■続いて、特に苛烈なアカハラ被害を受けたひとりである群馬高専電子情報工学科講師(当時)から、西尾校長(当時)を筆頭とする学校幹部らに宛てて2014年12月24日に提出された『ハラスメントに関する申立書』を掲載します。
【当会注:なお、記録資料3『群馬高専のハラスメントについて』冒頭にもあるとおり、同講師は職と引き換えにこの申立書を提出した。勇気を振り絞ったこの告発すらロクに相手せず、アカハラ揉み消しに動く天下り西尾校長と学校側の腐敗体質に絶望しながら、2015年3月に同校を去ったという。なお、同講師は学生にすこぶる人気であったという】
【記録資料5】ハラスメントに関する申立書(2014.12.24付)
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ハラスメントに関する申立書
平成26年12月24日
群馬工業高等専門学校
校長 西尾典眞 殿
副校長・教務主事 ■■■■ 殿
副校長・学生主事 ■■■■ 殿
学生相談室長 ■■■■ 殿
総務課長 ■■■■ 殿
申立者 電子情報工学科 講師 ■■■■
本書をもって,群馬工業高等専門学校電子情報工学科長・雑賀洋平教授のハラスメント行為を申し立てます。
本書は,主に申立者が受けた/関わりを持ったハラスメント行為について述べますが,申立者のほかにもハラスメントとみなせる行為によって深く傷ついた学生・教職員がいらっしゃいます。申立者が知る限りについて,本書の末尾に付記いたします。この方々についても調査・対応・ケアをしていただくことを望みます。
本申し立てで述べる事項は,当時は,申立者の職務上の過失や瑕疵に起因するものと考え,申立者ひとりで片づけるべき問題と認識しておりました。しかし一連のできごとが現在の申立者の生活や健康状態に今でも良好でない影響を及ぼしていること,また,前記のように傷つけられた学生・教職員が申立者のほかにもいらっしゃって,泣き寝入りせざるをえなくなっていることを見聞きしたことと併せ,少なくとも電子情報工学科教職員・学生の救済と,将来にわたり傷つく学生が現れることのないよう,措置を講じることを希望し,ここに申し立てをいたします。
叱責され傷つくことは,やがて成長の糧になると言われもします。より理不尽に満ちた社会の縮図として受け容れ,(思想的文脈における)「大人」になるための機会とせよとも言われます。しかし少なくとも申立者は,わたしたちはその「現実」のみをすべてとして受け容れよという言説には同意しかねます。
わたしたちには多かれ少なかれ「理想」があり,それを追う機会が与えられます。その過程で理不尽・閉塞感・後悔に満ちた「現実」が出現し,わたしたちはそれとの折り合いをつけることを求められます。ただ,「現実」への服従を蹂躙的に求められたとき,わたしたちは理想を失ってしまうでしょう。理想は,それが遠く彼方にあるものでも,その方角をわたしたちは感じることができます。そこへ向かう・近づく自身の姿を,自身のたどってきた道程から外挿して想像することができます。わたしたちが理想を,そしてそれにたどり着こうと残してきた道程を,「現実」の名のもとに踏みにじられ,否定されたとき,そ
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こに「与えられた」「現実」の中で,わたしたちは何をしたらよいのでしょうか。何ができましょうか。
わたしたちの現実の多くは,多くの部分が自身以外によって作られていますが,自身のありかたの投影的なものでもある一面もあるでしょう。その「自身のありかた」または「自身のありかたへの願い」が「理想」であり,「現実」に切れ目を入れて現実に/を作り替えていく力なのだと考えます。「現実を見よ」と言われ,それは多くの場合「現実」との折り合いと諦めを促す言葉でありますが,それは,自らの「理想」から出でた現実を追認せよ,それを見つけよ,見つけられるようにせよという言葉だと,申立者は信じておりました。理不尽にも抗う「理想」,それが力であると。
わたしは理想を失っていたことに気づきました。わたしの足跡が,人格が,理想が,踏みにじられ,ゼロ査定されていたことに気づきました。半年来,恐怖と逃走への欲求に支配され,怯え,もがくこと,耐えることが日々の多くを占めていました。今,そこから醒めてきたことを感じます。そこには,理想はなく,現実もなくなっていました。怯え,もがき,耐えた日々においては,なんとか気丈にふるまえる気力がありました。ですが今は,生きている「ふり」をしているかのようです。明るくふるまおうと上ずる声,笑うときに顔が引きつることに気づいてしまう瞬間。自身の一挙手一投足に虚無からの疑問符が投げられる恐ろしい違和感。どこかに付きまとう投げやりな気持ち。何もないことがわたしの中心になっていて,やらなければならないことをこなすことで生きている「ふり」という形式的な何かを感じています。
申立者は弱いのだと思います。弱く生まれた,弱く育ったのは「自己責任」であり,だから叱責に負けたのだ,と。しかも,いやしくも「大人」と呼ばれるカテゴリの人間なのだから,弱いことは許されない。そう思えば申立者は静かに退場をすればよいだけです。ですが,弱くてしかるべき人たちもが,一方的に負けを宣告されるだけの「叱責」に壊され,沈んでいく。わたしが直接護らなければならなかった学生さんまでをも。そして彼らはおそらくそれに抗う手段を持たない。悔しい。この後も何人もが同じように壊されて沈められていくだろうことを予見しながら,もう関係のないことと申立者の中で済ますことには,耐えられなくなりました。
申立者にとって,声をあげることは,もはやつらいことです。自分がどのような仕打ちを受けたのか,思い出すと胸が重くなります。しかし声をあげられなかった学生さんも何人もいらっしゃる中では,申立者が自身への仕打ちを,その一部として申し立てなければならないと考えました。学生さんの,その人間としての尊厳を,わたしには護れませんでした。護る力をも奪われていました。申し訳なさでいっぱいです。尊厳が脅かされる環境は,異常です。ですから少なくともそれが異常であることを,申立者は叫びたいと思います。そして,まだ弱くてしかるべき学生さんが,護られることを願うものであります。
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2014年4月
平成26年4月,雑賀氏が電子情報工学科長に就きました。■■■■教授が退職され,■■■■助教が着任されました。
■■■■助教を除けば申立者が電子情報工学科で最年少の教員スタッフでしたから,しばらくはフォローを引き受けることは自身で承知していました。予想どおり,担任を持っていた平成25年度よりも仕事量が多かったように感じます。フォローが必要と感じたときは適宜対応した,という点が多いわけですが,そのほかにも,雑賀氏から命じられるものもありました。命じられるときの理由が,「若いから」「経験があるから」「あなたしかできないから」のいずれかでした。それが多かったのは,4月から6月ごろと記憶しています。スタッフの入れ替わりもあったことで致し方ないと思い,引き受けていました。ですが後に知ったことでは,申立者がフォローして守ろうとふるまっていた■■■■助教にも,雑賀氏は多くの仕事を命じていたのでした。しかも,半ば恫喝的に。
申立者の帰宅時刻は,ずいぶんと遅くなりました。今から思い返すと,この「際限なく増えていく仕事」が,申立者が消耗していく背景にあったと思います。
棄てられたPRビデオ
申立者が命じられた仕事のひとつに「学科のPRビデオ」があります。現在公開されているものは平成23年に撮影されたものです。業者が撮影・編集したものです。平成23年当時,構成・ディレクションのほとんどを申立者が行いました。それから3年経ち,ビデオの更新が望まれることは,たびたび話題に上っていました。
かくして,雑賀氏からビデオの制作を命じられました。5 月から 6 月にかけてのできごとだったと記憶しています。申立者のほかには,■■■■教授,■■■■講師,■■■■助教も命じられました。制作は内製です。企画・撮影・編集をすべて学科内で行うことになりました。完成期日は7月末です。前回の制作のほとんどを申立者が負っていたこと,撮影・編集技術をおそらくは申立者しか有していなかったことから,実作業をほぼ申立者が行うことは必定でした。
ビデオの撮影・編集の人的コストは大変に高いですから,平成23年版から構成上大きな変更を加えない方針で進めたい旨を提案しました。およその方向はそれで決められましたが,「何か新しいこと」をする,という点は譲られませんでした。申立者としては,撮影の計画を立て,機材の調整をしながら,何をもって「新しいこと」になるのかを考えるのは困難でした。ビデオの制作については週 1 回程度打ち合わせが持たれ,進捗を報告することになっていました。事実上申立者の作業速度が律速ですから,打ち合わせは,ほとんど,申立者の作業が滞っていることと,アイディアがないことを申し開く場になっていました。打ち合わせの席上でアイディアらしきは出されるのですが,実作業をする申立者にはそのアイディアでどのような映像を撮るのか,どのような構成になるのか,手間をどれくらいかけるのか,の折り合いをつけることはできませんでした。はっきり申し上げれば,「好き放題を言われて困って」いました。結局,「どのような映像を撮るのか」という目標を欠い
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たまま撮影を開始せざるを得ませんでした。結局それは,撮影した映像からつじつまが合うように編集するということにほかならず,申立者が撮影映像のチェックを何十回と繰り返さざるを得ませんでした。当時,連日午前3時ごろまで編集作業をしていたと記憶しています。誰もが作業量を甘く見積もっていました。申立者も,です。
並行して,動画の撮影以外の実作業,たとえば映像の端々に使用する資料写真等の撮影を他の方にお願いしていました。しかし,それらが撮影・準備されている気配はなく(写真は,結局,期日直前に■■■■助教が撮影してくださいました),わたしには撮影・編集の催促ばかりが来るようになりました。
行き当たりばったりで撮影した映像をまとめることは困難で,案の定,以降どのような映像を撮影すべきかに行き詰ってしまいました。予定していた撮影が,雑賀氏の不在と荒天で流れ,7月末では完成しないことが濃厚になると,申立者はそれまでに撮影できている映像から,8月の学校見学会までに,当面の使用に堪えうるビデオを編集する方針を採ることにしました。
連日深夜まで編集作業をし,学校見学会までにはひととおり上映できるビデオを準備しましたが,使用されることはありませんでした。ビデオはDVDに記録しましたが,そのDVDは紛失しています。学校見学会当日は,まるでPRビデオの計画そのものがなかったかのようでした。申立者は,大変な徒労感に襲われました。
申立者は,制作が滞ってしまったことを,協力いただいた,また協力いただく予定だった学生さんに謝罪しました。のちに述べる「決定的な一言」を言われた後もあって,PRビデオについて以降話題にすることを,申立者は恐ろしく感じていました。ですので,PRビデオ制作はうやむやのままです。ですが,協力いただいた学生さんに申し訳ないと思い,撮影した分(学生さんへのインタビュー)については,申立者の判断で,12月に文字起こしをし,学科のウェブサイトに掲載しました。
