入笠牧場その日その時

入笠牧場の花.星.動物

     「冬ごもり」 (41)

2020年01月12日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 こんなふうにいつも天候は天の邪鬼なものだ。よりによって3連休のド真ん中にうそ寒そうな灰色の空が拡がり、お蔭で上へ行く気をすっかりとなくしてしまった。カーテンを閉じたまま部屋の中に閉じ込もるようにして、いつもの冬ごもりの体制にようやく落ち着いた。これはこれで格別な不満はない。こんな変化の少ない冬の日々、実際はストーブと炬燵に頼りながら、上に行って雪催いの空の下を首をすくめて歩いている自分の姿を想像してみる。
 
 雪はどうなのだろうか。法華道の「厩の平」辺りはクヌギだかクリだかの落葉樹の林が広がっていて、いつも一息入れるのも惜しむように歩いたものだ。ここを過ぎて、もう一カ所急な登りが残っている。脛巾当(はばきあて)と呼ばれて、そこにある北原のお師匠が立てた小さな道標には、旅人がここでスネを守る脛巾の紐を締め直して、最後の急登に備えたという説明がある。
 ここを登り切れば尾根は消え、雪は深くなる。その昔は、峠や山道にはお助け小屋があったというが、法華道にも「山椒小屋」というそんな役目をした小屋の跡があり、そこから古道は本家・御所平峠まで古い材木運搬道路と交わったりしながら続いている。その時の体調にもよるが、落葉松林の中を何度も大きく巻きながら進むからもどかしさを感じることもあれば、先への不安が消えて存分に雪の古道を味わう余裕が出てくることもある。この古道法華道の一番いいところは、やはり静けさに尽きる。
 ウーン、つい、想像の山歩きを楽しんでしまった。


      痩せたと言われるHAL
 F枝さんから届いた通信によれば、昨夏の自転車事故のため今は山から遠ざかっているようだ。それでも彼女お気に入りの東駒(甲斐駒)の麓に建てた山の家から、雪煙に煙る山頂や黄連谷、黒戸尾根を毎日眺めながらいい日を過ごしているらしい。Ebinademaruさんは、無事に済んだのかな。
 世の中には、80歳にして徒歩で宗谷岬から11か月をかけ沖縄まで、3千500キロを踏破した報道写真家・石川文洋のような人もいる。それも二度目だと。こういう人のことを知ると、冬ごもりや、空想の山歩きばかりに甘んじていてはいけないだろうと、その時は思う。

 それでも一応、今年度の「冬季営業」の詳細については、下線部をクリックしてご覧ください。
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     「冬ごもり」 (40)

2020年01月11日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 10日以上も入笠にご無沙汰している。そろそろと思うも、いま一つその気になれないでいた。きょうは天気も申し分ないし「思い付いたが吉日」と、朝風呂から出てすぐにその支度を始めた。ところが外に出た途端に、その気がなくなった。それからの出発だと、上に着けば恐らく昼を過ぎてしまう。少しはついでに、冬の入笠の写真でも撮り溜めしておこうと考えていたのだが、そのためにはもっと早く出なければ駄目だと分かったからだ。
 で、結局は予定を変えて行くのは明日にし、かわりに落ち葉焚きをした。燃える火を眺めながら、一年前の冬ごもりからすっかり風呂巡りも止めてしまっていることに思いが行った。以前なら一人でも暇潰しに結構いろいろな場所へ出掛けて行ったのだが、その気にならない。気持ちが行動にまで繋がらず、まるでわが陋屋の古びた玄関のスイッチのようだ。そっちの問題は、専門の人を頼んで修理したから済んだが、こっちの断線の方は、はてどうなるのだろうか。
 そういう状況の中でも、唯一入笠だけは例外として出動準備は怠らないようにしてきたつもりだ。入笠というか、牧場周辺のことだが、車で行けなくなったら山スキーでも、スノーシューズでもいいから、懐かしい雪の山道を歩いて行くつもりでいた。その時に集中しようと、出不精は残り少ない気力を大事にしているのだと言い聞かせるのだが、その言い訳は本人にとっても半信半疑だというのが正直なところだ。
 
