市政をひらく安中市民の会・市民オンブズマン群馬

1995年に群馬県安中市で起きた51億円詐欺横領事件に敢然と取組む市民団体と保守王国群馬県のオンブズマン組織の活動記録

1年3カ月ぶりのジブチは様変わり(その1)

2011-01-30 23:43:00 | 国内外からのトピックス
■1年3カ月ぶりにジブチを取材しました。成田からドバイ、アジスアベバ経由で26時間かかりジブチに着きました。たまたま出発の前日午後8時からNHKのプレミアム8という番組で、世界一番紀行「世界で一番暑い土地~アファール三角地帯 ジブチ~」と題して、ジブチの特集番組が放映されたので、ご覧になった方も多いと思います。

 「世界で一番暑い土地」と呼ばれる所以は、最高年間平均気温34.5度を記録したためですが、暑さの理由についてNHKでは、①海面より標高が低い盆地状の地形のため熱風が停滞して異常な高気温になる。②活発な火山活動がもたらす地熱が暑さに拍車をかける、と説明していますが、ジブチ人いわく、「この国の季節は、HotとVery Hotの2つしかない」というとおり、乾季の最も暑くなる6~7月には最高気温が50度近くまで上がります。しかも湿度も80%近くになり、まるで蒸し風呂です。

 今回の訪問は1月でしたので、Hotシーズンにあたります。それでも、日中の気温は30度を超え、明け方の気温も22度程度あります。


アジスアベバ空港からジブチに飛ぶエチオピア航空の78人乗りボンバルディア社製DHC-8 Q400型機。
■このような環境なので、仕事ができる時間にも工夫が必要です。ジブチでは、政府機関、民間企業も始業時間は朝7時~日差しが厳しくなる前の午後1時までです。民間企業の場合は、夕方に営業を再開する場合もあります。その代わり、週休日は金曜日だけです。一般の商店は、日中店を閉めますが、暑さがやや凌ぎ易くなる夕方から夜、遅いところでは午後10時頃まで、営業します。

 さて、夕方6時(日本時間深夜0時)にジブチの空港に着陸する際、飛行機の窓から日の丸を付けた2基の機体が見えました。どうやら海上自衛隊のP3C哨戒機のようです。空港ターミナルは、以前と同じですが、周辺の施設はだいぶ整備が進んでいることがうかがえました。


ジブチ国際空港の片隅で翼を休めている海自のP3C哨戒機2機。この後方に47億円をかけて活動拠点施設を建設中。今年3月末までに完成予定らしい。

■今回、取材班は、ジブチに6日間滞在しましたが、街を歩くと前回よりも「ジャポネ!」とか「コンニチワ!」などとジブチ人から声をかけられる回数が格段に増えた感じです。それもそのはず、ジブチ人いわく、現在約1000名の日本人がジブチに滞在しているそうです。

 そのほとんどは自衛隊員とその支援業務の関係者のようです。なお、ジブチに派遣中の青年海外協力隊員は現在18名です。3年半前に初めてジブチを訪れた際には、日本人は協力隊の事務所員2名と協力隊員12名の計14名だけでした。面積は四国の約1.3倍で、人口は約70万人の小国ジブチに、今や約1000名の日本人がいるというのは驚きです。

■前述のように、当会取材班が最初にジブチを訪れたのは3年半前の2007年6月でしたが、当時は、日本人の間でもジブチ国の名前を知る人は僅かでした。東京都目黒区にある在日ジブチ大使館は1989年4月に開設されましたが、在ジブチ日本大使館は2009年10月に開設するまでは在仏大使館が兼轄していました。

 ジブチが日本にとって注目されたのは1986年に当時の南イエメンから脱出した邦人を、同国が迎え入れてくれた事です。更に、1994年5月、緊急脱出したイエメン在留邦人及び邦人旅行者73名が、ジブチ国経由で帰国したこともありました。

 その後も両国の緊密な外交関係が続いていたところ隣国ソマリア沖で海賊問題が発生し、アデン湾を通過する船舶の安全対策が急務となりました。

■そこで、2009年4月3日に当時の中曽根弘文外相と来日中のマハムッド・アリ・ユスフ外務・国際協力大臣との間で「ジブチ共和国における日本国の自衛隊等の地位に関する日本国政府とジブチ共和国政府との間の交換公文」が締結されました。

 締結前に既にジブチに向かっていた海上自衛隊の護衛艦2隻は、さっそく同月から日本関連船舶の護衛業務を開始し、同年6月からは哨戒機P3Cが上空からの警戒監視を実施しており、同時に、陸上自衛隊も哨戒機の格納施設警備の名目で隊員をジブチに派遣しています。

 護衛艦1隻あたり約200名の乗員が必要なので2隻で約400名の海自隊員が派遣されていることになります。この他、海賊を逮捕するための法律執行業務として、海上保安庁から8名が派遣されて、護衛艦に乗務しています。また、P3C哨戒機2機の運用のために、整備補給要員など100名と、これを警護するため陸上自衛隊から50名が派遣されています。この他、C130輸送機を使用した日本からの補給業務を航空自衛隊が担っています。つまり、陸海空の自衛隊が揃って参加する初めての海外業務です。


