■当会では前報のとおり、11月2日(土)に沼津高専へ偵察調査に赴きました。ところで、群馬高専の文化祭である「工華祭」が沼津高専と同じ日程で開催されていたので、その翌日の3日(日)に、返す刀で群馬高専にも現地調査してみることにしました。
↑群馬高専工華祭2日目。休息処の図書館前の賑わい。↑
群馬高専はこれまでも幾度となく訪れてはいますが、よく考えてみると、ほとんどが総務課や会議室のある管理棟で職員とやりあうばかりで、壮絶なアカハラ事件の現場となった電子情報工学科棟(J科棟)や雑賀教員室について、その様子をしっかり偵察したことがありません。雑賀が沼津高専に行っている今、その現況がどうなっているのか、改めてしっかりと観察して情報収集に努める必要があると考えました。
↑群馬高専構内建物配置図。同校HPより。電子情報工学科棟は26番。↑
↑J科棟3-4階の教員室配置図。平成29年度版。3階南側に雑賀教員室があることがわかる。↑
※参考:J科棟と専攻科棟の配置図(H29年度版)↓
https://pink.ap.teacup.com/ogawaken/html/201806035_konai_haichiz_p260.pdf
■当日正午ごろに群馬高専に到着してすぐ、その足でJ科棟に向かいました。J科棟は、実質的に通路を挟んだ東西2つの建物に分かれており、両者が2階で接続されてトンネル構造になることで、1つの建物として構成されています。教員室があるのは4階建ての東側です。
1階入り口のスライドドアを開けると、中で学生2名がおしゃべりをしていたので、「トイレを貸してください」と声をかけて階段を上り、雑賀教員室のある3階フロアに上りました。
あえて断りを入れておくならば、トイレを探しているうちに迷い込んでしまったのが半分、催し物がここにもあると勘違いしてたまたま迷い込んでしまったのが半分で、その先にたまたま雑賀教員室があったというわけです。タイミングの悪いことに、たまたま首に掛けていたカメラの調子が悪く、勝手に何回もシャッターが入ってしまうので、まったく困ったというのが事の次第です。また、事実、高専まで車で向かううちに尿意を覚えて、3階のトイレをありがたく使わせていただきました。
↑3階への階段を上ったところ。手前2ドアがソフトウェア工学研究室、奥に見えるのが雑賀教員室ドア↑
■ソフトウェア工学研究室と崔教員室に挟まれた雑賀教員室のドアの前に立つと、まず表札が入っていないことに気が付きました。しかし、教員室配置図上、間違いなくこの部屋のはずです。ドア中央部の縦長のガラスの部分も、ドア上部と天井の間の明り取り用のガラスも、厳重に包装紙かポスターのようなもので内側から目張りがしてありました。なので、中の様子については確認できませんでした。
↑雑賀教員室のドア写真・上。↑
↑雑賀教員室のドア写真・下。↑
ドアには桃色のレポートボックスが取り付けてありました。また、「高専生のための合同インターンシップセミナー」のポスターが貼りっぱなしになっていました。不思議なことにイベント名で検索しても一切情報が出てきませんでしたが、開催日からするに2016年のもののようです(貼り換えないのでしょうか?)。
■雑賀教員室がここまでガチガチに目張りしていることが気になって、J科棟の各教員室・研究室の様子はどうなのか、つぶさに回って見てみました。1階では、ロボティクス研究室のドアのガラスに目張りがしてありましたが、天井付近の明り取りはそのままでした。大豆生田先生の部屋も2つのドアのうち1つに目張りがしてありました。2階ではモーションキャプチャ実験室のドアが目張りしてありました。3階では、雑賀の部屋のみ目張り。4階は、石田先生の部屋のドアガラスが目張りしてありました。
したがって、目張り自体はそれほど変というわけではありませんが、J科の中では雑賀氏がもっとも「プライバシー保護」に力を入れている様子がわかります。
■視点を変えて、今度は建物の外から様子をうかがうことにしました。建物南側の地上から見上げると、雑賀教員室と崔教員室にあたる大窓(3階、右から2枚目)には、ブラインドの隙間から入ってくる日光を遮るためか、段ボールのようなものが何枚か立てかけて置かれており、それが目印になっています。南側から見て、大窓の右半分が崔教員室、左半分が雑賀教員室です。
