ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

楢山節考 深沢七郎

2018-02-21 11:38:00 | 

なんとなく、読む気が起こらなかった本の代表が表題の作品です。

粗筋は読まなくても、そのタイトルからして中身が想像できてしまった。だから読まなかった。

しかしながら、母が療養型病院で長期間の入院の末、衰弱死するようなかたちで亡くなったことを、ようやく冷静に思い返せるようになったと思えたので、読んでみるととにした。

分かってはいたが、やはり重ぐるしい。作品の文体自体は、むしろ淡々と書かれているのだが、やはり内容が重い。

主人公がまだ元気なうちに楢山行きを決めたのは理解できる。自らの死を決断するには、相当な気力、体力が必要なのだろう。本当に老衰した状態では、その決断は出来ないと思う。

若い頃、私は山登りに傾倒していたので、自らの死をある程度覚悟して登っていた。自然の強大さの前に、自らの弱さと儚さを知り、そのなかで全力を振り絞り生きる努力をすることこそ山登りだと考えていた。

あの頃、私は自らの死を恐れてはいなかった。そう思い込んでいた。

それがただ単に体力のある余裕からの虚言に過ぎないと思い知らされたのは、20代前半で原因も分からず、治療法も確立していない難病に苦しんだ時だ。

2か月以上、病院のベッドの上で寝たきりの生活を送っていた私は、死がまじかにある現実から目をそらしていた。でも、主治医の失言で、自分が死にかけていた事実を直視せざるえなくなった。

怖かった、逃げたかった。でも衰弱して寝たきりの私は、逃げるどころか、寝返りすら一人では出来ない。一晩中、自分が死ぬことを考えていたら、翌朝には胃潰瘍になっていた。

自分がこれほどまでに弱虫だとは思わなかった。心も体も衰弱していては、死に対して堂々と対峙することなんて出来やしない。

だからこそ、まだ元気なうちに楢山行きを決断した主人公の凄さが分かる。

多分、私には出来ない気がする。自ら死を決断するのなら、元気な時にこそするべきだ。

ところで、この作品が映画化されて、欧米やアジアなどに知られて以降、日本では貧しさから姥捨てをしていたとされてしまったらしい。おそらく貧しい地域では実際にあったのだろう。でも、日本って比較的農作物に恵まれている国なので、一部でしかなかったのだろうと思います。

でも、よくよく考えると、現代の日本の山間部に多数ある介護型老健施設って、ある意味姥捨て山ではないかと思うこともあります。もちろん、介護施設と、姥捨て山は、まるで違うのですが、それでも私は思いだす。

母が2年近く世話になった病院の大部屋を。家族から遠く離れた、あの清潔な施設で母は幸せな老後であったかと云えば、決してそうではないと思う。でも私も妹たちも、どうしようもなかった。ベストではないけど、ベターであったと信じたい。

そう考えた時、自らの意志で楢山へ向かった主人公は、ある意味ベストの選択をしたのかもしれないと、うかつにもそう思ってしまう自分が嫌ですね。きっと、私には出来ない崇高な決断でしょうから。

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人工知能に思うこと

2018-02-20 11:58:00 | 社会・政治・一般

人間の思考は、二進法ではない。

現在、急速に発達しているのが人口知能である。私もその進歩に驚いた。ここ数年、PCのオンラインゲームを楽しんでいるが、現在やっているのは英語の海戦ゲームである。

全ての表示が英語なので、日本人にはとっつきにくい。でも昨年、配信が停止されたモバゲーの「風雲海戦」の元となったゲームであり、基本的なシステムは同じだ。

だから、さして英語力の高くない私でもなんとかなる。それでも、風雲に比してかなり進歩しているので、どうしても英語の説明文を読みたい。そんな時、以前はweblioの英語翻訳を活用していた。

正直、あまり正確な翻訳ではない。普通の英語ではなく、ゲーム上で使われる軍事用語などを多用するため、weblioの機械的な翻訳は、まともな日本語になることのほうが珍しかった。