ちょうど、船団護衛任務を終えて一時帰港する海自の護衛艦(写真中央)。艦名不詳。

 防衛省では、陸海空の自衛隊が関与できる、願ってもない理想的な国際貢献事業だとして、ジブチへの海賊対策部隊派遣を最重要案件として位置付けています。

■新聞報道やネット報道をもとに、現在の自衛隊員の派遣数を予想すると上記のとおり、約550名となりますが、実際にジブチ人に確認するとジブチに滞在する日本人は約1000人に上るということです。となると、自衛隊業務の支援にかかわる関係者も数百人いることになります。

 護衛艦の乗務員は普段は海上勤務なので、陸上の宿泊設備はとくに不要ですが、定期的に業務の合間には陸上で休暇を取らなければなりません。また、陸上支援業務に携わる隊員は常に宿泊場所の確保が必要です。2009年10月当時は、Bellevueなど市内のホテルを借り上げて宿舎として利用していました。

■それから1年余り経過しましたが、自衛隊による海賊対策活動に対する国際的な評価は高く、受け入れ側のジブチ国民にも、多数の隊員が落としてくれる金や、気さくな隊員のおかげで好印象を得られているようです。

 このような中で、2010年7月17日、ジブチ国際空港の一角で、日本とジブチの関係者による起工式が行われました。

 これは、2009年6月からジブチを拠点にP3C哨戒機でアデン湾の監視飛行を行っている海自の海賊対処航空隊の施設として、防衛省が、ジブチ国際空港の滑走路の北西側12ヘクタールの土地をジブチ政府から借り受けて、駐機場や隊舎、格納庫などを建設する工事の起工式でした。

■報道によると、2010年7月17日の起工式には駐ジブチ日本大使、海賊対処航空隊4次隊司令をはじめ、ジブチ国防相や国家治安長官、設備・運輸相ら政府高官、米、仏両国大使や軍関係者らが参加しました。


 海自の海賊対処航空隊はこれまで、ジブチ国際空港滑走路の南側にある米軍基地を隊舎などとして無償で借りていましたが、哨戒機の駐機場所との移動に車で20~30分かかるため不便なので、効率的な活動のため自衛隊独自の拠点を整備することにしたのだそうです。派遣部隊は陸・海自約150人で編成されていますが、今後は給食など米軍の支援を受けてきた厚生面を含む支援業務の人員を約30人増員し、全体で180人規模とする予定だそうです。

 もちろん、これらの建設工事を請け負った会社があるはずですが、いくらネットで調べてもわかりません。そこで現地でジブチ人に聞いてみるとマエダ・コントラクターという情報を得ました。どうやら入札は日本で行われ、日本企業が受注したようです。しかし、ネットで調べても、受注会社や受注金額はどこにも見当たりません。

■そこで、さらにネットで関連情報をチェックしてみると、次のようなことが判明しました。
(1) 2009年3月から海賊対策でそれぞれ派遣されている護衛艦や哨戒機の活動根拠は、自衛隊法に基づく海上警備行動から2009年6月に成立した海賊対処法に切り替えられた。
(2) 日本政府は2009年7月30日に、ソマリア沖の海賊対策にあたる自衛隊が拠点とするジブチにP3C哨戒機の駐機場や隊員宿舎など自前の施設を建設する方針を固めた。それまでは民間や米軍の施設を借りていたが、本格的な態勢をとることで国際貢献に取り組む姿勢をアピールするのが狙い。政府筋は「活動本格化に向け米軍からも独自施設を求められており、2011年には完成させたい」と説明した。
(3) ジブチに駐留している陸上、海上自衛隊員約150人はジブチ空港近くの米軍宿舎に居住。P3C哨戒機2機の駐機場や牽引車やトラックなどを収める格納庫はアラブ首長国連邦(UAE)の首都ドバイに本拠を置く空港管理会社から借用。日本政府筋によると、空港周辺に哨戒機2機の駐機場と自衛隊員150人を収容する宿舎に必要な面積を、ジブチ政府から2009年5月から無期限(ただし、「海賊対処は不要」と閣議決定などされるまで)の条件で借用しており、その後、そうした施設を建設する方向で空港管理会社と協議を進めていた。
(4) 自衛隊の任務はパトロールと通報で、「海賊」が各国護衛艦を攻撃する危険がある場合に通報し、日本の護衛艦が実際に攻撃を受けたら、護衛艦に乗り込んでいる武器を携行した海上保安庁職員が対応する。したがって、「武力行使」にはあたらず、海賊行為という犯罪を取り締まっているもので、本来は海上保安庁の仕事をサポートしている、というのが大義名分。
(5) 施設の建設には4000万ドルが投じられ完成予定は2011年3月末。しかし建設費用については42億円だとか47億円という報道もされている。
(6) 施設はジブチ国際空港の北西部に建設中。東京ドームの2倍以上ある12ヘクタールの敷地に宿舎、格納庫、事務所など24棟を建設し、航空機3機が収容できる駐機場も整備。完成予定は2011年3月末で、新施設運営のため新たに30人を増員。
(7) 現在、使用している米軍基地の使用料として2010年7月までに493万ドル(約4億円)を米軍に、駐機料19万ドル(約1500万円)を民間企業に支払っている。
(8) 新しい施設の内訳は宿舎7棟(収容人員約280人)、整備格納庫1棟(収容機1機)、食堂等厚生施設2棟、事務所2棟、電源室等の関連施設12棟、駐機場(収容機3機)。建物の構造はプレハブ構造で、一部は鉄骨またはコンクリートブロック構造で1階建て(電源室のみ2階建て)。

