儒教は宗教である。
ところが不思議なことに、日本人は儒教を宗教としてではなく、教養として受け入れてしまった。そのため、同じ東アジアの文化圏に属しながら、儒教を宗教として受け入れたシナ、コリアとは大きく異なる文化を持つに至った。
私としては、儒教から宗教的要素を除いて受け入れた古代の日本人の叡智に感謝したい気持ちでいっぱいである。いったい、如何なる考えで、儒教から宗教的要素を切り離したのか?
正直、驚きを禁じ得ない。言うまでもないが、日本は大陸から多くの文化を輸入している。ところが、不思議なことに、幾つかのものは受け入れなかった。その一つが宦官である。もう一つが纏足であり、そして最大にして最良の選別が宗教としての儒教である。
ちなみに、教養としての儒教は受け入れているので、殊更不思議である。だが、この結果、日本は外来の文化に対して、極めて適用力の高い国となった。アジア、アフリカで、日本が真っ先に近代化に成功したのは、この適用力の高さゆえである。
誤解のないように書いておくが、儒教の目指したものは平和である。古代シナの戦乱の時代に生きた孔子が、世の中を平和にする断りを求めて作り上げた思想が儒教である。
その要点は、過去を美化し、現状維持こそが至高のものだと教え込むことだ。これにより、変化、すなわち戦乱を防ぎ、安定した社会を作れると孔子は考えた。そのために、いかなる社会、家庭を作るかの指針が儒教でもあった。
だが、過去に範を求め、現状維持こそ安定した社会との思想は、自然と変化を嫌う停滞した社会を築き上げた。シナもコリアも、日本とほぼ同じタイミングで、近代化を受け入れる機会はあったと思う。
しかし、儒教に根差した安定志向が近代化と云う劇的な変化を厭うこととなり、蛮族と馬鹿にしていた日本の後塵を拝する結果となった。つまり、もし日本が古代において儒教を宗教として受け入れていれば、近代化に対応できなかったはずだ。
まさに先祖の叡智に感謝したい気分である。
なお、宗教に根差した主張は、論理を土台にしていない。つまり、如何なる議論も通じない。話し合いは無意味である。自分は絶対に正しいとの信念に、話し合いは役に立たない。
決して分かり合えることのない隣人が居ることを虚心に認識することこそ、今の日本人に必要なことだと思います。