ところで昨年からCMなどで「OK、GOOGLE」の科白を耳にしたことがあるのではないかと思う。ユーザーの問いかけに答えるIT機器の宣伝であり、現在売れ筋の商品でもある。

その頃から同じゲーム仲間から、GOOGLEの自動翻訳性能が向上したと聞かされた。数年前にも何度か使っていたが、当時の経験からするとweblioよりも性能は低かったと感じていた。

ところが、昨年久々に使ってみたら、その自動翻訳性能は明らかに上がっていた。もちろん、そのまま使えるほどではないが、少し推敲すれば、十分実用に耐えうる水準ではないかと思っている。

よくよく調べてみると、その自動翻訳機能に以前からあったA1(人口知能)システムを大幅に改良したようなのだ。ある程度、ロジスティックな文章ならば、かなり正確に翻訳できているのではないかと思う。

ただ情緒的な言葉になると、正確さが仇になり、綺麗な文章にならないことも多々ある。このあたりは、改善の余地があるだろう。でも、A1システムは、今後も改良され続けるようなので、かなり期待できると思っている。

人間の脳の中で、電気信号が発せられると分かったのは20世紀に入ってからだ。その後、電気信号だけでなく、脳の内部で様々な化学反応が起きており、それもまた人間の思考に影響を与えているらしきことが判明したのは、更にその後のことだ。

苦しくなると、脳内麻薬物質を発生させることなど、たいへんに興味深い現象が、我々の脳の中で行われているのだが、如何せん倫理上の問題で、安易に実験や解剖などが出来ない。

だから、人体の構造のなかでも、思考がどのような仕組みで行われているのか、未だ解明の途上である。ただ、論理的な思考は、電気信号のやり取りからして、大脳皮質の比較的表面上で行われていることは分かっている。

その一方で、食欲とか恐怖といった感情、本能は脳幹の奥深い部分で作用していることも分かってきている。ただ、その全体的な仕組みは、まだ良く分かっていない。

それゆえに、現在研究され、開発され商品化にまで至った人口知能は、あくまで論理回路のみで構成されている。それも、0か1の二進法の仕組みにより構成されている。でも、人間の情緒が二進法で構成されるかどうかは不明なのです。

つまり人間の思考は、未だ全てが解明されてはいないのですが、ある程度は実用性を持たせることに成功しているようです。これは相当な性能向上であり、ある程度これまで人間が担当していた業務を、A1が代替することも可能なほどです。

この方向で技術が進むと、間違いなく人件費削減を目的とした省力化が、今後進展していくと予想されます。そのターゲットは、これまでの製造現場ではなく、事務系の仕事になるはずです。つまり、ホワイトワーカーというか事務系の職種についてA1が採用されると、必然的に人減らし、給与減額となるのではないかと想像できるのです。

他人事ではありません。私の職域でも、必ずやA1は導入されるでしょう。私の予想では年末調整や、伝票入力などがその対象になると思うのです。つまり強力な商売敵になる。

でも、警戒はしても恐れる必要はない。むしろ積極的に取り入れて、業務の効率化を図るべきだと考えている。だからこそ、今後はA1の動向に注視していこうと思います。

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麻婆豆腐 

2018-02-19 11:15:00 | 健康・病気・薬・食事

時には偶然もありがたい。

この時期は外回りが多く、しかも年に一回しか会うことのない顧客の元を訪れることが中心となる。その日も、久々に訪れた某地方都市に行き、午前中で用事を終えたはいいが、帰京の電車の時刻にはまだ一時間以上ある。

時間を無駄にするのも嫌なので、目についた中華料理店に飛び込み、少し早めの昼食を頂くことにした。とりあえず定番の定食のうち、ジャージャー麺と半チャーハンを注文した。