■ここで疑問なのは、なぜ、国際貢献に寄与しているこの派遣事業を、日本政府は、納税者である日本国民に堂々と公表しないのか、ということです。

 この自衛隊の施設について、「軍事施設」として、自衛隊の海外派兵のシンボルとみなし、疑問視する声も日本国内にあるのは事実です。その一因として、日本政府の情報開示不足も上げられると思います。

 日本国内には、やれ「自衛隊の海外派兵だ」とか、「海外に我が国初の軍事基地建設だ」とか、「ジブチ国との地位協定は沖縄の米軍と同様だ」などと批判があります。また、「海賊対策のような海上保安法令の執行は逮捕権を持つ海上保安庁が行うべきだ」という意見もあります。筆者も、本来は海上保安庁が行うのが筋だと思いますが、ソマリア沖に出没する海賊は、海賊といっても重火器で武装しており、ロケットランチャーも保有しています。

 ソマリア沖では現在、約30か国が軍艦を派遣して「海賊掃討作戦」に従事しています。ソマリア沖は、地中海とインド洋とを結ぶ日本にとって重要な輸送ルートであり、この海域の安全航行の確保は日本の産業・経済にとって大切な要素のひとつであることは確かだからです。

■また、「地位協定」についても、沖縄の米軍基地の米兵が沖縄県民にひどい仕打ちをしても日本の法律で裁かれないという不合理な現状を連想させますが、果たして、現地に派遣されている自衛隊員や海上保安庁職員らが、米兵のような横暴な振る舞いをジブチ人に対して行うことがあるのかどうか。筆者はその可能性は極めて少ないと確信しています。


空港に近い開発地区にある在ジブチ米国大使館の入口。まだできたばかり。

ジブチ人が「ホワイトハウス」と呼んでいる立派な米国大使館の本館建物。ホテルの一室を借りている我が国の大使館とは雲泥の差だが、米国を見習う必要はない。

一辺の長さ500mは優にあろうかと思われる米国大使館の敷地を囲む長大なフェンス。アメリカは2001年の同時多発テロを契機にジブチに基地を設置した。


ジブチ市内から西方に約50キロの山間にあるフランス軍の駐屯地。フランス国外では最大規模の軍事施設と言われる。

仏軍駐屯地のフェンスに掲げられた“外国人地区”の看板。ジブチ国内ではここが最大の駐屯地だがほかにも各地に拠点を持っている。

駐屯地と各地の拠点の間をこのような軍用トラックや装甲車がしょっちゅう行き来している。フランスはジブチの独立前からここに軍隊を置き、ジブチの非常時には一緒に闘うことを明言している。仏軍3000人、米軍2000人、両軍合計5000人以上と言われている。このほか、スペインやイタリアなどもEU部隊等も駐屯している。

 ジブチ人に本音を聞くと、「欧米はアフリカをかつて植民地化しており、なにかにつけて自分達の価値観を押し付けてくる。だが、日本にはそうしたイメージはまったくない。安心して対等に付き合える良きパートナーだ」という声が少なくありません。それだけに、現地に派遣されている隊員や職員には、青年海外協力隊員と同じように、相手側の価値観を尊重し、現地の人々との交流に努め、互いを理解しあえるように努力することが強く求められています。そして日本政府は、自衛隊や海保の活動について、もっとオープンに国民に説明する必要があります。


ジブチ市内のベトナム中華レストラン「吉布提越南餐庁(Restaurant Vietnum)」(55, Rue Soleollet-Tel:35 17 08 or 82 81 55, B.P.263-Djibouti)のメニューの日本語版。連日自衛隊員や海保職員はもとより、各国の隊員や旅行者で満員。3年半前は地味な内容の店内だったが、今や収容人員は2倍以上で旧正月も迫り豪華な飾り付けで様変わり。↑

この日本語版メニューも隊員の貢献の成果物と言えなくもない。

【ひらく会情報部海外取材班・この項つづく】

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廃棄物の捨て場に困り墓所の近くにサンパイ場を作った東邦亜鉛が抱える事業戦略の欠如と企業論理の欠陥

2011-01-22 14:47:00 | 東邦亜鉛カドミウム公害問題
■当会では、1月4日付けで、国の経済産業省の大畠大臣(その後、まもなく国交省大臣に就任)と群馬県知事の大澤知事、安中市の岡田市長、そして東邦亜鉛㈱の手島社長あてに対して、東邦亜鉛が、地元の先祖代々の墓所のすぐ近くに設置した安定五品目と称する産業廃棄物処分場の稼働の白紙撤回を求める嘆願書を提出しました。