在外研究に応募できない
6月ごろになると,在外研究員の募集があります。数年前,■■■■教授から応募を打診され,受け入れ先の探し方を古巣の大学に尋ねたところ,(尋ねた時点から)短期間では受け入れ先を見つけるのは難しいことがわかり,そのときは断念していました。さまざまな機関で財政的に緊縮傾向ですから,コネクションがないと身一つで受け入れてもらうことも難しくなり,研究費持参やプロジェクト付きでないと歓迎されないのでした。
平成26年において,6月ごろ,申立者は雑賀氏に呼び出され,在外研究員への応募を検討するように申し付けられました。この時点で受け入れ先の探し方はわかっていましたから,受け入れ先が見つかれば応募する,という返事をした記憶があります。
一方で,申立者は前記の学科PRビデオの仕事も負っていました。連日連夜,構成の検討,台本の執筆,編集作業を行っていました。その進捗がたびたび尋ねられる状況で,さらに在外研究員応募の準備状況の進捗を尋ねられるという,ひたすらに動き続けないといけない状況になりました。
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まず,古巣の大学で,海外の研究機関にコネクションがあったり,勤務していたりする卒業生などを探してリストアップしていただきました。
受け入れ先候補を見つけて打診し,交渉するに際して,当然相手がいますから,その返事までに時間を要します。どのように交渉すべきかを考える時間も必要です。ですが,雑賀氏はそのリードタイムを考慮していないかのように,準備状況の進捗を尋ねてきます。さらに,学科PRビデオの進捗も尋ねてきます。時間をできる限り使ってこれらをこなすしかないと考えていました。
1週間に1度か2度,呼び出されました。■■■■教授も同席していました。■■■■教授は,「しばらくの間,環境を変えてみるのもよい」と言った記憶が(ほとんどそれだけしか言っていない)記憶があります。準備状況としては,返事待ちであったり(しばらく後には,申立者が返事をもらっていたことを忘れていた場面も出ていました),申立者が過負荷で作業が遅くなったりで,雑賀氏の思うように進まない状況になっていたと思います(うまく進められなくなっていて焦っていたのは申請者も同じです)。徐々に,雑賀氏は申立者を詰問するようになってきます。
申立者は疲れてきたのだと思います。在外研究に応募しようとする意欲が,日に日に弱くなってきました。そのころ,私事でありますが自宅の両親の関係がぎくしゃくしてきたこともあり,この状態で半年なり自分が不在にしてよいものかと考えるようにもなりました。交渉がうまく運ばないようなら取りやめようと,気持ちが傾いていました。
すべての反論や意見は「あなたの言っていることは理解できない」で一蹴され,封殺されました。何を言っても聞き入れられない。在外研究に出るべきだ,自分は行きたくても行けなかったんだ,両親のことは関係ない,今の状況は行き詰まりだ,もうあなたのやり方は通用しない,学生はついてこない,将来のビジョンはあるのか,学校に対して何ができるのか考えたことはあるのか,……。申立者は,麻痺していました。思考が停止していました。何も聞き入れられないことに,反論しても仕方がない。あらゆる詰問に「わかりません」しか答えられなくなりました。その「わかりません」に対してさらになじられ,人格ごと否定されました。そうなることは頭のどこかでわかっていても,もう自分が何を言っても無駄ということがわかりきっている以上,口をついてであるのは「わかりません」以外にはありませんでした。貶められている自身だけが自覚されました。自己否定の感情と恐怖がもたげてきて,糸が切れそうになるのをかろうじて耐えているかのような心持でした。■■■■教授はこのようすを黙って見ていました。
そして憶えている中で,最後で,もっとも強烈な言葉が投げられました。
「まあ,この学校も,いざとなったら血も涙もないですから」
ああ,従わないと馘首するというのか。切れないように保っていた糸が切れたようでした。申立者はそのときに笑った記憶があります。よくわからないところから笑いがこみあげてきた記憶があります。おそらくそのとき,わたしは壊された。
今にして思えば,あの過負荷の状況で,満足に学生さんの相手もできず,研究の文献も調べられず,先の見えないビデオの制作と,在外研究の交渉に神経をすり減らしていたこ
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とこそが,「行き詰まった状況」そのものなのでした。
その記録は,記憶以外にありません。おそらくこのころ,申立者は正常な判断はできていなかったのだと思います。記録を取るという知恵も,出てきませんでした。考えてみれば,記録がないので泣き寝入りという多くの結末は,記録を取るべき者は記録を取るべきときにはそのことに考えすら及ばないところまで追い込まれている,という状況がもたらしているに違いないのでしょう。
一方で,そのころ,申立者の心身に異変があることを自覚しました。
睡眠が不規則になりました。自宅では眠っているのかいないのかわからなくなり,一方で,研究室や,学生実験中に突然眠ってしまうようになりました。これは,恥ずかしいことですが,多くの学生さんが見ています。
また,文章を読んだり書いたりするのに,もどかしいほど時間がかかるようになりました。集中力が著しく落ちていました。同じ部分を何回も読まないと理解できなかったり,気づいたら同じ行を何度も読んでいたりすることもしばしばでした。とりわけ,その在外研究員の書類の作成では何を書いてあるのかわからず呆然としました。受け入れを打診した機関への電子メールや書類の作成についても,数行の英文に一時間は軽く要していました。電子メールメッセージについても,受信したことやその内容を忘れたり,返信を失念したりといった取りこぼしも増えていたと思います。
それから,食事に味がしなくなりました。このころ研究室の学生さんの大学編入学試験の慰労を兼ねてレストランに食事に行って,そこでの料理に味がしなかったのがたいへんにショックでした。食事を楽しんでいたふりをしていたことを憶えています。
授業だけをかろうじてこなしていた記憶があります。
これがうつ病の症状に近いことを自覚して,また「血も涙もない」の発言に恐怖と不安を覚えて,申立者は群馬病院の精神科を受診しました。睡眠薬や向精神薬が処方されました。医師からは,しかるべき立場の人物または信頼できる人物に相談し,状況が改善しないようならば診断書を出すので休職するよう指示されました。
その翌日か翌々日か,前学科長の■■■■教授に相談に行き,校長にも現状を訴えました。少なくとも業務が荷重であることについては少々緩和され,予定されていた学校からの要請での研修の出張は取りやめになりました。申立者自身としては,8月の間,週1日休暇をとり週4日勤務とし,9月は週のうち1日を半日で帰宅する4.5日勤務とすることにしました。ただ,このとき校長には,軽くあしらわれたという印象が残っています。
その日,雑賀氏から書類作成の進捗を尋ねられました。申立者は,医師の診察を受けたところ,これ以上対応できる状態にないので在外研究の件は取りやめにしてほしいを告げました。しかし,その後,また進捗を尋ねてきました。締め切りを延ばすとか,校長に申し開きができないといったことを言われた(書かれた)記憶があります。申立者は,少なくとも書類を作成できる状況になく,どうにもできませんでした。それでも連日お構いなく雑賀氏は迫ってきました。
恐ろしくなりました。毎年のようにこうやって追いつめられるのか。同じように恫喝さ
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れ,脅迫されるのか。ひょっとしたらこれは十年以上続くのではないか。壊される。ここから逃げなければならないと,感じました。
それからしばらく,申立者は精神的に不安定でした。夜,研究室に独りになり,仕事をやっとこなしていて,その間なぜかに縊死体の写真を検索して眺めたり,いわゆる「自殺サイト」をめぐったり,ネクタイで首を絞めたりしてはたと我に返ったりということが「起こり」ました。自分のやっていることがわからないことにも恐ろしかった記憶があります。この時期,研究室に出入りしている学生さんに,申立者を,夜,研究室で独りにしないでほしい旨,懇願した記憶があります。
在外研究員の件は,書類が作成できぬまま締め切りを過ぎました。受け入れを打診した機関には,お詫びを差し上げました。
そのときの薬の処方は,増減して,現在もほとんど変わっていません。減薬されていないのですから,快方に向かっているとは言いがたい状況なのでしょう。
この一連のできごとの一部は,電子メールで記録が残っていると記憶しています。
直後,本校の編入学試験の問題作成をせよと雑賀氏から命じられました。「若いから」「経験があるから」の,いつもどおりの理由でした。申立者は精神的に不安定であり,これ以上の仕事を負える状態にないという自覚のもと,これを断りました。
指導学生が壊された
申立者には,平成26年度において,卒業研究を担当している電子情報工学科■年に不安がありました。■■■■さんです。彼女は,大学編入学試験で第一志望大学に合格を決めたあと,燃え尽きてしまったのか,研究室に現れなくなりました。7月のできごとでした。
授業は何とか耐えられるものの,周囲が気になるという訴えでした。また,不眠もあるようで,医師の受診を勧めました。同時に学生相談室およびご家庭と協力して,彼女が復帰できるよう整えてきました。残念なことに,夏季休業を終えても彼女はほとんど姿を見せず,11月初旬の卒業研究中間発表もできない状況になっていました。学生相談室と相談した方針としては,少しずつできることからできるようにする,根気強く待つ,ということでした。10月下旬ごろからは,電子情報工学科■年担任の■■■■特任教授も交えて見守っていくことにしました。
そのころ,雑賀氏から■■■■さんの状況を尋ねられました。彼女が精神的に疲弊した状態が続いていること,通院していること,学生相談室と協力して対応しているので,根気強く待つことが必要であることを話しました。このとき,雑賀氏は,「学科長として責任がある」と言っていたことを憶えています。
11月12日です。■■■■さんから申立者にメールが送られてきました。文面は「雑賀さんに説教されました……「なるべくほっといてほしい」っていったんですけど「立場上責任があるので~……」って断られたのでお話はせめて■■■■さんを通して、みたいな感じのことをさりげなく伝えてもらってもいいでしょうか……」(原文ママ)でした。
■■■■さんは翌 13 日,学校を欠席しました。その翌日には登校したそうですが,以降,彼
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女は研究室にまったく姿を現さなくなりました。申立者は,すぐにご家庭にお電話し,謝罪しました。13日は「学校に行きたくない」とふさぎこんでいたそうです。お母様には学生相談室に来室いただき,ご家庭での対応・ケアを相談していただきたい旨をお願いしました。お母様は11月の18日か25日に学生相談室にいらっしゃり,その機に申立者は■■■■教授とともに改めて謝罪しました。
