
何かに集中して、短い一日を過ごすのがいいのか、それとも所在無い長い一日を過ごすのがいいのか。このごろは、どちらかと言えば無為なる日々に倦みながらも、後者の方でいいと思うようになってきた。行動するよりか、じっと動かずにいることにそれほど苦痛を感じない。
きょうは5回目のワクチン接種を受けることになっている。しかし、何ともこれが億劫でならない。それどころか、きょう月曜日はゴミ出しの日で、それを忘れずに済ますために、起き出す前の布団の中でさんざん自分に言い聞かせたものだ。
上には信号もなければ、前をノロノロと走り苛つかせる車もないから、山から下りてきて街中を車で走るのは、運転免許を取得するために路上教習をやっている運転未熟者と同じくらいの緊張を覚え、疲れる。だから外出は苦痛になる。規則、制約、束縛の密林が文明社会で、この環境に慣れ、順応するまでには時間が必要だとつくづく思う。
上にいても、外部から強いられて予定を変えることもないではないが、ゴミ出しの規則、ワクチン接種の受け方のように、煩瑣かつ窮屈に感ずることは少ない。牛の世話を中心にした牧場の管理、キャンプ場や山小屋への訪問者の受け入れ、撮影などの対応の方が余程体力、気力が必要なのに、あまりそう感じない。
まあ、それらが仕事だということでもあり、その束縛から7か月ぶりに放免されたのだから、狭い畜舎から広大な放牧地に出された牛のように、思いっきり解放感を味わいたいということもあろう。また、ゴミを出さなくても、ワクチンを打たれなくても、取り敢えずは自分のことだから、ということもあるだろう。
話が脱線してしまったが、良寛が手毬をつきながら子供らと遊ぶのは楽しくて「暮れずともよし」と詠っている。悟了の人にしてそう思うほどなのだから、牛を引き合いに出して語らなければならないような凡俗の徒にとっては、楽しき時が瞬く間に過ぎてしまうのは惜しい。
それくらいなら、まだ山から帰って日は経っていないが、これからの5か月、一心不乱を避け、単調、平穏、少し退屈、というくらいを旨として暮らすのがちょうどいいのではないかと、生欠伸をしながら考えているのだが。
なお、悟りの意味も、良寛が本当に悟了の人であったかも知らない。
本日はこの辺で。