 このサンパイ場は、東邦亜鉛が、平成17年4月1日に国が「実質的に鉱山を伴わない製錬所は一般法の管理下に移行する」とする鉱山保安法の改正をしたにもかかわらず、住民に内緒で、ちゃっかり後出しで鉱山保安法の改正後に国の許可を取って平成19年秋に着工し、平成20年春に完成させておいてから、体裁だけは、鉱山保安法改正後に、一般法である廃掃法の適用を受けた格好にするために、最後に住民説明会を開いて、群馬県の許可を得ようとしているものです。

東邦亜鉛の本社がある日本橋の丸柏ビル1階ロビーにある案内板。
■東邦亜鉛㈱からは、1月12日付で、「この処分場の仕様については(国の設置許可を取得済みなので、あとは)県の許可を得た上で適法かつ適正に行ってまいりますので、よろしくご了承賜りますようお願い致します」という回答が来ました。

 そこで、当会では、1月19日(水)に、回答書をよこした同社の本社の環境管理部の冨澤芳幸部長に面談して、直接、サンパイ場の使用撤回を申し入れるとともに、なぜ住民説明会を開催せずに、安定五品目のサンパイ場をつくったのか、その許認可にかかる手続きの経緯について聴取しました。

 面談は日本橋本町一丁目6番1号の丸柏ビル3階の同社総務本部の応接室で行われ、同社からは総務本部環境管理部長の冨澤芳幸部長と、同総務部の本石泰男課長が出席しました。

■その結果、残念ながら、同社からは、「(当会からの)嘆願書は経営陣にも見てもらっている。しかし、(処分場は)法令に則って作り、これから県の許可を受けて適法に使用するし、埃が立ったりしないように、塀を高くするなどして、墓所から見えないように使用するので、理解願いたい」という誠意のない回答しか得られませんでした。

 また、サンパイ場の設置計画から、許認可の手続きについても、詳しい説明と関連資料の開示を求めましたが、東邦亜鉛からは「詳細は調べてみないとわからない。申請手続きは、安中製錬所で行ったので、本社には申請書類等がないため、確認できない」ということでした。そこで当会は「情報開示はできますか?」と訊いたところ、同社からは「安中製錬所の担当部署に指示をしておくので、そちらにあたってほしい。しかし、ものによっては出せないものもある」という回答がありました。

 ヒヤリングは1時間半ちかくに及びましたが、東邦亜鉛からは、サンパイ処分場については、稼働計画の撤回はもとより、当会が提案した従来の同社の廃棄物埋立て場所での延命策さえも不可能だという説明に終始し、地元住民の墓所の近くに設置したサンパイ処分場が群馬県の許可を得られ次第、稼働するつもりのようです。

■今回の聴取で、当会が指摘した結果、判明した重大な事実があります。それは、既に東邦亜鉛は長年にわたり廃棄物の処理を続けてきたことから、廃棄物の捨て場所に困り、とうとう、地元住民の墓所の近くにしか、廃棄物の捨て場所の確保ができなくなっていることです。

 東邦亜鉛は、野殿丘陵の北側斜面に立地しており、信越線の安中駅まで運んできた亜鉛鉱石を、以前はケーブルカーで野殿丘陵の頂上レベルにある原料貯蔵庫に運び上げて、それを、斜面を利用して製錬のための加工を加え、最終的には、野殿丘陵の裾野の電解工場を経て製品倉庫まで下ろして製品として出荷するとともに、廃棄物を製品倉庫の前に埋め立ててきました。

■今年の4月から稼働を始める新しい電解工場は、製品倉庫の東側に建設されましたが、新電解工場の前方(北側)にあるスペースは、長年にわたり埋め立てられて、造成された場所となっています。サッカー場が2面程度とれるような広い場所です。当然、この場所を延命して使用すればよいと誰もが思います。

 ところが、東邦亜鉛の説明は違っていました。同社の話では、安定五品目を埋め立てる際には、法令で高さ3m以上に盛り上げてはならないという規則があり、これ以上、現在の場所は埋め立て場所として使用できないというのです。

■そこで感じたのは、なぜ新電解工場をそうした埋立完了地の上に建設をしなかったのかということです。限られたスペースのなかで、永続して製錬事業を営むためには、廃棄物をすべて無害化してできる限り再利用可能な有価物として外部に出し、工場の中には廃棄物を貯めないことが最も重要です。ところが、東邦亜鉛はそれを怠り、安易に捨て場を作ってきたのです。

 同社はこれまで、公害による鉱毒を発生させて、周辺土地にそれをまきちらし、周辺住民の財産である土地の利用価値を損ない、農業収入では生計を立てられないように追い込み、離農を促すために、鉱毒で汚染された土地を僅かばかりの金を提示して買収し、工場の面積を広げてきました。

■鉱毒による汚染土壌で、かつては日本一にも輝いた高収量の肥沃な土地は痩せ、鉱毒に敏感な蚕は、汚染された桑の葉を食べると次々に水を吐き死んでしまいました。農業で生計を立てられなくなり、将来への展望が開けなくなった農民は、東邦亜鉛が提示した僅かばかりの金と引き替えに、先祖伝来の土地を売らざるを得なかったのです。