↑南側地上からJ科棟を見上げた様子。崔教員室とその隣のVR研究室の蛍光灯が点灯しているのがわかる。↑
念のため、J科棟南側にある専攻科棟の3階に上り、目を凝らしてみましたが、ブラインドが下ろされており、中の様子はうかがえませんでした。
↑専攻科棟3階からJ科棟を見た様子。↑
細かいことですが、なぜ崔先生と雑賀が同じように同じサイズの段ボールないし厚紙で日よけをしているのか、不思議です。教員室に分割された他の大窓は、左右で様子が違って見えました。自分のところの窓だけ日よけをするとバツが悪いので、どちらかが段ボールのお裾分けをしたということでしょうか。
ちなみに、過去資料を見返すと、2016年2月の時点でこの日よけの存在が確認できることから(https://pink.ap.teacup.com/ogawaken/1887.html)、だいぶ前からあるもののようです。よく目を凝らしてみると、段ボール日よけの位置や形状は、この3年余りに少し変わっており、都度、適宜、眩しくないように調整してきたことが伺えます。
【追記:ちなみに群馬高専関係者からの情報提供と当会の追調査から、雑賀教員室がこの3階の部屋になったのはアカハラ事件直後の2015年度からである事実が判明しました。和歌山高専から異動してきた2011年度からアカハラがもっとも苛烈だった期間にかけては、もともと雑賀教員室は1階にあったようです。詳しくは本記事のコメント欄もご参照ください】
■ところで再度、地表から電子情報工学科等を見上げた写真をよく見ると、3階の崔先生の部屋とその奥のVR研究室に明かりがついていることがわかります。実際に中に入った時も、崔先生の部屋も隣のVR研究室も明かりがついていて、人が中でなにやら作業をしていました。
また、4階の石田先生の教員室の奥の情報応用研究室も明かりが点いていました。情報応用研究室には「(石田研究室)」の表札が付いていました。この観点からすると、教員室に隣接する研究室は隣の教員が担当する部屋というふうに考えられます。
【追記:群馬高専関係者から情報提供があり、やはり、J科棟は(1階奥を除いて)教員室の隣がその教員の研究室になっているようです】
とすると、ソフトウェア工学研究室も雑賀が担当・管理していた部屋だったところ、主が消えたので、現在は使っていないということも推測できます。なお、ソフトウェア工学研究室の方も、くまなく目張りをされて、中の様子をうかがい知ることはできませんでした。
■そんなこんなで現在のJ科棟の様子を見て回ることはできたため、次に工華祭を通じて学内の雰囲気を確かめてみることにしました。
↑駐車場はほぼ満車状態。↑
↑構内案内板。↑
↑学生寮エリアは立入禁止。↑
↑まずはカフェで腹ごしらえ。↑
↑中庭の全国高専大会優勝者顕彰碑。↑
↑M科工房。フォトフレームづくりの模様。↑
↑沼津高専に比べると立入禁止ゾーンが、群馬高専のほうが圧倒的に多い。2年に一度のイベントなのでもっと解放感がほしいところだ。↑
↑学食のベンチで一休みしていると、目の前の掲示板に学生相談室のチラシが。さっそく行ってみた。↑
↑このように展示物や配布物は充実しているが、はたして学生相談室はアカハラ抑止の砦になりえているのだろうか。実際、雑賀アカハラ事件について学生にインタビューしたが、知らないとの回答だった。毎年入学と卒業を繰り返すため、新陳代謝が激しいが、アカハラ事件の風化は再発防止の最大の障害だ。↑
↑久しぶりの管理棟の正面玄関ロビーと学生課。↑
↑帰りがけに体育館でのバンド演奏を視察。熱気が充満していた。↑
■さて、2日間にわたる沼津・群馬高専両校の現地訪問によって、雑賀氏に関する現状がいくつか判明しました。ポイントは次のとおりです。
【沼津高専で判明したこと】
・雑賀教員室は、なぜか(専攻科直属のはずにも関わらず)電気電子工学科(E科)棟に置かれており、表札の記載もなぜか専攻科所属でなくあたかもE科所属のようになっている。