最悪の事態になってしまったと思いました。■■■■さんが雑賀氏に呼び出されたようすを見ていないか,電子情報工学科5年の学生さんに尋ねたところ,11月12日の,電子情報工学科棟1階情報処理実習室を使用する授業のあと,「連れて行かれた」と話してくださいました。そして,その学生さんは「彼女(さん)はもう終わった」と思ったそうです。
わたしが護るべき学生さんが壊された。
悔しく,憤慨し,それで恐ろしかった。自己嫌悪にさいなまれました。
申立者は,1年半ほど前,過去に卒業研究を担当した学生さんが,大学院でアカデミックハラスメントとみなせる行為に遭っていたことを知らされていました。申立者は,彼の卒業時,大学で立派に研究をしてくれるものと期待していました。ですがその真面目な性質が災いしたか,付け入られたのか,修士課程■年のときに意欲を失っていたそうです。指導教員の苛烈な要求と拘束だったと聞いています。この件は「穏便に」片付けられ,彼は指導教員を変更し,ひととおりの修士論文を執筆して修了しました。彼は大学院時代のことを語ろうとしません。申立者は,ハラスメント行為で学生が壊されること,そしてそれが「穏便に」片付けられ,解決が与えられないことに憤りました。もとい,憎むようになっていました。
そして,申立者は,今度はその目の前で,おそらくは執拗な叱責により,学生を壊されました。
しかし,申立者は,■■■■さんの訴えどおりに,雑賀氏に進言しませんでした。できませんでした。進言すれば,おそらくは申立者の「責任」として執拗に叱責されることが予想されました。またきっと,あらゆる説明は「理解できない」の一言のもとに一蹴されるのだと思いました。身体がその行動をとることを拒んでいました。それから,その進言により,■■■■さんが再度呼び出され,半ば報復的に詰問されることも予想されたからです。
12月には,学生相談室からは,もうできることはやり尽くした, さんはそっとしておくほかないのではないかと言われました。このまま無理に卒業研究を遂行してもらうこと,登校することは余計に傷つくことになるから,と。そこまで傷つけられたのかと思うと,申し訳が立ちませんでした。ですが申立者は,■■■■さんに直接お会いして,謝罪できていません。
一方で申立者は,何も変わらないようであれば本校を辞そうと考えていました。毎年,ことあるたびにわたしは呼び出されて,詰問されて,叱責されて,否定されるのか。そうやって消耗していく未来にげんなりし,同時に恐怖を感じていました。申立者のもとに,ずいぶんと前に応募した大学教員公募に対する面接試験の報せが届いていました。
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恐ろしくて言えない
在外研究の一件以来,学科や学校に対して,見聞したことや意見述べることは,めっきり減った気がします。言い出すことが恐ろしくなっていました。
保留になった学科PRビデオの件は前記しました。また,学校見学会における電子情報工学科の見学者数が,昨年度に比べて大きく減少していることを把握していましたが,報告していません(学科パンフレットの払い出し数から知ることができ,申立者は例年これを数えていました)。本件の報告により,申立者が「責任」のもと叱責される恐れがあること,「対策」を取るよう指示されること,その対策案を示しても一蹴されることが予想されたからです。学校見学会における見学者数の減少については,申立者のみが知っている事実ではなく,電子情報工学科の複数の教員・学生さんにお話ししています。しかし,学科長である雑賀氏には誰も報告していません。
前記の■■■■さんが叱責されただろうことに対する抗議も,できませんでした。
何も変わっていなかった
11月になって,■■■■助教から,雑賀氏から過剰な業務を命じられ,恫喝されていたことを打ち明けられました。前記のように,■■■■さんが,雑賀氏の「面談」の後に卒業研究への意欲を失い,欠席がちになり,卒業要件を満たせなくなる恐れが出てきました。
申立者の知るところ,知らないところで,何人もの学生さん・教職員が,雑賀氏にハラスメントとみなせる行為を被っていたことがわかってきました。そして,来年度も,雑賀氏が学科長を務めることが明らかになりました。
何も変わることはないことがわかりました。
申立者は,きっと,叱責され,恫喝され,否定されます。その身で学生さんのお相手をすることを考えるとつらくなりました。学生さんにとっても申し訳ないと思いました。また,申立者自身が壊れていく傍らで,学生も壊されていくことを見ることになるのだと思いました。たまらなくなりました。
12月初旬,申立者が応募していた公募の面接の結果が届きました。申立者を採用したいとのことでした。本校を辞することを決意しました。校長と,■■■■教授と,雑賀氏に辞意を告げました。そのとき校長が,「彼に悪気はないのだから」と言っていたことを憶えています。「悪気なく」何人もの教員と,何人もの学生が,傷つけられ,虐げられ,壊されていることは,「許されていた」のだと知りました。
どっと疲れが襲ってきました。
申立者は体調を崩しました。耳が塞がれた聞こえがします。空腹感を覚えなくなりました。申立者の心身はすでに消耗しきっており,緊張によって保たれていたことを知りました。からっぽになってしまったかのようです。心身が雑賀氏を拒否するようになっていました。辞意を表明してから雑賀氏に呼び出されることが増えました。そのたびに不安にとらえられ,胸が苦しくなりました。さらに,自分がこの先自分として保っていくことが可能なのかに不安になり,恐ろしくもなりました。これがふと襲ってきて,毎日のようにさ
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いなまれています。わたしはこの先もやっていけるのか。もうすべてを諦めたほうがよいのか。
ところがその後に,申立者は次々と,雑賀氏が学生に対して行っていた仕打ちを見聞することになります。電子情報工学科■年生の■■■■さんが最近欠席がちなのは,卒業研究発表会の直後に雑賀氏に詰め寄られ自信を喪失したかららしいこと。電子情報工学科■年生の■■■■さんが就職活動の不振に対して泣き出すまでに叱責されていたこと。専攻科■年の■■■■さんが2年前から登校しなくなったのは,雑賀氏の言動が原因であったらしいこと,など。しかしその誰もが,泣き寝入りをしていました。申立者がそれまで知っていたのは,氷山の一角でした。
そして,12月中旬の教員学生連絡会議で,電子情報工学科に異変が起こっていることが,学生会からそれとなく指摘されたことを聞きました。■■■■助教が過剰に仕事をさせられ疲弊していること,申立者が精神的にボロボロになっていることなど,学生さんにはとうにお見通しだったのでした。
申立者は学生相談室に,少なくとも学生さんの保護と救済を訴えました。申立者のみが逃れることに,後ろめたさもあったためです。雑賀氏の振る舞いについて,学生が相談に来た事例があることを知りました。もはや小さくない問題であることを知りました。その場に同席した学生相談室長・■■■■教授と■■■■カウンセラは,これはハラスメント事例であると言われました。一方で,対応の手順を誤ると,雑賀氏から報復や八つ当たりなどの危害が及ぶ可能性があることが指摘されました。ケアが急務である学生さんがリストアップされ,雑賀氏に感づかれないように対応をすることで合意しました。学生相談室での一件は校長に報告されたそうですが,対応は「様子を見る」であると知らされました。学生さんは対処的にしか,ことが起こってからでしか護られない,ことが起こった後でも護られないことを知りました。
やはり変わることがないことがわかりました。
もうわたしは,すべてを諦めたほうがよいのか。
申立者は,自身の尊厳を否定されたことをもって,また,自身が護るべき学生さんの尊厳をも傷つけられたことをもって,これをハラスメント行為として申し立てます。申立者には,これから何年もの間,学生が傷つけられていく未来しか見えません。たとえ申立者が本校を辞する身であったとしても,その未来に進むがままにすることは,おそらく200名,それ以上の学生さんを裏切る無責任な行為だと考えるからです。見て見ぬふりをする行為だと考えるからです。もうすでに申立者は少なからず学生さんを裏切っていると思います。ですが,わたしはもう耐えていけない。このままで申立者がいっそうの迷惑をかけ続けるのはもっと申し訳ないと思っています。
わたしはこの半年間,自分を保つのに精いっぱいだったと思います。否定された自分を保つのに精いっぱいだったのだと思います。電子情報工学科■年生に国際バーチャルリアリティコンテストの指導教員を依頼されました。決勝大会直前には,それにかかわること
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が自分のやっていることを確認していく手段になっていたような気がします。また,卒業生から,大学・大学院で活躍していることの報せをいただく機会もありました,それで自分のやってきたことを肯定しようとしていました。そうやって申立者は自分を騙していました。でも今,わたしには何もなくなっていました。
電子情報工学科■年の■■■■さんには,特に申し訳なく思っています。入学時より申立者を慕ってくださり,専攻科まで申立者を指導教員としたいと言っていただきました。申立者が,申立者の事情として,心身の問題としてこれ以上彼のお世話をできない旨を伝えたとき,彼は「そうですか」と言って下を向いて歯噛みをしていました。わたしは彼を裏切ったのか。罪悪感に襲われました。
電子情報工学科の異常な光景は,もはや日常になってしまったように思います。学生が呼び出され,これから叱責されて砕かれようという光景を目にして,学生さんが憐憫をたれながら「彼女は終わった」の一言で済ませてしまう。これが,あのときから1年経とうとした,電子情報工学科の日常です。
この日常は異常である。少なくともそれは,200名の学生さんに訴えたい。今わたしにできることは,これを叫び,何がなされたのか,何が起こっているのかを綴り,救済を願うこと,こればかりです。
なお,本書から学生さんの個人名を除いた写しを,本書提出後,1週間後に本校後援会事務局に送付いたします。本申し立てには本校に在籍する学生さんの利益と尊厳に大きくかかわるものです。ハラスメントとみなせる行為を受けた学生さんの多くが泣き寝入りを余儀なくされている以上,学生さんに対するステークスホルダとして,保護者のみなさまにも,本申し立ておよびそれに付随する本校の状況をお知らせするべきと考えております。
また,これは,学校が本件に対して,兆候があったものの迅速かつじゅうぶんな措置をとってこなかったこと,および,これを鑑みて学校が本申し立てに対する調査を行わない恐れがあると申立者が判断しての措置であります。
申立者が見聞きした,ハラスメントとみなせる行為を受けた学生・教職員
・電子情報工学科・■■■■助教:勤務1年めにして,過剰量の業務を命じられています。帰宅が深夜,または帰宅していない日も見受けられます。■■■■助教は着任当初より,雑賀氏に相当の業務を命じられていました。■■■■助教が漏らしたところでは,「仕事を覚えるために仕事をしてもらう」という言い分で,次々に仕事を命じられているとのことです。理由を尋ねたり,意見を申し立てたりしようとすると,「あなたは仕事をしたことがないから何もわかっていない」と一蹴するそうです。挙句,「働かないようならば『つぶす』」と詰め寄られ,■■■■助教は「諦めた」と打ち明けています。申立者と同等か,それ以上の圧迫を受けていた・いるものと思われます。申立者がこれを聞いたとき,しかるべき相手(校長など)に相談することを勧めましたが,「どうしようもなくなったら」と,留保している状態です。■■■■助教が雑賀氏より詰め寄られて