 ところが、そうした手法は公害問題の発覚以降、次第に使えなくなったのです。公害問題が社会問題として注目されたころ、企業の永続性の観点から、廃棄物の適正な処理、すなわち無害化処理とリサイクルの促進により、得体の知れない廃棄物をなくして、安中製錬所工場の面積を増やすことなく、永続的に操業を続けてゆくために、真剣に智恵を絞らければならなかったのです。

■今回、東邦亜鉛はそうした長期的な戦略を全く立てることなく、目先の問題解決だけを考えて、刹那的な対処方法をとってきたため、今回のようなとんでもない場所にサンパイ場を設置しなければらなくなったのです。

 同社の今後の事業推進のためにも、絶対に、野殿北浦の地元住民の先祖代々の墓所の近くに設置されたサンパイ場は稼働させてはならないと当会は考えています。

【ひらく会事務局】


期待しながらエレベータに乗り、同社3階の受付に向かったが、ことごとく不発に終わり、失意のうちにエレベータで帰途に就いた。
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阿久根市長選挙結果について想うこと

2011-01-16 23:53:00 | 国内外からのトピックス
■日本が本当に変革できるかどうか、地方自治の観点から問われた阿久根市長選挙。国際社会からも注目されていたこの選挙が、昨晩開票され、864票差で、前市長の竹原信一市長の復帰はなりませんでした。選挙結果を報じたNHKのニュース報道内容を次に見てみましょう。
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阿久根市長選 西平氏が初当選
1月16日 21時57分  NHK
 住民投票で前の市長が失職したことに伴う鹿児島県阿久根市の市長選挙は、16日に投票が行われ、前市長のリコール=解職請求運動を進めた住民グループの元役員の西平良将氏が初めての当選を果たしました。
 阿久根市長選挙の開票結果です。▽西平良将(無・新)当選、8509票。▽竹原信一(無・前)7645票。新人の西平氏が、前市長の竹原氏を抑えて、初めての当選を果たしました。西平氏は37歳。養鶏場の経営者で、竹原氏のリコール運動を進めた住民グループの役員を務めていました。
 阿久根市では、3年前に市長に初当選した竹原氏が市議会と対立を続け、おととし不信任を決議されて1度失職し、出直しの市長選挙で再選されましたが、議会を開かずに専決処分を繰り返したことなどを理由に解職請求されて、先月の住民投票で再び失職しました。選挙戦で、西平氏は「竹原氏の手法は独善的で、市民の間に対立を生むだけだ」と指摘し、議会や市民との対話を重視した市政運営を行うと訴えました。さらに行財政改革を進めて財源を確保し、農業や漁業の振興などに取り組むと訴えて幅広い層から支持を集め、初めての当選を果たしました。初当選した西平良将氏は「これから阿久根市を作り直していかなければならないという責任を感じている。独善的な市政運営は行ってはならず、法律を守ったうえで対話を大事にして、市政運営を行っていきたい」と述べました。一方、竹原前市長は、敗因について「阿久根市役所が職員組合中心になってしまった。彼らの力が大きかったということだ」と述べました。また、独善的と批判されたみずからの専決処分については、「そうした報道が選挙結果に影響した」と述べました。そして、「今後のことは、まだ考えられない」と述べました。
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■選挙で不正があったかどうか、今後3ヵ月間に何も起きなければ、選挙結果が確定するわけですが、それまでは予断を許しません。元警察官が2名、副市長と総務課長で目を光らせていたので、あまりえげつない選挙違反行為はなかったかもしれません。でも、たった2名で、地元の市職員に指示して選挙事務の全てを管理することは非常に困難だったことでしょう。マスコミも、市職員組合も、アンチ竹原派が大半を占めているため、初めから苦労を背負わされたことでしょう。

 竹原氏は、かねてより「市長選挙の結果は問題ではない。市長を選ぶ機会を選挙民が与えられたことが大事である」と言っており、市長の座に連綿としておりませんでした。今後は、在野で引き続き阿久根市政を監視してゆくのか、それとも、住民に対して自治という意味をある程度まで浸透させたことから、別のステージで活動をしてゆくのか、今後を注視していきたいと思います。

■一方、当選した候補者が、選挙公約通り、きちんと市政改革をやっていけるのか、あるいは、前市長が残した実績を全否定して白紙に戻し、市の職員組合のいうなりになって、改革を後戻りさせるのか、これまた注目されます。

 このあと同市では、リコールされた市議会の解散の是非を問う住民投票が1月31日告示、2月20日投開票の日程で行われる予定ですので、今後もしばらくは、阿久根市の様子には目が離せませんが、マスコミは、竹原前市長のやり方を独善的などと批判していたことから、今回の選挙で、めでたく「正常化」してしまった阿久根市のことを、ニュース性に乏しいということで、次第に忘れ去ることでしょう。

■ところで気になるのは、我らが群馬県の誇る警察官の鏡である元警察官の大河原氏の処遇です。警察改革を目指している大河原氏が、阿久根市の行政改革のためにはるばる遠くまで単身赴任をして粉骨砕身努力してきたわけですが、選挙を終えて「これからはノーサイドでゆく」と言っている新市長が、前市長時代の人事に対してどのような判断をするかが注目されます。