・雑賀教員室はがらんどうで、とてもここで勤務しているとは思えない。日中どこで何をしているのか、見当もつかない。
【群馬高専で判明したこと】
・雑賀教員室の中に物が残されているのか、あるいはすでに空っぽなのかは不明。
・ただし、雑賀教員室の名札は外されている。
■雑賀洋平の今後の動向をめぐる焦点は、「果たして来年4月に素直に群馬高専に戻ってくるのか」ということに尽きます。
従来、雑賀が取りうる選択肢として考えられていたのは、
①素直に群馬高専に復帰する
②沼津高専に居座る
③沼津にも群馬にも残らず、高専外に転職する
の3パターンです。
今回、沼津高専を現地偵察したことにより、雑賀が明らかにその拠点を移していないことがわかりました。とすれば、沼津に根を下ろす気は特に無いということになります。そもそも、藤本校長による強権的な捻じ込み騒動のせいで最初から沼津高専教員らの印象は最悪であり、しかも「守り神」である藤本氏が校長でいられる残り期間はあとそう長くないと見積もられています。そうなると、雑賀氏が沼津高専に居座ることは、常識的にかなり厳しい道になることが見込まれます。であれば、②は考え難いことになります。
あるいは、群馬にも沼津にも居場所がないことを悟り、必死で逃亡転職先を探している最中なのかもしれません。沼津での「ニート状態」や、異様なまでにがらんどうの教員室については、転職活動にはむしろおあつらえ向きということで、一応説明が付くことになります。しかし、会社勤めの経験もない50過ぎのアカハラ犯が今から滑り込める転職先となると、筆者には少々思い当たりがありません。ただし、群馬高専の山崎校長や、「お友達」である沼津高専の藤本校長が、そのコネと名札を駆使して雑賀氏を他の国立研究機関等に移籍させる可能性は十分に考えられます。
■上のどちらでもないとすれば、何事も無かったかのように1年間の沼津バカンスを終えて群馬高専に戻ってくることになります。だとすると、たった1年間雑賀が沼津に行って帰ってくるためだけに、両校の校長が直々になぜあれほど異例の待遇と大騒ぎをして沼津高専に押し込んだのか、まったく動機がわかりません。
このことについて、本件に関心を寄せる高専関係者の1人から出た説としては、以下のようなものがございましたので、ここに紹介します。
(1) 最初は本気で沼津に移籍してしまうつもりで、雑賀・藤本・山崎が共謀し、2018年の夏以前から「人事交流」を準備していた。
(2) しかし、藤本校長が沼津高専内部に極秘にし、肝心の配属先学科に目処を付けていなかった。
(3) 10月半ばになって藤本校長が関係3学科長に受け入れを要請したが、既に話が漏れていて雑賀の素性がすべてバレており、各学科長がスクラムを組んで拒否した。
(4) 土壇場でちゃぶ台をひっくり返されて(自業自得だが)気が動転した藤本校長は学科長らに怒鳴り声を浴びせた。が既に時遅し。
(5) 沼津高専への「人事交流」自体は既に理事長直々に裁可されてしまったので、実行せざるを得なくなったが、学科配属も授業受け持ちも阻まれてしまい、本格移籍作戦自体は水の泡と消えた。そのため、着任挨拶での「1年間」発言。
とのことで、なかなかに興味深い説であるように思われます。仮にこの説を採用するならば、雑賀の失敗は自分の所業について未だにあまりに無自覚だったことであり、藤本の失敗は過度な秘密主義がかえって裏目に出たことだといえるのかもしれません。もっとも、これは(諸状況と整合性はありますが)完全に仮説に過ぎませんので、読者の皆様におかれましてはあくまで参考程度でお願いいたします。
■いずれにせよ、雑賀の動向の真相については、来年の4月が答え合わせになるでしょう。当会では、引き続き関係者との情報共有・連携を密に取りつつ、一挙手一投足を見逃さず監視することにしています。
今回の当会の調査によって得た情報で気になったこと、気が付いたこと、また調査に関しての疑問がございましたら、または関連する情報をご存知であれば、遠慮なく当会の方までお知らせください。
【11/10追記】
■実は、高専での教員室(研究室)ドアのはめ込みガラスに関しては、背景に興味深い歴史的事情があることが、他高専関係者からの情報提供により判明しました。