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いる現場は,■■■■助教が卒業研究を担当している3名の学生さん(■■■■さん,■■■■さん,■■■■さん)をはじめとして,何人もの電子情報工学科生が目撃しているそうです。■■■■助教は,万一の場合に備えてボイスレコーダを携帯するようになったそうです。
・電子情報工学科■年・■■■■さん:11月の卒業研究中間発表会直後,雑賀氏に卒業研究の内容について質問され,そのまま詰め寄られるふうになったと聞いています。■■■■さんはそれまで大学編入学試験で苦戦を強いられており,卒業研究への取り組みが手薄になりがちになってしまったことは事実です。ですが,少なくとも取り組み始めた研究の多くの部分を居丈高に否定され,(■■■■さんが温和で厭戦的な性格であることもあって)反論できず/せず,消沈するところとなったそうです。ひととおりの謝罪もあったようですが,以降,■■■■さんは学校を欠席がちになりました。この顛末については,研究室の同輩である■■■■さんが多くをご存じだと思います。
・電子情報工学科■年・■■■■さん:申立者が卒業研究を担当している学生さんです。大学編入学試験直後よりその疲れで心身を失調し,申立者・学生相談室・保護者と協力してケアをしていました。しかし,11月に雑賀氏に呼び出された直後,「そっとしておいてほしい」とのメールを最後に,翌日学校を欠席し,卒業研究および学科棟へ来ることを拒むようになりました。そのときより,欠課も増えてきたように思います。そのメールには雑賀氏を止めてほしい旨の訴えも書かれていましたが,申立者にはそれを行うことが恐怖であったことと,報復的追及が■■■■さん本人に及ぶことを恐れて何もできていません。ただし,■■■■さん本人の精神状態を鑑みると,■■■■さんから事情を聴取することは適切ではありません。保護者(お母様)が,呼び出された後からのご家庭でのようすをご存じかと思います。
・電子情報工学科■年・■■■■さん:12月中旬に,申請者は,過去に雑賀氏から恫喝的な叱責にあったことを打ち明けられました(周囲には以前にも話していたそうです)。■■■■さんは卒業後就職を希望しています。就職活動が思わぬように進まなかった点を咎められたのか叱責され,泣き腫らして帰ったとのことでした。これについて「記録もとっていないし,もう忘れたし,しらを切られれば終わりだ(だから申し立てをしても仕方がない)」と話していました。■■■■助教が卒業研究を担当している学生さんでもあります。
・電子情報工学科■年・■■■■さん:■■■■さんは残念ながら学業成績が不振がちな学生さんです。これについて,お母様・■■■■さん・雑賀氏の三者で面談したとき,■■■■さんが執拗に叱責され,涙を流すまでになっていたと聞いています。お母様は憤慨されていたと聞いています。本件は,直後に■■■■さんの実兄である■■■■さんが周囲に話していました。
・専攻科生産システム工学専攻■年・■■■■さん:平成■年度電子情報工学科卒業生で,専攻科に進学しました。専攻科在籍■年めです。当初,雑賀氏が■■■■さんの特別研究の指導教員でした。課題を着実にこなせる学生さんだったという印象があります。
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いつからか,学校に姿を現さなくなりました。以降,電子情報工学科・■■■■教授に指導教員を変更しましたが,姿を見せぬまま現在に至っています。電子情報工学科■年に実弟の■■■■さんがいらっしゃり,12月初旬,■■■■さんが,自分が■■■■さんの弟であること,■■■■さんが学校に来られなくなった大きな理由が雑賀氏にあることを,電子情報工学科・■■■■助教に漏らしました。ですが,■■■■さん本人から事情を聴取することは簡単ではないでしょう。
本申し立てに対しまたは上記の見聞に対し,意見を聴取できる学生・教職員
・電子情報工学科■年・■■■■さん,電子情報工学科■年・■■■■さん:平成■年度の卒業研究において,申立者が卒業研究の担当となっている学生さんです。申立者の今年度のようすについて,話してくださるものと思います。
・電子情報工学科■年・■■■■さん,電子情報工学科■年・■■■■さん:昨年度(平成■年度),電子情報工学科■年担任として申立者が受け持った学生さんです。残念ながら原級留置されています。昨年度,ふたりが不振となった事情のひとつが「安心して過ごせる場所がなかった」ことから,申立者の研究室を放課後から帰宅までの学習に使ってもらっています。前記の■■■■さん,■■■■さんと同じく,申立者の今年度のようすについて,話してくださるものと思います。
・電子情報工学科■年・■■■■さん,電子情報工学科■年・■■■■さん:平成■年度の卒業研究において,前記の■■■■助教が卒業研究を担当している学生さんです。■■■■助教のようす,雑賀氏とのトラブルについて話してくださるものと思います。また,前記の■■■■さんと研究室の同輩であることから,■■■■さんについてもお話が聞けるものと思います。■■■■助教の研究室のドアは,有人の間は開錠されていましたが,雑賀氏がたびたびやってくることを気にして,最近では常時施錠されるようになっています。
・電子情報工学科■年・■■■■さん:前記の■■■■さんの研究室の同輩です。■■■■さんについての顛末について話してくださるものと思います。また,■■■■助教が雑賀氏に詰め寄られている現場を目撃しており,それは「客観的に見てハラスメントである」と話していました。■■■■さんは気配りの上手な学生さんであることから,電子情報工学科■年生についてもお話を聞けるものと思います。
・電子メディア工学科■年・■■■■さん:前記の■■■■さんの実兄です。■■■■さんが雑賀氏より執拗な叱責を受けたことを本人とお母様から聞いて憤慨し,そのことを周囲に漏らしていました。
・電子情報工学科■年・■■■■さん:前記の■■■■さんの実弟です。12月初旬に,■■■■助教に「ぼくの兄は雑賀先生の一言で学校に行かなくなった」と話しています。これを聞いた当時,■■■■助教はこれが重大なことであることをご存じではありませんでした。■■■■さんについては,■■■■さんを通じて尋ねるのが適切と思われます。
・専攻科生産システム工学専攻■年・■■■■さん:平成■年度電子情報工学科卒業生で,
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専攻科に進学しました。本科の卒業研究においては雑賀氏が指導教員でした。現在,専攻科特別研究では■■■■准教授を指導教員としています。■■■■さんが専攻科で指導教員を変更した理由は,雑賀氏の「指導」に耐えかねたから,と周囲に話しています。また,平成26年4月に,本科■年生が卒業研究の指導教員に雑賀氏を志望していると聞いて,その学生さんに思いとどまるよう諭したこともあります。雑賀氏のようすについてお話しくださるものと思います。
・電子情報工学科・■■■■准教授:申立者が本件について相談しています。■■■■助教の話も聞かれています。
・電子情報工学科・■■■■特任教授:平成 26 年度電子情報工学科■年の担任です。叱責を受けた学生さんについてご存じのことがあると思います。
本申し立てにより保護を必要とする方
・電子情報工学科■年・■■■■さん:平成■年度に雑賀氏が卒業研究を担当している学生さんのひとりです。優秀な学生さんですが,要領がよくない面があり,雑賀氏は■■■■さんが無能であると周囲に触れ回っています(申立者はこの扱いを遺憾に思っています)。年が明けて卒業研究の追い込みが本格化したとき,雑賀氏の思いどおりに進められない状態に陥ったら,■■■■さんが執拗に叱責されるものと予想されます。また,本申し立てによって雑賀氏が憤慨したり焦ったりして,■■■■さんに八つ当たりする恐れもあります(平成■年度の卒業研究発表会において,雑賀氏が指導する学生さんの発表に対して質問がなされ,満足に回答できなかったことに対し,後日その学生さんを恫喝的に叱責していたと聞いています)。
・電子情報工学科■年・■■■■さん:修学上の能力には問題ありませんが,課題等で行き詰ったりすると,強迫観念に駆られるのか,学校を欠席してしまう傾向がある学生さんです。■■■■さんについては学級担任(一般教科・■■■■講師)が指導を重ねていると聞いていますが,雑賀氏が■■■■さん本人と保護者を交えた面談を希望しています。雑賀氏が面談の席上で■■■■さんを執拗に叱責する恐れがあることから(叱責された場合,おそらくこれまでの学生さんのように意欲の減退,または最悪の場合,休退学に追い込まれることが考えられることから),■■■■助教が■■■■講師に面談の中止または延期を申し入れました。現在面談の実施は保留されていますが,雑賀氏が校内で■■■■さんのみを呼び出して叱責する恐れもあります。
以上
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【当会注:上掲の申立て内でも言及されているとおり、この申し立てを行った電子情報工学科講師(当時)のほかに、同学科の助教(当時)も雑賀洋平による苛烈なアカハラの餌食にされていたという。上掲の申立てを行った講師が2015年3月に群馬高専を辞してから、この助教が残された形になったが、依然として雑賀洋平から過大な職務を命じられ続けたという。話によると、土日も夏休みも返上でぶっ続けの出勤を続けており、身体を壊しかねないレベルだったという。この助教を慕う同学科の学生などが奮闘したが、雑賀の毒牙から救うことはできず、上述の講師の後を追うようにして2016年3月に退職してしまったという。雑賀洋平が何ら反省もしない純然たる悪人である事実を確信させられるとともに、西尾校長が誰に何を言われてもハラスメントの放置を続けた実態をまざまざと示すエピソードである】
【市民オンブズマン群馬事務局からの報告・この項つづく】
*****<関連記事間リンク>*****
○2021年9月11日:雑賀洋平による群馬高専J科アカハラ事件の記録①…ログ・タイムテーブル・当時の概況・西尾校長の説明↓
https://pink.ap.teacup.com/ogawaken/3361.html
○2021年9月11日:雑賀洋平による群馬高専J科アカハラ事件の記録②…被害教員による『ハラスメントに関する申立書』↓
https://pink.ap.teacup.com/ogawaken/3362.html
○2021年9月11日:雑賀洋平による群馬高専J科アカハラ事件の記録③…被害学生らによる『人権・被害救済の申し立て』↓
https://pink.ap.teacup.com/ogawaken/3363.html
○2021年9月12日:【記録資料番外編】群馬高専における深刻な諸問題の2021年9月現在に至る経過まとめ↓
https://pink.ap.teacup.com/ogawaken/3364.html