 もっとも、もともと行政改革の実践を使命としていた副市長の仙波氏も総務課長の大河原氏も、新市長の就任とともに、潔く自ら職を辞して、帰郷されることでしょう。

 大河原氏からは、年初に次の時候挨拶文が当会に寄せられました。

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新年明けましておめでとうございます。
 思い起こせば、長かった私の闘い~群馬県警《裏金告発》大河原裁判~は、11月5日結審し、本年、前橋地裁での判決を待つばかりとなりました。弁護団の入念な主張・立証により勝訴できるものと確信しております。そして何より今まで私を支えてくださった皆様には心より感謝申し上げます。
 皆様ご承知のように、私は、日本の行政改革・警察改革を断行すべく、群馬を離れ阿久根に参りました。
 赴任前に、旱い決断を迫られ、皆様にご挨拶せずに、群馬を離れてしまいました。お世話になった皆様と言葉を交わすと決心が鈍ると考え、無言のまま去りました非礼をお詫びいたします。
 皆様の支えを糧に、これからの活動にも精進して参ります。何処の地にこの身を置こうとも、変わらず復職と正義を求め、真剣に生きて行くことが、皆様のご恩に報いることと信じております。つきましては、今後とも変わらぬご支援のほど宜しくお願いいたします。
 末筆ながら、皆様のご健勝を、阿久根の地より心からお祈り申し上げます。
                    平成23年元旦
  〒899-1696鹿児島県阿久根市鶴見町200番地
       阿久根市役所 総務課 大河原 宗平
**********

■当会は、大河原さんが群馬に戻られた暁には、心から「ご苦労さま」と労いたいと思います。

【ひらく会情報部】

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周辺土地のカドミウム汚染除去より墓所の目の前にサンパイ場新設を優先する公害企業「東邦亜鉛」

2011-01-15 12:45:00 | 東邦亜鉛カドミウム公害問題

■東邦亜鉛安中製錬所は、遥か以前から亜鉛鉱石を輸入に依存していましたが、平成17年に法令が改正され、鉱山に近接した製錬所は鉱山保安法の対象ではなく、独立製錬所として、通常の法令に基づき、環境対策をしなければならなくなったにも関わらず、依然として鉱山付属の製錬所のまま、従来どおり、手続きの簡単な鉱山保安法に基づきサンパイ場を地元住民の先祖代々の墓地の直ぐそばに新設しておきながら、改正後、手続き的なつじつまを合わせるために、既に国の鉱山保安法の認可を得ているから問題ないとして、県の許可取得を直ちに得ようとして、昨年12月18日に突然住民説明会を約40年ぶりに住民説明会を岩野谷公民館で開催しました。この一部始終は当会のブログで報告済みです。

 先祖代々の墓のそばに、寝耳に水のサンパイ場が設置されたため、先祖の尊厳が踏みにじられたとして、周辺住民の怒りは頂点に達した為、当該墓地に先祖代々の墓を有する当会事務局長は、今年1月4日に東邦亜鉛に対して、サンパイ場の稼働を中止するよう嘆願書を提出していましたが、この度、同社から回答が送られてきました。内容は次のとおりです。

**********
                      平成23年1月12日
小 川  賢  様
                東京都中央区日本橋本町1丁目6番1号
                東邦亜鉛株式会社
                環境管理部長 冨澤芳幸 印
               回 答 書
 拝啓 小川様には平素より弊社安中製錬所並びに従業員に対しまして格別のご厚誼を賜り、心から感謝申し上げます。
 さて、平成23年1月4日付貴嘆願書をいただき、社長以下経営陣一同拝読いたしました。つきましては、貴嘆願書の中でお申し越しのありました点並びにご懸念の点に関し、次の通り弊社の方針として回答申し上げますので、宜しくご賢察のほどお願い申し上げます。
                                敬具
                 記
①墓所からの景観については、直接埋立施設が見えないように植樹あるいは塀の嵩上げなどにより、現状の改善措置を実施いたします。
②埋立施設においては、四六時中や頻繁に埋立や投入などの処分行為は発生しません。また、これらを行う際は発じん・騒音・振動に最善の注意を払い、適法かつ適正に行いますのでご安心ください。重要な仏事がありますときは一時的に作業の中止や停止もご協力できると思いますので、事前にご適絡ください。
③そもそも埋立処分する廃棄物は、ご懸念のような重金属に汚染されたものではありませんので、処分場に雨が降ってもその雨水が廃棄物により重金属汚染されるというようなことはありませんし、埋立場ができたからといって雨水処理における重金属の負荷が増える心配はありません。
④埋立場の使用につきましては、県の許可を得た上で適法かつ適正に行なってまいりますので、宜しくご了承賜りますようお願い致します。
                             以 上
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■先祖代々の墓所を有する周辺住民の総意に反して、東邦亜鉛は、①目隠しをする。②廃棄物投棄は時々しかやらない。③廃棄物には重金属は含まれず浸出水に問題はない。④県の許可を得た上で適法に実施する、として、当会が指摘した、①祖先の尊厳への配慮、②廃棄物投棄の停止、③重金属を含む浸出水対策、④安定型処分場の危険性の認識に対して、ことごとく軽視した回答をよこしました。、