 ところが、今冬はまだ予約がない。このままだと冬の営業はこの冬を最後に、おしまいにするこも考えなければなるまい。やはり、この入笠という山へ来る人たちには、せめて豚汁、カレーライス、鮭の粕煮、鹿のソテー、野沢菜くらいの食事の提供や、人数制限を撤廃しなければ無理だったのだろうか。
 冬季営業は、ここでの冬山体験を知らなければもったいないと、半ばお節介に近い気持ちで始めてみたのだが、もう少し高峰を目指す人には物足りず、さりとて単に快適な雪山を当て込む人には、荷が重いのかも知れない。仕方ない、といえば仕方ない。

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     「冬ごもり」 (39)

2020年01月10日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 正月の間は一度も食べなかった雑煮を、毎日のように食べている。出汁を引くのは嫌いではないので、あまり苦にはならない。変わっていると言われればそうだ。それでいて湯がくのは好きではないから、ホウレンソウ以外は滅多にしない。丸元先生の料理の本を愛読した時期があって、その教えによれば、ホウレンソウは沸騰を維持しながら湯をくぐらす時間は1秒でいいとあり、根っこの赤い部分はもう少し湯に浸けているが、ほぼその教えを守っている。
 出汁の話に戻ると、昆布を沸騰する直前に湯から出すのが一般的だが、加温すると昆布から毒素が出ると、昔流行らない店をやっていた時に大洋漁業のPR誌で読み、それもできるだけ守ってきた。

 何だかきょうの独り言は料理の話になりそうなので、止めて話題を変えよう。
 昨夜、本年初めて紅灯の巷へ行ってきた。わざわざ駅まで15分ばかり歩いて、さらに電車に乗って行った先は蛍と日本の臍で知られる辰野町。そこでMと二人で呑んだ。「紅灯」などといってもそれは昔のことで、すっかりさびれた街を歩けば夜風が身にも心にも沁みた。
 久しぶりに食べた焼き鳥は美味かったが、生ビールを2杯をチェイサーにして二人で日本酒の熱燗を4合か6合呑み、別の店では紹興酒を呑んだ。それだけですっかり酔ったようだ。
 帰り、寝過ごすと飯田まで連れていかれる恐れがあるので帰りの電車では座らず、そこまでは良かったものの、電車から降りてよろよろと歩いてきて天竜川に架かる橋の手前で転び、膝を強く打つというヘマをした。ほろ酔い気分で天竜川の川音を聞きながら帰るのも楽しみの一つなのだが、自分では無視しているつもりの年齢も、いろいろな機会が教えてくれる。
 今朝は胃が痛くて昼まで寝ていた。その間、昨夜のことを思い出そうにも記憶は途切れ、大体勘定をどうしたかすら怪しくなって、心配になってきた。幸い、落ち度はなかったようで安心した。

 かんとさん、24日からですか。あまり早めに小屋の予約を入れると、天気は荒れませんか。クク。一応、承りました。O澤さんからも通信、多謝。あれ、またしくじったかと一瞬ヒヤリとしました。楽しみです。熊本のTさんは、谷川の雪景色と土合の駅を見るために九州から出てくるという。案内人も考えているようだが、女性の身で単独、その意気に負けそう。F枝さんも山女。お申し越しの北斗七星は春の星座のようですので、もう少ししてから何か呟きます。

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     「冬ごもり」 (38)

2020年01月09日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 4,5年前までは、この天竜川の堤防が冬ごもりの間の散歩コースであり、良い気分転換にもなった。もうやらないというわけではないが、春の陽気を感じられるころまでは多分、その気にはならないだろうと思っている。