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【当会注:なお、記録資料3『群馬高専のハラスメントについて』冒頭にもあるとおり、同講師は職と引き換えにこの申立書を提出した。勇気を振り絞ったこの告発すらロクに相手せず、アカハラ揉み消しに動く天下り西尾校長と学校側の腐敗体質に絶望しながら、2015年3月に同校を去ったという。なお、同講師は学生にすこぶる人気であったという】
【記録資料5】ハラスメントに関する申立書(2014.12.24付)
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ハラスメントに関する申立書
平成26年12月24日
群馬工業高等専門学校
校長 西尾典眞 殿
副校長・教務主事 ■■■■ 殿
副校長・学生主事 ■■■■ 殿
学生相談室長 ■■■■ 殿
総務課長 ■■■■ 殿
申立者 電子情報工学科 講師 ■■■■
本書をもって,群馬工業高等専門学校電子情報工学科長・雑賀洋平教授のハラスメント行為を申し立てます。
本書は,主に申立者が受けた/関わりを持ったハラスメント行為について述べますが,申立者のほかにもハラスメントとみなせる行為によって深く傷ついた学生・教職員がいらっしゃいます。申立者が知る限りについて,本書の末尾に付記いたします。この方々についても調査・対応・ケアをしていただくことを望みます。
本申し立てで述べる事項は,当時は,申立者の職務上の過失や瑕疵に起因するものと考え,申立者ひとりで片づけるべき問題と認識しておりました。しかし一連のできごとが現在の申立者の生活や健康状態に今でも良好でない影響を及ぼしていること,また,前記のように傷つけられた学生・教職員が申立者のほかにもいらっしゃって,泣き寝入りせざるをえなくなっていることを見聞きしたことと併せ,少なくとも電子情報工学科教職員・学生の救済と,将来にわたり傷つく学生が現れることのないよう,措置を講じることを希望し,ここに申し立てをいたします。
叱責され傷つくことは,やがて成長の糧になると言われもします。より理不尽に満ちた社会の縮図として受け容れ,(思想的文脈における)「大人」になるための機会とせよとも言われます。しかし少なくとも申立者は,わたしたちはその「現実」のみをすべてとして受け容れよという言説には同意しかねます。
わたしたちには多かれ少なかれ「理想」があり,それを追う機会が与えられます。その過程で理不尽・閉塞感・後悔に満ちた「現実」が出現し,わたしたちはそれとの折り合いをつけることを求められます。ただ,「現実」への服従を蹂躙的に求められたとき,わたしたちは理想を失ってしまうでしょう。理想は,それが遠く彼方にあるものでも,その方角をわたしたちは感じることができます。そこへ向かう・近づく自身の姿を,自身のたどってきた道程から外挿して想像することができます。わたしたちが理想を,そしてそれにたどり着こうと残してきた道程を,「現実」の名のもとに踏みにじられ,否定されたとき,そ
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こに「与えられた」「現実」の中で,わたしたちは何をしたらよいのでしょうか。何ができましょうか。
わたしたちの現実の多くは,多くの部分が自身以外によって作られていますが,自身のありかたの投影的なものでもある一面もあるでしょう。その「自身のありかた」または「自身のありかたへの願い」が「理想」であり,「現実」に切れ目を入れて現実に/を作り替えていく力なのだと考えます。「現実を見よ」と言われ,それは多くの場合「現実」との折り合いと諦めを促す言葉でありますが,それは,自らの「理想」から出でた現実を追認せよ,それを見つけよ,見つけられるようにせよという言葉だと,申立者は信じておりました。理不尽にも抗う「理想」,それが力であると。
わたしは理想を失っていたことに気づきました。わたしの足跡が,人格が,理想が,踏みにじられ,ゼロ査定されていたことに気づきました。半年来,恐怖と逃走への欲求に支配され,怯え,もがくこと,耐えることが日々の多くを占めていました。今,そこから醒めてきたことを感じます。そこには,理想はなく,現実もなくなっていました。怯え,もがき,耐えた日々においては,なんとか気丈にふるまえる気力がありました。ですが今は,生きている「ふり」をしているかのようです。明るくふるまおうと上ずる声,笑うときに顔が引きつることに気づいてしまう瞬間。自身の一挙手一投足に虚無からの疑問符が投げられる恐ろしい違和感。どこかに付きまとう投げやりな気持ち。何もないことがわたしの中心になっていて,やらなければならないことをこなすことで生きている「ふり」という形式的な何かを感じています。
申立者は弱いのだと思います。弱く生まれた,弱く育ったのは「自己責任」であり,だから叱責に負けたのだ,と。しかも,いやしくも「大人」と呼ばれるカテゴリの人間なのだから,弱いことは許されない。そう思えば申立者は静かに退場をすればよいだけです。ですが,弱くてしかるべき人たちもが,一方的に負けを宣告されるだけの「叱責」に壊され,沈んでいく。わたしが直接護らなければならなかった学生さんまでをも。そして彼らはおそらくそれに抗う手段を持たない。悔しい。この後も何人もが同じように壊されて沈められていくだろうことを予見しながら,もう関係のないことと申立者の中で済ますことには,耐えられなくなりました。
申立者にとって,声をあげることは,もはやつらいことです。自分がどのような仕打ちを受けたのか,思い出すと胸が重くなります。しかし声をあげられなかった学生さんも何人もいらっしゃる中では,申立者が自身への仕打ちを,その一部として申し立てなければならないと考えました。学生さんの,その人間としての尊厳を,わたしには護れませんでした。護る力をも奪われていました。申し訳なさでいっぱいです。尊厳が脅かされる環境は,異常です。ですから少なくともそれが異常であることを,申立者は叫びたいと思います。そして,まだ弱くてしかるべき学生さんが,護られることを願うものであります。
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2014年4月
平成26年4月,雑賀氏が電子情報工学科長に就きました。■■■■教授が退職され,■■■■助教が着任されました。
■■■■助教を除けば申立者が電子情報工学科で最年少の教員スタッフでしたから,しばらくはフォローを引き受けることは自身で承知していました。予想どおり,担任を持っていた平成25年度よりも仕事量が多かったように感じます。フォローが必要と感じたときは適宜対応した,という点が多いわけですが,そのほかにも,雑賀氏から命じられるものもありました。命じられるときの理由が,「若いから」「経験があるから」「あなたしかできないから」のいずれかでした。それが多かったのは,4月から6月ごろと記憶しています。スタッフの入れ替わりもあったことで致し方ないと思い,引き受けていました。ですが後に知ったことでは,申立者がフォローして守ろうとふるまっていた■■■■助教にも,雑賀氏は多くの仕事を命じていたのでした。しかも,半ば恫喝的に。
申立者の帰宅時刻は,ずいぶんと遅くなりました。今から思い返すと,この「際限なく増えていく仕事」が,申立者が消耗していく背景にあったと思います。
棄てられたPRビデオ
申立者が命じられた仕事のひとつに「学科のPRビデオ」があります。現在公開されているものは平成23年に撮影されたものです。業者が撮影・編集したものです。平成23年当時,構成・ディレクションのほとんどを申立者が行いました。それから3年経ち,ビデオの更新が望まれることは,たびたび話題に上っていました。
かくして,雑賀氏からビデオの制作を命じられました。5 月から 6 月にかけてのできごとだったと記憶しています。申立者のほかには,■■■■教授,■■■■講師,■■■■助教も命じられました。制作は内製です。企画・撮影・編集をすべて学科内で行うことになりました。完成期日は7月末です。前回の制作のほとんどを申立者が負っていたこと,撮影・編集技術をおそらくは申立者しか有していなかったことから,実作業をほぼ申立者が行うことは必定でした。
ビデオの撮影・編集の人的コストは大変に高いですから,平成23年版から構成上大きな変更を加えない方針で進めたい旨を提案しました。およその方向はそれで決められましたが,「何か新しいこと」をする,という点は譲られませんでした。申立者としては,撮影の計画を立て,機材の調整をしながら,何をもって「新しいこと」になるのかを考えるのは困難でした。ビデオの制作については週 1 回程度打ち合わせが持たれ,進捗を報告することになっていました。事実上申立者の作業速度が律速ですから,打ち合わせは,ほとんど,申立者の作業が滞っていることと,アイディアがないことを申し開く場になっていました。打ち合わせの席上でアイディアらしきは出されるのですが,実作業をする申立者にはそのアイディアでどのような映像を撮るのか,どのような構成になるのか,手間をどれくらいかけるのか,の折り合いをつけることはできませんでした。はっきり申し上げれば,「好き放題を言われて困って」いました。結局,「どのような映像を撮るのか」という目標を欠い
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たまま撮影を開始せざるを得ませんでした。結局それは,撮影した映像からつじつまが合うように編集するということにほかならず,申立者が撮影映像のチェックを何十回と繰り返さざるを得ませんでした。当時,連日午前3時ごろまで編集作業をしていたと記憶しています。誰もが作業量を甘く見積もっていました。申立者も,です。
並行して,動画の撮影以外の実作業,たとえば映像の端々に使用する資料写真等の撮影を他の方にお願いしていました。しかし,それらが撮影・準備されている気配はなく(写真は,結局,期日直前に■■■■助教が撮影してくださいました),わたしには撮影・編集の催促ばかりが来るようになりました。
行き当たりばったりで撮影した映像をまとめることは困難で,案の定,以降どのような映像を撮影すべきかに行き詰ってしまいました。予定していた撮影が,雑賀氏の不在と荒天で流れ,7月末では完成しないことが濃厚になると,申立者はそれまでに撮影できている映像から,8月の学校見学会までに,当面の使用に堪えうるビデオを編集する方針を採ることにしました。
連日深夜まで編集作業をし,学校見学会までにはひととおり上映できるビデオを準備しましたが,使用されることはありませんでした。ビデオはDVDに記録しましたが,そのDVDは紛失しています。学校見学会当日は,まるでPRビデオの計画そのものがなかったかのようでした。申立者は,大変な徒労感に襲われました。
申立者は,制作が滞ってしまったことを,協力いただいた,また協力いただく予定だった学生さんに謝罪しました。のちに述べる「決定的な一言」を言われた後もあって,PRビデオについて以降話題にすることを,申立者は恐ろしく感じていました。ですので,PRビデオ制作はうやむやのままです。ですが,協力いただいた学生さんに申し訳ないと思い,撮影した分(学生さんへのインタビュー)については,申立者の判断で,12月に文字起こしをし,学科のウェブサイトに掲載しました。
在外研究に応募できない