 やはり、既に改正前の鉱山保安法でサンパイ場を駆け込みで作っておき、一般のサンパイ場と同様の廃掃法の手続きを受けずに済むようにして、既成事実を作っておき、あとは住民説明会を実施して、簡単に群馬県の許可を取得しようという魂胆であることが明確となりました。

 きれいで安全な環境の中で安心して生活したいとする周辺住民の願いをよそに、公害問題発生から半世紀を経てもない、重金属汚染土壌を放置したまま、社業の発展しか考えない東邦亜鉛㈱に対して、地元関係住民として、引き続き、土壌汚染対策の早期実施が、サンパイ場新設に優先すべきであることを認識させてゆきたいと思います。

 なお、経済産業相、群馬県知事、安中市長からは何の連絡もありません。

【ひらく会事務局】

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高崎高校野球部後援会資金の行方が左右する同校のOBからの今後の浄財の集まり具合

2011-01-10 23:23:00 | 他の自治体等の横領事件とタゴ51億円事件
■昨年の大晦日に読売新聞が報じた高崎高校野球部の後援会資金不明に関する報道が、次第に注目されつつある。まずは、読売新聞の報じた記事を見てみましょう。

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2千万円?高崎高校野球部の後援会資金不明に
 群馬県立高崎高校野球部の後援会資金の所在が不明になっていることが、後援会関係者への取材でわかった。
 同部が1981年の選抜大会初出場を決めた際に集まった寄付金の残額で、関係者は「2000万円程度ではないか」とし、内部調査を行っている。
 関係者によると、後援会は約15年前から休眠状態で、今回、復活させようとしたところ、通帳や決算資料が見つからず、今年11月、後援会の臨時総会で明らかにされた。当時の役員からは明確な説明は得られていないという。
 選抜出場時には同校OBらから約1億円の寄付が集まり、大会後、余った約8000万円のうち約3000万円を後援会が引き継いだ。関係者は、諸経費を差し引いても約2000万円の残額があるとみている。
(2010年12月31日09時06分 読売新聞)
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■高崎高校硬式野球部が昭和56年(1981年)のセンバツに出場が決定した際に、同校のOBらから、巨額の寄付金が短期間に集まりましたが、同校野球部は1回戦で、星陵高校に大敗し、巨額の寄付金の殆どが使われないまま残りました。

 同校の同窓会が毎年1月下旬の土曜日に開催している新年総会で配布される資料によると、この巨額の浄財について、次のような報告があります。

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財団法人「翠巒育英会」について
<発足ならびに概況説明資料>
 昭和56年(1981)群馬県立高崎高等学校野球部は、第53回選抜高校野球大会に悲願の初出場を果たした。その時、野球部後援会を母体に同窓会・PTA・野球部OB会・野球部父兄会が参加して「高崎高校野球部選抜甲子園大会出場特別後援会」(会長 小山禧一)が組織され募金活動を行ったところ、総額1億500万円余の浄財が瞬く間に集められた。
 しかし、甲子園では本校野球部は1回戦で敗退したために、8,000万円ほどの浄財が残された。「高崎高校野球部選抜甲子園大会出場特別後援会」はその解散にあたって、残金についてはご後援をいただいた各方面にお返しし、それぞれ有効に活用していただくこととしたが、同窓会にはクラブ活動振興のためにと3,000万円が寄託された。
 同窓会ではその運用を適正に期すために「クラブ活動振興基金管理委員会」(委員長 原一雄)を組織して、高崎高等学校のクラブ活動を支援してきた。そして、より有効な活用をはかるために、同窓会諸機関の承認を得て、本来のクラブ活動振興基金としての趣旨を生かしながら、さらに奨学資金の無償給付を行う財団法人を設立することとし、昭和60年(1985)1月19日「クラブ活動振興基金」3,000万円を基本財産として、財団法人「翠巒育英会」が発足した。
 以来、24年を経て翠巒育英会の奨学金(月額1万円)を支給された奨学生は90人、支給された総額は2,395万円に及んでいる(平成22年1月現在)。その内訳は、高々68人・高女7人・高商5人・高経大附属(含む高市女)4人・中央3人・高工3人であり、生徒の居住地域も高崎市の他、安中市、藤岡市、富岡市、甘楽町、前橋市、渋川市、昭和村、玉村町の他地域にわたっている。このような活動の公益性が高く評価され平成3年(1991)には群馬県教育委員会より感謝状、平成7年(1995)には群馬県知事表彰を受けている。また平成9年1月に、「翠巒育英会創立10周年」を記念して記念誌を発行し、関係者及び関係各機関に配布した。
 この育英資金は、財団の基本財産運用の利息の果実によって賄われているが、さらに毎年、叙位叙勲表彰を受けた同窓生や篤志家等の寄付によって援助されており、平成21年12月現在のべ182人の浄財の支援を受けながら、最近の低金利時代のなかでも育英会活動を続けている。
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 また、ネットのWikipediaにはこのことについて次のような記載があります。