ところが数分後、私の目の前に置かれたのは、なぜか麻婆豆腐定食であった。しかも、四川風というか、真っ赤にグツグツ湯気が立つ如何にも辛そうな麻婆豆腐である。

私は甘党である以上に、辛い物が苦手。好きなカレーだって、せいぜい中辛が限度。だから、この真っ赤な麻婆豆腐に驚くと同時に、店員に文句を言おうかと思った。

しかし、私の鼻がなにかを嗅ぎつけた。なんだ、この香り・・・・よくよく麻婆豆腐を見ると、青緑色の葉っぱが覗いている。おやや・・!これ香菜ではないか。これだけ香り立つパクチーだと、採取して日が浅いものだろう。

興味が湧いた私は、そのまま食べちゃうことにした。たしかに辛い麻婆豆腐なのだが、パクチーの爽やかな香りが心地よく、気持ちよく食べられた。

途中、オーダーのミスに気が付いた店員がやってきたが、もう食べちゃったからと追い返す。値段も同じだしね。

実を言えば、私はそれほどパクチーが好きな訳ではない。嫌いでもないが、積極的に食べたいものではなかった。でも、新鮮なパクチーは別である。おそらく、このパクチーは輸入ものではなく、日本国内で栽培されたものだろう。

そうでなければ、これほど香り立つことはないと思う。やはり鮮度は重要だと思う。葉物は痛み易いから、なおさらだろう。

まったくの偶然で食した麻婆豆腐なのだが、実に気持ちのイイ味であった。惜しむらくは、私が次にこの店に来るのは一年後であろうことだ。これは致しい方ない。

でも、楽しみが増えたことが嬉しい。やっぱり私は食いしん坊ですね。

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ヤギさんの歌

2018-02-16 12:56:00 | 日記

女同士の争いって、なんか怖いぞ。

土曜日の昼間のことだ。午前中、家事を済ませて昼食を食べてから、いつものように仕事をするために事務所に出かけた。

渋谷駅発の銀座線に乗り込む。さすがに休日だけに、この時間は空いている。以下、なんか怖いので、登場人物をヤギさんに置き換えてみます。

全体的に黒いファッションで統一した若い女性、いや黒ヤギさんが乗り込んできた。私の対面に座ったのはともかく、中型の黒い鞄を椅子の上に置いたのは、いただけないと思った。

まァ、黒ヤギさんは、電車も空いているので、いいじゃないと思ったのだろう。

電車が発車して、次の駅に着くと、ドッと乗客が乗り込んできた。でも黒ヤギさんは席から鞄を退かすつもりはないようだ。そこへ白い服装でムクムクのコートを羽織った女性がやってきた。以下、白ヤギさんと呼ぶ。


白ヤギさんは、黒ヤギさんのとなりに唐突に座り込んだ。でも黒ヤギさんの鞄が邪魔だ。すると白ヤギさん、いきなりその鞄を取り上げて、黒ヤギさんの膝の上に置いた。

驚いた黒ヤギさんは、その鞄を抱え込もうとしたが、少し大きめの鞄なので居心地が悪そうだ。隣でスマホを注視している白ヤギさんを睨みつけるのだが、白ヤギさんは知らん顔。

黒ヤギさんは怒ったように、鞄を通路に投げ出した。お!宣戦布告かな。でも白ヤギさんは見向きもしない。

対面にいた私は、これから何が起きるのか、ちょっとワクワクしながら注視していた。断言するが、男同志ならば、もう怒鳴りあっていてもおかしくない。

ところが驚いたことに、黒ヤギさんは立ち上がると、鞄を拾ってそのまま立ち去ってしまった。そして、相変わらず白ヤギさんはスマホを抱え込むように見ているだけである。

最初から最後まで黒ヤギさんも、白ヤギさんも一言も発することはなかったが、周囲の空気は緊迫感で満ちていたのは確かだ。一番間近で見ていた私なんて、喧嘩に巻き込まれたら、どうしようかと思案していてほどである。

