平成の大横綱であった白鵬が引退した。
モンゴル出身力士として二人目の横綱であり、心技体ともに完成された大横綱であったと思う。
にもかかわらず、あまり評判が高くないのは、相撲協会及びその意向を汲んだマスコミが悪い。原因はいろいろあるが、やはり第一の原因は、モンゴル人との相撲に関する認識の違いであろう。
これは、あの朝青龍もそうだが、白鵬にとっても相撲は格闘技そのものである。強い者が王である。王、すなわち横綱こそが頂点であり、相撲協会なんてその下働きである。おそらくだが、モンゴル人はそう考える。
別に悪意がある訳ではない。広大な草原の民であるモンゴル人にとって一番強いものが王であり、王がすべてを握る。それが当然と考える。ある意味、とても素直であり率直である。
だが日本に於いては相撲は興行である。相撲協会こそが元締めであり、力士は興行の主役に過ぎない。
極論だとは思うが、相撲協会は善意溢れる公共団体ではない。相撲取りという異形の格闘家を使って人を集めて稼ぐ興行である。もっと露骨に云えば、乱暴者の大男を集めて鍛えて、その戦いをメインデッシュに商売をしている。
だから相撲興行の世界は金と欲望に塗れている。相撲の世界には余人が容易には立ち入れない暗く甘い蜜がある。この芳しい匂いに引き寄せられる有名人が更に金の花を咲かせる。これが現実である。
その一方で相撲は格闘技として第一級品の実力を持つ。現役の、つまり膝や腰に故障を抱えていない力士たちの強さは異常である。一見ただのデブにしか見えないが、よくみれば脂肪の下には鍛えられた筋肉の束がうごめいている。
100キロを超える大男たちが本気で頭と頭をぶつけ合う格闘技なんて相撲ぐらいである。多くの格闘技では頭突きは禁じ手とされるのは危険過ぎるからである。それを敢えて禁じずに、当たり前のように使う。
怪我をしたり高齢により相撲が出来なくなった力士が、しばしばプロレスや総合格闘技の舞台に上がり、無様に負けることがよくある。それを見て、相撲取りは弱いなどと考えるのはあまりに軽薄である。
さて、相撲取りとしての白鵬だが、非常に才能ある力士であった。まず身長が195㎝と恵まれている。加えて150キロの体重は十分大型力士との対戦に応じられるものだ。その上、相撲が柔らかい。受けが巧いというか、相手を受け止めてその上で自分の型にはめ込む強さがあった。
この柔らかい取り口こそが、彼を長年横綱の地位を保証したと思う。単に力と力のぶつかり合いならば、とても30過ぎての相撲は無理だ。体重100キロを超える相撲取りのぶつかり合いの衝撃は生半可なものではない。だが白鵬にはそれを柔らかく受け止める巧さがあったと思う。
さりとて技巧派との印象は薄い。それは力と力の競い合いも得意にしていたからだ。むしろ力づくで自分の得意な形に持ち込む傾向があったと思う。それは土俵の外でも同じであったらしい。代々の横綱のなかで相撲協会から最も注意を受けたのも無理ない。
でも、それは白鵬が相撲を格闘技だと捉え、その王である矜持がさせた蛮行だと私は考えている。実際この十数年、白鵬を超える力士はついに出なかった。他の横綱が短命で引退するなか、一人角界を支えてきた孤独な王であった。
日本に帰化し、古参の相撲協会幹部から睨まれながらも、敢えて角界に残り自分の理想とする相撲を実現しようと考えているのが現在の間垣親方(白鵬)だと思います。