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硬式野球がセンバツに出場を決めた1980年の秋季関東大会のエピソードは、山際淳司のノンフィクション小説「スローカーブを、もう一球」で採り上げられた。また甲子園出場決定にあたっては、福田赳夫・中曽根康弘を筆頭としたOBから数億円にのぼる多額の寄附金が集まった。なお試合は1回戦で音重鎮らを擁する星稜高校に大敗した。
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 OBの福田・中曽根を筆頭として、「数億円にのぼる多額の寄附金があつまった」というのは眉唾としても、当時、OBらから集まった寄附金は1口1万円で、なかには親子で同校卒業生として、あるいは、同期会や職場単位で寄付したケースもあったようです。

■また、山際淳司のノンフィクション小説は1985年に刊行されたもので、8つのオムニバス形式になっています。その中で、小説本の題名にもなっているのが高崎高校を取り上げた「スローカーブを、もう一球」というストーリーです。

 ここに描かれているのは、高崎市にある群馬県立高崎高校で、通称「タカタカ」野球部が県大会を勝ち抜き、関東大会準優勝という成績を残して甲子園への切符を手にするまでの経緯です。

■主人公は「タカタカ」のエースナンバーを守る川端俊介です。「タカタカ」は少人数でありながら活気に満ちていますが、甲子園だけが目標のいわゆる根性チームではありません。主人公川端俊介は、ポッチャリ気味の少し太めの高3生で、走ることが嫌いなため痩せられず、もてないため、彼女もいないという設定です。何事にも意欲が湧かないわりに、野球になると少し真剣になり、自分と似た性格の江川卓にあこがれています。特に野球センスに恵まれているわけでもなく、努力家でもないが、駆け引き事には多少強く、川端俊介の持ち球は130キロ台前半の直球と、60~70キロ台の超スローカーブの二つで、打者を翻弄しながら勝ち星を重ねてゆくのが痛快で面白いところです。スタミナはないが、ストレートを多投せず、超スローカーブを一試合に20球程度投げることにより、スタミナの温存を図りながら、県大会を面白いように勝ち進んで、結局優勝し、さらに、危ないながらも関東大会を勝ち進んで準決勝を逆転勝利し、ついに夢の甲子園出場切符を手にして、「タカタカ」に歴史を刻みました。そして決勝の相手は優勝候補のチームで、2-2となんとか8回まで踏ん張り、8回裏にスカウトからの注目を浴びている相手の3番バッターを三振に仕留めたまでは良かったのですが、そこで力が抜けて連打を浴び県大会以来、初の黒星を喫して、このストーリーは終わります。

 実際に、同校野球部は、あれよあれよという間に勝ち進み、甲子園の切符を手にしたことから、その意外性と、母校の野球部が夢の甲子園に出場し、勝利すれば懐かしい校歌を一緒に歌えると、同校OBらは皆、狂喜乱舞したことでしょう。だから短期間に巨額の浄財が集まったのでした。

■いろいろな情報を整理してみると、センバツで初戦敗退したことから、1億500万円余りの寄附金のうち、経費として2500万円程度を費消した残金は8,000万円程で、このうち、3,000万円が同窓会に寄付されており、これは前述の通り、きちんと管理及び報告が毎年されていて、奨学金として有効に活用されていることが分かります。

 では、新聞報道された行方不明になっているという約2,000万円もの大金は、どのような経緯をたどったのでしょうか。どうやら、同校野球部には、「後援会」というものが、今から15年前まで、存在しており、そこにはセンバツ初出場で集まった1億500万円程の巨額寄附金のうち、実際に経費として費消した金額約2500万円の除く約8,000万円が余り、そのうち3,000万円が同校の同窓会に寄付され、同じく約3,000万円が同校野球部の後援会に引き継がれ、残りの約2,000万円が、その他の後援会に分配されたことになります。

■同校野球部の「後援会」というのが、どのような実態なのかは、手元に資料がないため分かりません。しかし、一応会長ら幹部や、会計係は決めてあるはずで、通帳の管理をしていた人物がいるはずです。

 現在内部調査中のようですが、今年、平成23年1月22日(土)午後3時から高崎ビューホテルで、高崎高校同窓会の新年総会が開催される予定で、同校OBらが1000人以上集うことでしょう。

 その場で、学校側から、内部調査結果を踏まえた説明がきちんとなされるかどうか、注目されます。もし、このことに関して説明がなかったり、中途半端な説明に終始したりした場合には、今後、野球部はもとより、他のクラブが全国大会に出場するときなど、寄付金を集めようとしても、思うように集まらなくなる恐れが出てくるでしょう。また、同窓会の維持会費の集まり具合にも影響を及ぼすことになるかもしれません。

■今年度で勇退予定という同高の校長先生には、この事件について、ぜひ詳しく説明してもらいたいと思う同校OBらは多いと思います。また、在学中の1981年にセンバツ初出場を果たし、甲子園では実際に5番レフトで出場し、その後昭和63年から平成10年まで中曽根康弘衆議院議員(元首相)秘書を務めていたこともある安中市選出の岩井均県議には、ぜひとも同校、野球部OB代表として、行方不明となった2,000万円の使途確認に向けて野球部後援会関係者へのヒヤリングを通して、事件の実態調査や責任の所在の確認、そして再発防止策について、リード役を務めてもらいたいものです。

【ひらく会情報部】

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