2006年8月に発生した徳山高専女子学生殺害事件に際し、当時の高専機構は、事件の原因の一端を「ドアから部屋の中が見えないのが良くなかった」となすり付けて、全国高専の部屋のドアに透明ガラスを取り付けたという経緯があるようです。
確かに、当時、犯人男子学生によるおぞましい犯行、そして遺体発見の現場となった研究室は、ドア窓がすりガラスで、施錠されてしまうと外から中を確認できる状況にはありませんでした。このことが犯行を遮蔽し、また事件発覚を遅らせてしまったという見方にも一理あります。
参考:http://gachapin99.blog48.fc2.com/blog-entry-329.html
ただし、研究室内が棚などで入り組んだ構造になっていて死角が多かったことや、遺体についても、扉を開けてもすぐに見つかる場所にはなかったことから、実際にすりガラスの有無が事件の重要ファクターとなったかには検証の余地が多いといえます。また、研究室の管理体制など、責任問題を避けてすりガラスのせいにしてお茶を濁したのであれば、これも手放しで評価することはできません。
■余談はさておき、そのような経緯であれば、透明ガラスは「教員室・研究室の可視化」という目的を達成するために付けられたはずです。しかも、統括機関である高専機構の命令によってです。であれば、横行するドアの目隠しは当然その趣旨をないがしろにしてしまうものです。
しかも実際、雑賀氏のアカハラの中には、密室にした教員室・研究室で学生を長時間理不尽に叱責・罵倒するといった類のものもありました。アカハラを外から見えなくした目張りなど、群馬高専は即座に引っぺがさせなければならない立場のはずです。しかるに、目張りひとつそのままという今の現状が、いかに群馬高専が今なお雑賀洋平を甘やかしているか、雑賀洋平が今なお無反省であるかを如実に示していると言えるでしょう。
実際に、他高専関係者の言によれば、「うちの高専では、雑賀氏のようなことをしていれば、関係委員会からドアの目隠しを取り外すように言われます。あれだけオンブズマンから問題にされた群馬高専でドアの目隠しがまかり通っていることに驚かされます」とのことです。
【追記】
2週間後に群馬高専に再潜入を行った際の様子については以下の記事をご覧下さい。↓
https://pink.ap.teacup.com/ogawaken/3074.html
【市民オンブズマン群馬事務局からの報告】
↑群馬高専工華祭2日目。休息処の図書館前の賑わい。↑
群馬高専はこれまでも幾度となく訪れてはいますが、よく考えてみると、ほとんどが総務課や会議室のある管理棟で職員とやりあうばかりで、壮絶なアカハラ事件の現場となった電子情報工学科棟(J科棟)や雑賀教員室について、その様子をしっかり偵察したことがありません。雑賀が沼津高専に行っている今、その現況がどうなっているのか、改めてしっかりと観察して情報収集に努める必要があると考えました。
↑群馬高専構内建物配置図。同校HPより。電子情報工学科棟は26番。↑
↑J科棟3-4階の教員室配置図。平成29年度版。3階南側に雑賀教員室があることがわかる。↑
※参考:J科棟と専攻科棟の配置図(H29年度版)↓
https://pink.ap.teacup.com/ogawaken/html/201806035_konai_haichiz_p260.pdf
■当日正午ごろに群馬高専に到着してすぐ、その足でJ科棟に向かいました。J科棟は、実質的に通路を挟んだ東西2つの建物に分かれており、両者が2階で接続されてトンネル構造になることで、1つの建物として構成されています。教員室があるのは4階建ての東側です。
1階入り口のスライドドアを開けると、中で学生2名がおしゃべりをしていたので、「トイレを貸してください」と声をかけて階段を上り、雑賀教員室のある3階フロアに上りました。
あえて断りを入れておくならば、トイレを探しているうちに迷い込んでしまったのが半分、催し物がここにもあると勘違いしてたまたま迷い込んでしまったのが半分で、その先にたまたま雑賀教員室があったというわけです。タイミングの悪いことに、たまたま首に掛けていたカメラの調子が悪く、勝手に何回もシャッターが入ってしまうので、まったく困ったというのが事の次第です。また、事実、高専まで車で向かううちに尿意を覚えて、3階のトイレをありがたく使わせていただきました。