6月ごろになると,在外研究員の募集があります。数年前,■■■■教授から応募を打診され,受け入れ先の探し方を古巣の大学に尋ねたところ,(尋ねた時点から)短期間では受け入れ先を見つけるのは難しいことがわかり,そのときは断念していました。さまざまな機関で財政的に緊縮傾向ですから,コネクションがないと身一つで受け入れてもらうことも難しくなり,研究費持参やプロジェクト付きでないと歓迎されないのでした。
平成26年において,6月ごろ,申立者は雑賀氏に呼び出され,在外研究員への応募を検討するように申し付けられました。この時点で受け入れ先の探し方はわかっていましたから,受け入れ先が見つかれば応募する,という返事をした記憶があります。
一方で,申立者は前記の学科PRビデオの仕事も負っていました。連日連夜,構成の検討,台本の執筆,編集作業を行っていました。その進捗がたびたび尋ねられる状況で,さらに在外研究員応募の準備状況の進捗を尋ねられるという,ひたすらに動き続けないといけない状況になりました。
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まず,古巣の大学で,海外の研究機関にコネクションがあったり,勤務していたりする卒業生などを探してリストアップしていただきました。
受け入れ先候補を見つけて打診し,交渉するに際して,当然相手がいますから,その返事までに時間を要します。どのように交渉すべきかを考える時間も必要です。ですが,雑賀氏はそのリードタイムを考慮していないかのように,準備状況の進捗を尋ねてきます。さらに,学科PRビデオの進捗も尋ねてきます。時間をできる限り使ってこれらをこなすしかないと考えていました。
1週間に1度か2度,呼び出されました。■■■■教授も同席していました。■■■■教授は,「しばらくの間,環境を変えてみるのもよい」と言った記憶が(ほとんどそれだけしか言っていない)記憶があります。準備状況としては,返事待ちであったり(しばらく後には,申立者が返事をもらっていたことを忘れていた場面も出ていました),申立者が過負荷で作業が遅くなったりで,雑賀氏の思うように進まない状況になっていたと思います(うまく進められなくなっていて焦っていたのは申請者も同じです)。徐々に,雑賀氏は申立者を詰問するようになってきます。
申立者は疲れてきたのだと思います。在外研究に応募しようとする意欲が,日に日に弱くなってきました。そのころ,私事でありますが自宅の両親の関係がぎくしゃくしてきたこともあり,この状態で半年なり自分が不在にしてよいものかと考えるようにもなりました。交渉がうまく運ばないようなら取りやめようと,気持ちが傾いていました。
すべての反論や意見は「あなたの言っていることは理解できない」で一蹴され,封殺されました。何を言っても聞き入れられない。在外研究に出るべきだ,自分は行きたくても行けなかったんだ,両親のことは関係ない,今の状況は行き詰まりだ,もうあなたのやり方は通用しない,学生はついてこない,将来のビジョンはあるのか,学校に対して何ができるのか考えたことはあるのか,……。申立者は,麻痺していました。思考が停止していました。何も聞き入れられないことに,反論しても仕方がない。あらゆる詰問に「わかりません」しか答えられなくなりました。その「わかりません」に対してさらになじられ,人格ごと否定されました。そうなることは頭のどこかでわかっていても,もう自分が何を言っても無駄ということがわかりきっている以上,口をついてであるのは「わかりません」以外にはありませんでした。貶められている自身だけが自覚されました。自己否定の感情と恐怖がもたげてきて,糸が切れそうになるのをかろうじて耐えているかのような心持でした。■■■■教授はこのようすを黙って見ていました。
そして憶えている中で,最後で,もっとも強烈な言葉が投げられました。
「まあ,この学校も,いざとなったら血も涙もないですから」
ああ,従わないと馘首するというのか。切れないように保っていた糸が切れたようでした。申立者はそのときに笑った記憶があります。よくわからないところから笑いがこみあげてきた記憶があります。おそらくそのとき,わたしは壊された。
今にして思えば,あの過負荷の状況で,満足に学生さんの相手もできず,研究の文献も調べられず,先の見えないビデオの制作と,在外研究の交渉に神経をすり減らしていたこ
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とこそが,「行き詰まった状況」そのものなのでした。
その記録は,記憶以外にありません。おそらくこのころ,申立者は正常な判断はできていなかったのだと思います。記録を取るという知恵も,出てきませんでした。考えてみれば,記録がないので泣き寝入りという多くの結末は,記録を取るべき者は記録を取るべきときにはそのことに考えすら及ばないところまで追い込まれている,という状況がもたらしているに違いないのでしょう。
一方で,そのころ,申立者の心身に異変があることを自覚しました。
睡眠が不規則になりました。自宅では眠っているのかいないのかわからなくなり,一方で,研究室や,学生実験中に突然眠ってしまうようになりました。これは,恥ずかしいことですが,多くの学生さんが見ています。
また,文章を読んだり書いたりするのに,もどかしいほど時間がかかるようになりました。集中力が著しく落ちていました。同じ部分を何回も読まないと理解できなかったり,気づいたら同じ行を何度も読んでいたりすることもしばしばでした。とりわけ,その在外研究員の書類の作成では何を書いてあるのかわからず呆然としました。受け入れを打診した機関への電子メールや書類の作成についても,数行の英文に一時間は軽く要していました。電子メールメッセージについても,受信したことやその内容を忘れたり,返信を失念したりといった取りこぼしも増えていたと思います。
それから,食事に味がしなくなりました。このころ研究室の学生さんの大学編入学試験の慰労を兼ねてレストランに食事に行って,そこでの料理に味がしなかったのがたいへんにショックでした。食事を楽しんでいたふりをしていたことを憶えています。
授業だけをかろうじてこなしていた記憶があります。
これがうつ病の症状に近いことを自覚して,また「血も涙もない」の発言に恐怖と不安を覚えて,申立者は群馬病院の精神科を受診しました。睡眠薬や向精神薬が処方されました。医師からは,しかるべき立場の人物または信頼できる人物に相談し,状況が改善しないようならば診断書を出すので休職するよう指示されました。
その翌日か翌々日か,前学科長の■■■■教授に相談に行き,校長にも現状を訴えました。少なくとも業務が荷重であることについては少々緩和され,予定されていた学校からの要請での研修の出張は取りやめになりました。申立者自身としては,8月の間,週1日休暇をとり週4日勤務とし,9月は週のうち1日を半日で帰宅する4.5日勤務とすることにしました。ただ,このとき校長には,軽くあしらわれたという印象が残っています。
その日,雑賀氏から書類作成の進捗を尋ねられました。申立者は,医師の診察を受けたところ,これ以上対応できる状態にないので在外研究の件は取りやめにしてほしいを告げました。しかし,その後,また進捗を尋ねてきました。締め切りを延ばすとか,校長に申し開きができないといったことを言われた(書かれた)記憶があります。申立者は,少なくとも書類を作成できる状況になく,どうにもできませんでした。それでも連日お構いなく雑賀氏は迫ってきました。
恐ろしくなりました。毎年のようにこうやって追いつめられるのか。同じように恫喝さ
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れ,脅迫されるのか。ひょっとしたらこれは十年以上続くのではないか。壊される。ここから逃げなければならないと,感じました。
それからしばらく,申立者は精神的に不安定でした。夜,研究室に独りになり,仕事をやっとこなしていて,その間なぜかに縊死体の写真を検索して眺めたり,いわゆる「自殺サイト」をめぐったり,ネクタイで首を絞めたりしてはたと我に返ったりということが「起こり」ました。自分のやっていることがわからないことにも恐ろしかった記憶があります。この時期,研究室に出入りしている学生さんに,申立者を,夜,研究室で独りにしないでほしい旨,懇願した記憶があります。
在外研究員の件は,書類が作成できぬまま締め切りを過ぎました。受け入れを打診した機関には,お詫びを差し上げました。
そのときの薬の処方は,増減して,現在もほとんど変わっていません。減薬されていないのですから,快方に向かっているとは言いがたい状況なのでしょう。
この一連のできごとの一部は,電子メールで記録が残っていると記憶しています。
直後,本校の編入学試験の問題作成をせよと雑賀氏から命じられました。「若いから」「経験があるから」の,いつもどおりの理由でした。申立者は精神的に不安定であり,これ以上の仕事を負える状態にないという自覚のもと,これを断りました。
指導学生が壊された
申立者には,平成26年度において,卒業研究を担当している電子情報工学科■年に不安がありました。■■■■さんです。彼女は,大学編入学試験で第一志望大学に合格を決めたあと,燃え尽きてしまったのか,研究室に現れなくなりました。7月のできごとでした。
授業は何とか耐えられるものの,周囲が気になるという訴えでした。また,不眠もあるようで,医師の受診を勧めました。同時に学生相談室およびご家庭と協力して,彼女が復帰できるよう整えてきました。残念なことに,夏季休業を終えても彼女はほとんど姿を見せず,11月初旬の卒業研究中間発表もできない状況になっていました。学生相談室と相談した方針としては,少しずつできることからできるようにする,根気強く待つ,ということでした。10月下旬ごろからは,電子情報工学科■年担任の■■■■特任教授も交えて見守っていくことにしました。
そのころ,雑賀氏から■■■■さんの状況を尋ねられました。彼女が精神的に疲弊した状態が続いていること,通院していること,学生相談室と協力して対応しているので,根気強く待つことが必要であることを話しました。このとき,雑賀氏は,「学科長として責任がある」と言っていたことを憶えています。
11月12日です。■■■■さんから申立者にメールが送られてきました。文面は「雑賀さんに説教されました……「なるべくほっといてほしい」っていったんですけど「立場上責任があるので~……」って断られたのでお話はせめて■■■■さんを通して、みたいな感じのことをさりげなく伝えてもらってもいいでしょうか……」(原文ママ)でした。
■■■■さんは翌 13 日,学校を欠席しました。その翌日には登校したそうですが,以降,彼
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女は研究室にまったく姿を現さなくなりました。申立者は,すぐにご家庭にお電話し,謝罪しました。13日は「学校に行きたくない」とふさぎこんでいたそうです。お母様には学生相談室に来室いただき,ご家庭での対応・ケアを相談していただきたい旨をお願いしました。お母様は11月の18日か25日に学生相談室にいらっしゃり,その機に申立者は■■■■教授とともに改めて謝罪しました。
最悪の事態になってしまったと思いました。■■■■さんが雑賀氏に呼び出されたようすを見ていないか,電子情報工学科5年の学生さんに尋ねたところ,11月12日の,電子情報工学科棟1階情報処理実習室を使用する授業のあと,「連れて行かれた」と話してくださいました。そして,その学生さんは「彼女(さん)はもう終わった」と思ったそうです。
