないと知った。故人自らが事前に書いておいた原稿を載せたものもある。これなんか故人の為人が分かり、他人の私でも興味がもてる。
また震災による黒枠広告の切なさも、胸を打つものがあった。なかでも事故で子息全員をいきなり失った気持ちを素直に書いた黒枠広告には、思わず深く沈思するほどの感慨を受けた。
私も、少し気の利いた死亡広告の原案でも考えておこうかな。まァ、ナマケモノの性分なので多分やらないでしょうけどね。