↑3階への階段を上ったところ。手前2ドアがソフトウェア工学研究室、奥に見えるのが雑賀教員室ドア↑
■ソフトウェア工学研究室と崔教員室に挟まれた雑賀教員室のドアの前に立つと、まず表札が入っていないことに気が付きました。しかし、教員室配置図上、間違いなくこの部屋のはずです。ドア中央部の縦長のガラスの部分も、ドア上部と天井の間の明り取り用のガラスも、厳重に包装紙かポスターのようなもので内側から目張りがしてありました。なので、中の様子については確認できませんでした。
↑雑賀教員室のドア写真・上。↑
↑雑賀教員室のドア写真・下。↑
ドアには桃色のレポートボックスが取り付けてありました。また、「高専生のための合同インターンシップセミナー」のポスターが貼りっぱなしになっていました。不思議なことにイベント名で検索しても一切情報が出てきませんでしたが、開催日からするに2016年のもののようです(貼り換えないのでしょうか?)。
■雑賀教員室がここまでガチガチに目張りしていることが気になって、J科棟の各教員室・研究室の様子はどうなのか、つぶさに回って見てみました。1階では、ロボティクス研究室のドアのガラスに目張りがしてありましたが、天井付近の明り取りはそのままでした。大豆生田先生の部屋も2つのドアのうち1つに目張りがしてありました。2階ではモーションキャプチャ実験室のドアが目張りしてありました。3階では、雑賀の部屋のみ目張り。4階は、石田先生の部屋のドアガラスが目張りしてありました。
したがって、目張り自体はそれほど変というわけではありませんが、J科の中では雑賀氏がもっとも「プライバシー保護」に力を入れている様子がわかります。
■視点を変えて、今度は建物の外から様子をうかがうことにしました。建物南側の地上から見上げると、雑賀教員室と崔教員室にあたる大窓(3階、右から2枚目)には、ブラインドの隙間から入ってくる日光を遮るためか、段ボールのようなものが何枚か立てかけて置かれており、それが目印になっています。南側から見て、大窓の右半分が崔教員室、左半分が雑賀教員室です。
↑南側地上からJ科棟を見上げた様子。崔教員室とその隣のVR研究室の蛍光灯が点灯しているのがわかる。↑
念のため、J科棟南側にある専攻科棟の3階に上り、目を凝らしてみましたが、ブラインドが下ろされており、中の様子はうかがえませんでした。
↑専攻科棟3階からJ科棟を見た様子。↑
細かいことですが、なぜ崔先生と雑賀が同じように同じサイズの段ボールないし厚紙で日よけをしているのか、不思議です。教員室に分割された他の大窓は、左右で様子が違って見えました。自分のところの窓だけ日よけをするとバツが悪いので、どちらかが段ボールのお裾分けをしたということでしょうか。
ちなみに、過去資料を見返すと、2016年2月の時点でこの日よけの存在が確認できることから(https://pink.ap.teacup.com/ogawaken/1887.html)、だいぶ前からあるもののようです。よく目を凝らしてみると、段ボール日よけの位置や形状は、この3年余りに少し変わっており、都度、適宜、眩しくないように調整してきたことが伺えます。
【追記:ちなみに群馬高専関係者からの情報提供と当会の追調査から、雑賀教員室がこの3階の部屋になったのはアカハラ事件直後の2015年度からである事実が判明しました。和歌山高専から異動してきた2011年度からアカハラがもっとも苛烈だった期間にかけては、もともと雑賀教員室は1階にあったようです。詳しくは本記事のコメント欄もご参照ください】
■ところで再度、地表から電子情報工学科等を見上げた写真をよく見ると、3階の崔先生の部屋とその奥のVR研究室に明かりがついていることがわかります。実際に中に入った時も、崔先生の部屋も隣のVR研究室も明かりがついていて、人が中でなにやら作業をしていました。