わたしが護るべき学生さんが壊された。
悔しく,憤慨し,それで恐ろしかった。自己嫌悪にさいなまれました。
申立者は,1年半ほど前,過去に卒業研究を担当した学生さんが,大学院でアカデミックハラスメントとみなせる行為に遭っていたことを知らされていました。申立者は,彼の卒業時,大学で立派に研究をしてくれるものと期待していました。ですがその真面目な性質が災いしたか,付け入られたのか,修士課程■年のときに意欲を失っていたそうです。指導教員の苛烈な要求と拘束だったと聞いています。この件は「穏便に」片付けられ,彼は指導教員を変更し,ひととおりの修士論文を執筆して修了しました。彼は大学院時代のことを語ろうとしません。申立者は,ハラスメント行為で学生が壊されること,そしてそれが「穏便に」片付けられ,解決が与えられないことに憤りました。もとい,憎むようになっていました。
そして,申立者は,今度はその目の前で,おそらくは執拗な叱責により,学生を壊されました。
しかし,申立者は,■■■■さんの訴えどおりに,雑賀氏に進言しませんでした。できませんでした。進言すれば,おそらくは申立者の「責任」として執拗に叱責されることが予想されました。またきっと,あらゆる説明は「理解できない」の一言のもとに一蹴されるのだと思いました。身体がその行動をとることを拒んでいました。それから,その進言により,■■■■さんが再度呼び出され,半ば報復的に詰問されることも予想されたからです。
12月には,学生相談室からは,もうできることはやり尽くした, さんはそっとしておくほかないのではないかと言われました。このまま無理に卒業研究を遂行してもらうこと,登校することは余計に傷つくことになるから,と。そこまで傷つけられたのかと思うと,申し訳が立ちませんでした。ですが申立者は,■■■■さんに直接お会いして,謝罪できていません。
一方で申立者は,何も変わらないようであれば本校を辞そうと考えていました。毎年,ことあるたびにわたしは呼び出されて,詰問されて,叱責されて,否定されるのか。そうやって消耗していく未来にげんなりし,同時に恐怖を感じていました。申立者のもとに,ずいぶんと前に応募した大学教員公募に対する面接試験の報せが届いていました。
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恐ろしくて言えない
在外研究の一件以来,学科や学校に対して,見聞したことや意見述べることは,めっきり減った気がします。言い出すことが恐ろしくなっていました。
保留になった学科PRビデオの件は前記しました。また,学校見学会における電子情報工学科の見学者数が,昨年度に比べて大きく減少していることを把握していましたが,報告していません(学科パンフレットの払い出し数から知ることができ,申立者は例年これを数えていました)。本件の報告により,申立者が「責任」のもと叱責される恐れがあること,「対策」を取るよう指示されること,その対策案を示しても一蹴されることが予想されたからです。学校見学会における見学者数の減少については,申立者のみが知っている事実ではなく,電子情報工学科の複数の教員・学生さんにお話ししています。しかし,学科長である雑賀氏には誰も報告していません。
前記の■■■■さんが叱責されただろうことに対する抗議も,できませんでした。
何も変わっていなかった
11月になって,■■■■助教から,雑賀氏から過剰な業務を命じられ,恫喝されていたことを打ち明けられました。前記のように,■■■■さんが,雑賀氏の「面談」の後に卒業研究への意欲を失い,欠席がちになり,卒業要件を満たせなくなる恐れが出てきました。
申立者の知るところ,知らないところで,何人もの学生さん・教職員が,雑賀氏にハラスメントとみなせる行為を被っていたことがわかってきました。そして,来年度も,雑賀氏が学科長を務めることが明らかになりました。
何も変わることはないことがわかりました。
申立者は,きっと,叱責され,恫喝され,否定されます。その身で学生さんのお相手をすることを考えるとつらくなりました。学生さんにとっても申し訳ないと思いました。また,申立者自身が壊れていく傍らで,学生も壊されていくことを見ることになるのだと思いました。たまらなくなりました。
12月初旬,申立者が応募していた公募の面接の結果が届きました。申立者を採用したいとのことでした。本校を辞することを決意しました。校長と,■■■■教授と,雑賀氏に辞意を告げました。そのとき校長が,「彼に悪気はないのだから」と言っていたことを憶えています。「悪気なく」何人もの教員と,何人もの学生が,傷つけられ,虐げられ,壊されていることは,「許されていた」のだと知りました。
どっと疲れが襲ってきました。
申立者は体調を崩しました。耳が塞がれた聞こえがします。空腹感を覚えなくなりました。申立者の心身はすでに消耗しきっており,緊張によって保たれていたことを知りました。からっぽになってしまったかのようです。心身が雑賀氏を拒否するようになっていました。辞意を表明してから雑賀氏に呼び出されることが増えました。そのたびに不安にとらえられ,胸が苦しくなりました。さらに,自分がこの先自分として保っていくことが可能なのかに不安になり,恐ろしくもなりました。これがふと襲ってきて,毎日のようにさ
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いなまれています。わたしはこの先もやっていけるのか。もうすべてを諦めたほうがよいのか。
ところがその後に,申立者は次々と,雑賀氏が学生に対して行っていた仕打ちを見聞することになります。電子情報工学科■年生の■■■■さんが最近欠席がちなのは,卒業研究発表会の直後に雑賀氏に詰め寄られ自信を喪失したかららしいこと。電子情報工学科■年生の■■■■さんが就職活動の不振に対して泣き出すまでに叱責されていたこと。専攻科■年の■■■■さんが2年前から登校しなくなったのは,雑賀氏の言動が原因であったらしいこと,など。しかしその誰もが,泣き寝入りをしていました。申立者がそれまで知っていたのは,氷山の一角でした。
そして,12月中旬の教員学生連絡会議で,電子情報工学科に異変が起こっていることが,学生会からそれとなく指摘されたことを聞きました。■■■■助教が過剰に仕事をさせられ疲弊していること,申立者が精神的にボロボロになっていることなど,学生さんにはとうにお見通しだったのでした。
申立者は学生相談室に,少なくとも学生さんの保護と救済を訴えました。申立者のみが逃れることに,後ろめたさもあったためです。雑賀氏の振る舞いについて,学生が相談に来た事例があることを知りました。もはや小さくない問題であることを知りました。その場に同席した学生相談室長・■■■■教授と■■■■カウンセラは,これはハラスメント事例であると言われました。一方で,対応の手順を誤ると,雑賀氏から報復や八つ当たりなどの危害が及ぶ可能性があることが指摘されました。ケアが急務である学生さんがリストアップされ,雑賀氏に感づかれないように対応をすることで合意しました。学生相談室での一件は校長に報告されたそうですが,対応は「様子を見る」であると知らされました。学生さんは対処的にしか,ことが起こってからでしか護られない,ことが起こった後でも護られないことを知りました。
やはり変わることがないことがわかりました。
もうわたしは,すべてを諦めたほうがよいのか。
申立者は,自身の尊厳を否定されたことをもって,また,自身が護るべき学生さんの尊厳をも傷つけられたことをもって,これをハラスメント行為として申し立てます。申立者には,これから何年もの間,学生が傷つけられていく未来しか見えません。たとえ申立者が本校を辞する身であったとしても,その未来に進むがままにすることは,おそらく200名,それ以上の学生さんを裏切る無責任な行為だと考えるからです。見て見ぬふりをする行為だと考えるからです。もうすでに申立者は少なからず学生さんを裏切っていると思います。ですが,わたしはもう耐えていけない。このままで申立者がいっそうの迷惑をかけ続けるのはもっと申し訳ないと思っています。
わたしはこの半年間,自分を保つのに精いっぱいだったと思います。否定された自分を保つのに精いっぱいだったのだと思います。電子情報工学科■年生に国際バーチャルリアリティコンテストの指導教員を依頼されました。決勝大会直前には,それにかかわること
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が自分のやっていることを確認していく手段になっていたような気がします。また,卒業生から,大学・大学院で活躍していることの報せをいただく機会もありました,それで自分のやってきたことを肯定しようとしていました。そうやって申立者は自分を騙していました。でも今,わたしには何もなくなっていました。
電子情報工学科■年の■■■■さんには,特に申し訳なく思っています。入学時より申立者を慕ってくださり,専攻科まで申立者を指導教員としたいと言っていただきました。申立者が,申立者の事情として,心身の問題としてこれ以上彼のお世話をできない旨を伝えたとき,彼は「そうですか」と言って下を向いて歯噛みをしていました。わたしは彼を裏切ったのか。罪悪感に襲われました。
電子情報工学科の異常な光景は,もはや日常になってしまったように思います。学生が呼び出され,これから叱責されて砕かれようという光景を目にして,学生さんが憐憫をたれながら「彼女は終わった」の一言で済ませてしまう。これが,あのときから1年経とうとした,電子情報工学科の日常です。
この日常は異常である。少なくともそれは,200名の学生さんに訴えたい。今わたしにできることは,これを叫び,何がなされたのか,何が起こっているのかを綴り,救済を願うこと,こればかりです。
なお,本書から学生さんの個人名を除いた写しを,本書提出後,1週間後に本校後援会事務局に送付いたします。本申し立てには本校に在籍する学生さんの利益と尊厳に大きくかかわるものです。ハラスメントとみなせる行為を受けた学生さんの多くが泣き寝入りを余儀なくされている以上,学生さんに対するステークスホルダとして,保護者のみなさまにも,本申し立ておよびそれに付随する本校の状況をお知らせするべきと考えております。
また,これは,学校が本件に対して,兆候があったものの迅速かつじゅうぶんな措置をとってこなかったこと,および,これを鑑みて学校が本申し立てに対する調査を行わない恐れがあると申立者が判断しての措置であります。
申立者が見聞きした,ハラスメントとみなせる行為を受けた学生・教職員
・電子情報工学科・■■■■助教:勤務1年めにして,過剰量の業務を命じられています。帰宅が深夜,または帰宅していない日も見受けられます。■■■■助教は着任当初より,雑賀氏に相当の業務を命じられていました。■■■■助教が漏らしたところでは,「仕事を覚えるために仕事をしてもらう」という言い分で,次々に仕事を命じられているとのことです。理由を尋ねたり,意見を申し立てたりしようとすると,「あなたは仕事をしたことがないから何もわかっていない」と一蹴するそうです。挙句,「働かないようならば『つぶす』」と詰め寄られ,■■■■助教は「諦めた」と打ち明けています。申立者と同等か,それ以上の圧迫を受けていた・いるものと思われます。申立者がこれを聞いたとき,しかるべき相手(校長など)に相談することを勧めましたが,「どうしようもなくなったら」と,留保している状態です。■■■■助教が雑賀氏より詰め寄られて