だから両者とも、一言も発せず、片方がその場を無言で立ち去るなんて結末は、予想にだしていなかった。断言するが、男同志ならば、電車を止めかねないもめ事に発展していたことだろう。

っつうか、「この鞄、動かしてもらえますか」くらいの科白を穏やかに語りかければ、何事もなく済んだ話ではないかと思う。

車内が空いている状態で、鞄を席の上に置いただけでなく、混んできても放置した黒ヤギさんは非常識だと思う。しかし、無言でその鞄を取り上げて、黒ヤギさんの膝の上に置いた白ヤギさんも、どうかと思う。

男同志ならば、喧嘩の前ふりだと断言できるほどである。でも、女同士では違うらしい。

立ち去る黒ヤギさんを見やりながら、私の脳裏に浮かんだのは、ヤギさんの歌。

「白ヤギさんからお手紙ついた。黒ヤギさんたら読まずに食べた~♪」

人間って、ヤギよりも賢いはずですよねぇ~ そうは見えませんでしたけどね。

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ジャングル・ブック ラドヤード・キプリング

2018-02-15 12:53:00 | 

ババンバ、バンボン、バン、ババン~♪

白黒のTVから、この音楽が流れてきたら、それはアニメ「狼少年ケン」の始まりだった。


もっとも当時はアニメとは呼ばす、TV漫画と称していたように思う。ただし、このアニメの舞台はアフリカであり、表題の作品「ジャングル・ブック」とは異なる内容である。でもヒントにはなったと思う。

困ったことに、この狼少年ケンの印象が強すぎて、何時頃「ジャングル・ブック」を知ったのか定かではない。記憶がだいぶ混線しているのだ。

多分、アニメ映画のほうが先だったように思う。ウォルト・ディズニーの遺作とされるアニメ映画である。だが私の記憶にはない。あるのは家にあったディズニーの絵本であったと思う。この絵本も度重なる引越しのせいか、どこにいったか分からない。

だから原書(もちろん日本語訳)の「ジャングル・ブック」を読むのは今回が初めてだ。絵本から四十数年ぶりである。ところが、私は中学生の頃からキプリングの名を知っていた。

元々、読書好きの子供ではあったが、その私を熱狂的な本好きに仕立て上げたのは、アメリカのハードボイルド作家ドン・ペンドルドンの「マフィアへの挑戦」シリーズであった。

どうもペンドルドンはキプリングの愛読者であったようで、作品中にキプリングの詩を引用いていた。それが猛烈に格好良かった。おかげで私の中では、キプリング=詩人だと決めこんでしまった。

以来、数十年、時折思い出したようにキプリングの著作を探していたが、まるで見つからなかった。当時はネットはなかったし、詩を扱う古本屋とは縁がなかったからでもある。そして、そのうち忘れてしまった。

実は私、あまり詩を好まない。唯一の例外は漢詩と俳句なのだが、どちらもそれほど好きという訳でもない。多分、物語の筋書きを追う傾向が強く、そのせいで速く読むことに重点を置いていた。だから、文章をじっくりと味わうことをしてこなかったからだろう。

なので、古書店の安売り用の棚の中に、キプリングの名を見つけて少し驚いた。あァ、なんだ「ジャングル・ブック」の著者だったのかァ~。っというか、アニメ映画の「ジャングル・ブック」に原作があったこと自体、知らなかった。

でも、何故かモーグリの名前だけは知っていた。

クポー!!!

そう、分かる人は分かると思うが、ファミコンRPGゲームの名作「ファイナル・ファンタジー・シリーズ」に登場する動物キャラの名前である。狼少年ケンといい、モーグリといい、私は変な覚え方をしていたようだ。

そんな訳で、キプリングの作品を読むのは今回が実質初めてであった。で、少し後悔した。もっと早く知りたかった、読みたかった。機会があれば、この先もキプリングの作品を探して読んでいこうと考えています。

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