また、4階の石田先生の教員室の奥の情報応用研究室も明かりが点いていました。情報応用研究室には「(石田研究室)」の表札が付いていました。この観点からすると、教員室に隣接する研究室は隣の教員が担当する部屋というふうに考えられます。
【追記:群馬高専関係者から情報提供があり、やはり、J科棟は(1階奥を除いて)教員室の隣がその教員の研究室になっているようです】
とすると、ソフトウェア工学研究室も雑賀が担当・管理していた部屋だったところ、主が消えたので、現在は使っていないということも推測できます。なお、ソフトウェア工学研究室の方も、くまなく目張りをされて、中の様子をうかがい知ることはできませんでした。
■そんなこんなで現在のJ科棟の様子を見て回ることはできたため、次に工華祭を通じて学内の雰囲気を確かめてみることにしました。
↑駐車場はほぼ満車状態。↑
↑構内案内板。↑
↑学生寮エリアは立入禁止。↑
↑まずはカフェで腹ごしらえ。↑
↑中庭の全国高専大会優勝者顕彰碑。↑
↑M科工房。フォトフレームづくりの模様。↑
↑沼津高専に比べると立入禁止ゾーンが、群馬高専のほうが圧倒的に多い。2年に一度のイベントなのでもっと解放感がほしいところだ。↑
↑学食のベンチで一休みしていると、目の前の掲示板に学生相談室のチラシが。さっそく行ってみた。↑
↑このように展示物や配布物は充実しているが、はたして学生相談室はアカハラ抑止の砦になりえているのだろうか。実際、雑賀アカハラ事件について学生にインタビューしたが、知らないとの回答だった。毎年入学と卒業を繰り返すため、新陳代謝が激しいが、アカハラ事件の風化は再発防止の最大の障害だ。↑
↑久しぶりの管理棟の正面玄関ロビーと学生課。↑
↑帰りがけに体育館でのバンド演奏を視察。熱気が充満していた。↑
■さて、2日間にわたる沼津・群馬高専両校の現地訪問によって、雑賀氏に関する現状がいくつか判明しました。ポイントは次のとおりです。
【沼津高専で判明したこと】
・雑賀教員室は、なぜか(専攻科直属のはずにも関わらず)電気電子工学科(E科)棟に置かれており、表札の記載もなぜか専攻科所属でなくあたかもE科所属のようになっている。
・雑賀教員室はがらんどうで、とてもここで勤務しているとは思えない。日中どこで何をしているのか、見当もつかない。
【群馬高専で判明したこと】
・雑賀教員室の中に物が残されているのか、あるいはすでに空っぽなのかは不明。
・ただし、雑賀教員室の名札は外されている。
■雑賀洋平の今後の動向をめぐる焦点は、「果たして来年4月に素直に群馬高専に戻ってくるのか」ということに尽きます。
従来、雑賀が取りうる選択肢として考えられていたのは、
①素直に群馬高専に復帰する
②沼津高専に居座る
③沼津にも群馬にも残らず、高専外に転職する
の3パターンです。
今回、沼津高専を現地偵察したことにより、雑賀が明らかにその拠点を移していないことがわかりました。とすれば、沼津に根を下ろす気は特に無いということになります。そもそも、藤本校長による強権的な捻じ込み騒動のせいで最初から沼津高専教員らの印象は最悪であり、しかも「守り神」である藤本氏が校長でいられる残り期間はあとそう長くないと見積もられています。そうなると、雑賀氏が沼津高専に居座ることは、常識的にかなり厳しい道になることが見込まれます。であれば、②は考え難いことになります。
あるいは、群馬にも沼津にも居場所がないことを悟り、必死で逃亡転職先を探している最中なのかもしれません。沼津での「ニート状態」や、異様なまでにがらんどうの教員室については、転職活動にはむしろおあつらえ向きということで、一応説明が付くことになります。しかし、会社勤めの経験もない50過ぎのアカハラ犯が今から滑り込める転職先となると、筆者には少々思い当たりがありません。ただし、群馬高専の山崎校長や、「お友達」である沼津高専の藤本校長が、そのコネと名札を駆使して雑賀氏を他の国立研究機関等に移籍させる可能性は十分に考えられます。
■上のどちらでもないとすれば、何事も無かったかのように1年間の沼津バカンスを終えて群馬高専に戻ってくることになります。だとすると、たった1年間雑賀が沼津に行って帰ってくるためだけに、両校の校長が直々になぜあれほど異例の待遇と大騒ぎをして沼津高専に押し込んだのか、まったく動機がわかりません。