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いる現場は,■■■■助教が卒業研究を担当している3名の学生さん(■■■■さん,■■■■さん,■■■■さん)をはじめとして,何人もの電子情報工学科生が目撃しているそうです。■■■■助教は,万一の場合に備えてボイスレコーダを携帯するようになったそうです。
・電子情報工学科■年・■■■■さん:11月の卒業研究中間発表会直後,雑賀氏に卒業研究の内容について質問され,そのまま詰め寄られるふうになったと聞いています。■■■■さんはそれまで大学編入学試験で苦戦を強いられており,卒業研究への取り組みが手薄になりがちになってしまったことは事実です。ですが,少なくとも取り組み始めた研究の多くの部分を居丈高に否定され,(■■■■さんが温和で厭戦的な性格であることもあって)反論できず/せず,消沈するところとなったそうです。ひととおりの謝罪もあったようですが,以降,■■■■さんは学校を欠席がちになりました。この顛末については,研究室の同輩である■■■■さんが多くをご存じだと思います。
・電子情報工学科■年・■■■■さん:申立者が卒業研究を担当している学生さんです。大学編入学試験直後よりその疲れで心身を失調し,申立者・学生相談室・保護者と協力してケアをしていました。しかし,11月に雑賀氏に呼び出された直後,「そっとしておいてほしい」とのメールを最後に,翌日学校を欠席し,卒業研究および学科棟へ来ることを拒むようになりました。そのときより,欠課も増えてきたように思います。そのメールには雑賀氏を止めてほしい旨の訴えも書かれていましたが,申立者にはそれを行うことが恐怖であったことと,報復的追及が■■■■さん本人に及ぶことを恐れて何もできていません。ただし,■■■■さん本人の精神状態を鑑みると,■■■■さんから事情を聴取することは適切ではありません。保護者(お母様)が,呼び出された後からのご家庭でのようすをご存じかと思います。
・電子情報工学科■年・■■■■さん:12月中旬に,申請者は,過去に雑賀氏から恫喝的な叱責にあったことを打ち明けられました(周囲には以前にも話していたそうです)。■■■■さんは卒業後就職を希望しています。就職活動が思わぬように進まなかった点を咎められたのか叱責され,泣き腫らして帰ったとのことでした。これについて「記録もとっていないし,もう忘れたし,しらを切られれば終わりだ(だから申し立てをしても仕方がない)」と話していました。■■■■助教が卒業研究を担当している学生さんでもあります。
・電子情報工学科■年・■■■■さん:■■■■さんは残念ながら学業成績が不振がちな学生さんです。これについて,お母様・■■■■さん・雑賀氏の三者で面談したとき,■■■■さんが執拗に叱責され,涙を流すまでになっていたと聞いています。お母様は憤慨されていたと聞いています。本件は,直後に■■■■さんの実兄である■■■■さんが周囲に話していました。
・専攻科生産システム工学専攻■年・■■■■さん:平成■年度電子情報工学科卒業生で,専攻科に進学しました。専攻科在籍■年めです。当初,雑賀氏が■■■■さんの特別研究の指導教員でした。課題を着実にこなせる学生さんだったという印象があります。
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いつからか,学校に姿を現さなくなりました。以降,電子情報工学科・■■■■教授に指導教員を変更しましたが,姿を見せぬまま現在に至っています。電子情報工学科■年に実弟の■■■■さんがいらっしゃり,12月初旬,■■■■さんが,自分が■■■■さんの弟であること,■■■■さんが学校に来られなくなった大きな理由が雑賀氏にあることを,電子情報工学科・■■■■助教に漏らしました。ですが,■■■■さん本人から事情を聴取することは簡単ではないでしょう。
本申し立てに対しまたは上記の見聞に対し,意見を聴取できる学生・教職員
・電子情報工学科■年・■■■■さん,電子情報工学科■年・■■■■さん:平成■年度の卒業研究において,申立者が卒業研究の担当となっている学生さんです。申立者の今年度のようすについて,話してくださるものと思います。
・電子情報工学科■年・■■■■さん,電子情報工学科■年・■■■■さん:昨年度(平成■年度),電子情報工学科■年担任として申立者が受け持った学生さんです。残念ながら原級留置されています。昨年度,ふたりが不振となった事情のひとつが「安心して過ごせる場所がなかった」ことから,申立者の研究室を放課後から帰宅までの学習に使ってもらっています。前記の■■■■さん,■■■■さんと同じく,申立者の今年度のようすについて,話してくださるものと思います。
・電子情報工学科■年・■■■■さん,電子情報工学科■年・■■■■さん:平成■年度の卒業研究において,前記の■■■■助教が卒業研究を担当している学生さんです。■■■■助教のようす,雑賀氏とのトラブルについて話してくださるものと思います。また,前記の■■■■さんと研究室の同輩であることから,■■■■さんについてもお話が聞けるものと思います。■■■■助教の研究室のドアは,有人の間は開錠されていましたが,雑賀氏がたびたびやってくることを気にして,最近では常時施錠されるようになっています。
・電子情報工学科■年・■■■■さん:前記の■■■■さんの研究室の同輩です。■■■■さんについての顛末について話してくださるものと思います。また,■■■■助教が雑賀氏に詰め寄られている現場を目撃しており,それは「客観的に見てハラスメントである」と話していました。■■■■さんは気配りの上手な学生さんであることから,電子情報工学科■年生についてもお話を聞けるものと思います。
・電子メディア工学科■年・■■■■さん:前記の■■■■さんの実兄です。■■■■さんが雑賀氏より執拗な叱責を受けたことを本人とお母様から聞いて憤慨し,そのことを周囲に漏らしていました。
・電子情報工学科■年・■■■■さん:前記の■■■■さんの実弟です。12月初旬に,■■■■助教に「ぼくの兄は雑賀先生の一言で学校に行かなくなった」と話しています。これを聞いた当時,■■■■助教はこれが重大なことであることをご存じではありませんでした。■■■■さんについては,■■■■さんを通じて尋ねるのが適切と思われます。
・専攻科生産システム工学専攻■年・■■■■さん:平成■年度電子情報工学科卒業生で,
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専攻科に進学しました。本科の卒業研究においては雑賀氏が指導教員でした。現在,専攻科特別研究では■■■■准教授を指導教員としています。■■■■さんが専攻科で指導教員を変更した理由は,雑賀氏の「指導」に耐えかねたから,と周囲に話しています。また,平成26年4月に,本科■年生が卒業研究の指導教員に雑賀氏を志望していると聞いて,その学生さんに思いとどまるよう諭したこともあります。雑賀氏のようすについてお話しくださるものと思います。
・電子情報工学科・■■■■准教授:申立者が本件について相談しています。■■■■助教の話も聞かれています。
・電子情報工学科・■■■■特任教授:平成 26 年度電子情報工学科■年の担任です。叱責を受けた学生さんについてご存じのことがあると思います。
本申し立てにより保護を必要とする方
・電子情報工学科■年・■■■■さん:平成■年度に雑賀氏が卒業研究を担当している学生さんのひとりです。優秀な学生さんですが,要領がよくない面があり,雑賀氏は■■■■さんが無能であると周囲に触れ回っています(申立者はこの扱いを遺憾に思っています)。年が明けて卒業研究の追い込みが本格化したとき,雑賀氏の思いどおりに進められない状態に陥ったら,■■■■さんが執拗に叱責されるものと予想されます。また,本申し立てによって雑賀氏が憤慨したり焦ったりして,■■■■さんに八つ当たりする恐れもあります(平成■年度の卒業研究発表会において,雑賀氏が指導する学生さんの発表に対して質問がなされ,満足に回答できなかったことに対し,後日その学生さんを恫喝的に叱責していたと聞いています)。
・電子情報工学科■年・■■■■さん:修学上の能力には問題ありませんが,課題等で行き詰ったりすると,強迫観念に駆られるのか,学校を欠席してしまう傾向がある学生さんです。■■■■さんについては学級担任(一般教科・■■■■講師)が指導を重ねていると聞いていますが,雑賀氏が■■■■さん本人と保護者を交えた面談を希望しています。雑賀氏が面談の席上で■■■■さんを執拗に叱責する恐れがあることから(叱責された場合,おそらくこれまでの学生さんのように意欲の減退,または最悪の場合,休退学に追い込まれることが考えられることから),■■■■助教が■■■■講師に面談の中止または延期を申し入れました。現在面談の実施は保留されていますが,雑賀氏が校内で■■■■さんのみを呼び出して叱責する恐れもあります。
以上
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【当会注:上掲の申立て内でも言及されているとおり、この申し立てを行った電子情報工学科講師(当時)のほかに、同学科の助教(当時)も雑賀洋平による苛烈なアカハラの餌食にされていたという。上掲の申立てを行った講師が2015年3月に群馬高専を辞してから、この助教が残された形になったが、依然として雑賀洋平から過大な職務を命じられ続けたという。話によると、土日も夏休みも返上でぶっ続けの出勤を続けており、身体を壊しかねないレベルだったという。この助教を慕う同学科の学生などが奮闘したが、雑賀の毒牙から救うことはできず、上述の講師の後を追うようにして2016年3月に退職してしまったという。雑賀洋平が何ら反省もしない純然たる悪人である事実を確信させられるとともに、西尾校長が誰に何を言われてもハラスメントの放置を続けた実態をまざまざと示すエピソードである】
【市民オンブズマン群馬事務局からの報告・この項つづく】
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○2021年9月11日:雑賀洋平による群馬高専J科アカハラ事件の記録①…ログ・タイムテーブル・当時の概況・西尾校長の説明↓
https://pink.ap.teacup.com/ogawaken/3361.html
○2021年9月11日:雑賀洋平による群馬高専J科アカハラ事件の記録②…被害教員による『ハラスメントに関する申立書』↓
https://pink.ap.teacup.com/ogawaken/3362.html
○2021年9月11日:雑賀洋平による群馬高専J科アカハラ事件の記録③…被害学生らによる『人権・被害救済の申し立て』↓
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○2021年9月12日:【記録資料番外編】群馬高専における深刻な諸問題の2021年9月現在に至る経過まとめ↓
https://pink.ap.teacup.com/ogawaken/3364.html
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