 確かに、旧会津藩士は移封された僻遠の地の過酷な暮らしの中でも、向学心を失わなかった人たちがいた。教育水準は高かった、と。それもあって世に出た人たちもいたわけだが、戊辰戦争における会津藩士の戦いぶり、振る舞いが敵方の新政府軍にもよく伝わっていたからではないだろうか。戦いに敗れ、斗南藩士となっても、明治政府の要人たちの耳に彼らのことは達していたと考えられる。限られた幸運な人たちだけにしても、新しい時代への足掛かりをつかむことができたのは、かつての敵、会津武士への評価が高かったからに違いない。山川浩やその弟、かつて会津城を激しく攻めた旧敵である大山巌に嫁した妹・捨松などは、その典型と言える。
 しかし、下北半島の不毛の地、斗南藩へ移っていった1万数千人の人たちはどうなったのか。同地での2年そこらの暮らしの中で、多くの人が亡くなり、出稼ぎや離散などで何千人もの人がいなくなった。明治4年の廃藩置県が行われた年には斗南に留まっていた人たちは1万人にまで減り、その中の6千人が病人と老人だったと、昨日紹介した本にある。
 政治家や軍人として、あるいは教育者として栄達の道を歩んだ人たちがいた一方で、多くの人たちは苦難に喘ぎながら終わっただろう。「一将功成って云々」の感がしないでもないが、それは会津若松城の戦いで非業の死を遂げた多くの老若男女たちも、当然加えてである。

 寒い季節は、どうしてか古い昔のことを思い出す。個人的なことも、また遠い時代のことも。「囲炉裏の端で縄なう」わけではないが、話がつい長引いたかも知れない。斗南の過酷な暮らしの中でもきっと、父親は子供らに過ぎた昔のことを夜話にして語り聞かせたはずだ。その話にじっと耳を傾ける子供らの様子が目に浮かぶ。
 
 年を取ればとるほど寒さは身に沁みるが、しかし、冬の季節が早く終わって、明るい日の射す春が来てほしいとは、まだ思わない。むしろ、活動をしないでいるこの冬ごもりの季節が、ゆっくりと過ぎていって欲しい。「過ぎし昔の思い出」が懐かしく甦ってくるからだ。

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     「冬ごもり」」 (37)

2020年01月07日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 昨日の呟きについて、もう少し。会津藩は、まだ藩制度は続いていたから、正確には下北半島の荒れ地に「移封(国替え)されたわけで、これは維新の翌年の1869年、松平家家名再興が許された結果だった。その後1871年に廃藩置県が断行され、斗南藩はわずか2年ばかりで終わることになったのだが、しかしこの新しい制度は絶望の淵に追いやられていた人々にも幸いした。最早彼らは藩にも、荒れ野にも縛られることがなくなったからだ。

 会津藩を語る場合には、桜の花で知られる高遠との関係についても、どうしても触れておきたい。会津藩の藩祖保科正之は、二代将軍秀忠の外腹の子、つまり三代将軍家光の異母弟である。曲折を経て、7歳にして高遠藩主保科正光の養子となり、正光没後は後継者となっている。
 後に家光の知るところとなり、寛永11年(1634)高遠3万石から出羽最上20万石の藩主に取り立てられ、さらには9年後の寛永20年には会津28万石(うち預かり領5万石)の藩祖へと栄進する。
 以上は、地元の人なら大概が知るところだが、「朝敵の汚名を着せられた」会津藩が徳川幕府に最後まで忠誠を尽くそうとした遠因には、この藩祖保科正之の出自があり、その教えにもあったと指摘することができるだろう。

 今読んでいる星亮一著「斗南藩」」には教えられる。先達ては、下北の荒れ野を出て、最後には陸軍大将にまで上り詰めた旧斗南藩士柴五郎の生涯に触れた。会津は身分制度が厳しく、特に農民に対して過酷であったようだが、下北の辺地の苛烈な環境の中でも教育の重要さが分かっていて、藩校日新館にあって燃え残った蔵書を、下北の地まで運んできている。
 大河ドラマ「八重の桜」の主人公もそうだが、あの時代によくぞと思う人々が世に出ている。斗南藩を支えた中心人物の一人山川浩の弟健次郎はアメリカに留学し、後には東大の総長にまでなっている。福沢諭吉などは好学の士を進んで慶應義塾に入学させたようで、その中にはやはり米国で学び、今のお茶の水女子大の学長になった高嶺秀夫のような人もいる。
 もう二点、京都守護職として幕府のみならず朝廷にも仕えた会津藩主松平容保、彼は最後の将軍とは大分違って、新政府下の旧藩士やその家族のことを案じ、斗南にも会津にも足を運んだ。
 また、最後まで旧斗南藩領に留まった広沢は「開牧社」を興し、牧畜業に励んだ。英明はは中央にまで届いていたらしく仇敵大久保利通が助け、明治天皇の東北巡行の際には同牧場の牛馬が天覧に供せられたという。

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