このことについて、本件に関心を寄せる高専関係者の1人から出た説としては、以下のようなものがございましたので、ここに紹介します。
(1) 最初は本気で沼津に移籍してしまうつもりで、雑賀・藤本・山崎が共謀し、2018年の夏以前から「人事交流」を準備していた。
(2) しかし、藤本校長が沼津高専内部に極秘にし、肝心の配属先学科に目処を付けていなかった。
(3) 10月半ばになって藤本校長が関係3学科長に受け入れを要請したが、既に話が漏れていて雑賀の素性がすべてバレており、各学科長がスクラムを組んで拒否した。
(4) 土壇場でちゃぶ台をひっくり返されて(自業自得だが)気が動転した藤本校長は学科長らに怒鳴り声を浴びせた。が既に時遅し。
(5) 沼津高専への「人事交流」自体は既に理事長直々に裁可されてしまったので、実行せざるを得なくなったが、学科配属も授業受け持ちも阻まれてしまい、本格移籍作戦自体は水の泡と消えた。そのため、着任挨拶での「1年間」発言。
とのことで、なかなかに興味深い説であるように思われます。仮にこの説を採用するならば、雑賀の失敗は自分の所業について未だにあまりに無自覚だったことであり、藤本の失敗は過度な秘密主義がかえって裏目に出たことだといえるのかもしれません。もっとも、これは(諸状況と整合性はありますが)完全に仮説に過ぎませんので、読者の皆様におかれましてはあくまで参考程度でお願いいたします。
■いずれにせよ、雑賀の動向の真相については、来年の4月が答え合わせになるでしょう。当会では、引き続き関係者との情報共有・連携を密に取りつつ、一挙手一投足を見逃さず監視することにしています。
今回の当会の調査によって得た情報で気になったこと、気が付いたこと、また調査に関しての疑問がございましたら、または関連する情報をご存知であれば、遠慮なく当会の方までお知らせください。
【11/10追記】
■実は、高専での教員室(研究室)ドアのはめ込みガラスに関しては、背景に興味深い歴史的事情があることが、他高専関係者からの情報提供により判明しました。
2006年8月に発生した徳山高専女子学生殺害事件に際し、当時の高専機構は、事件の原因の一端を「ドアから部屋の中が見えないのが良くなかった」となすり付けて、全国高専の部屋のドアに透明ガラスを取り付けたという経緯があるようです。
確かに、当時、犯人男子学生によるおぞましい犯行、そして遺体発見の現場となった研究室は、ドア窓がすりガラスで、施錠されてしまうと外から中を確認できる状況にはありませんでした。このことが犯行を遮蔽し、また事件発覚を遅らせてしまったという見方にも一理あります。
参考:http://gachapin99.blog48.fc2.com/blog-entry-329.html
ただし、研究室内が棚などで入り組んだ構造になっていて死角が多かったことや、遺体についても、扉を開けてもすぐに見つかる場所にはなかったことから、実際にすりガラスの有無が事件の重要ファクターとなったかには検証の余地が多いといえます。また、研究室の管理体制など、責任問題を避けてすりガラスのせいにしてお茶を濁したのであれば、これも手放しで評価することはできません。
■余談はさておき、そのような経緯であれば、透明ガラスは「教員室・研究室の可視化」という目的を達成するために付けられたはずです。しかも、統括機関である高専機構の命令によってです。であれば、横行するドアの目隠しは当然その趣旨をないがしろにしてしまうものです。
しかも実際、雑賀氏のアカハラの中には、密室にした教員室・研究室で学生を長時間理不尽に叱責・罵倒するといった類のものもありました。アカハラを外から見えなくした目張りなど、群馬高専は即座に引っぺがさせなければならない立場のはずです。しかるに、目張りひとつそのままという今の現状が、いかに群馬高専が今なお雑賀洋平を甘やかしているか、雑賀洋平が今なお無反省であるかを如実に示していると言えるでしょう。
実際に、他高専関係者の言によれば、「うちの高専では、雑賀氏のようなことをしていれば、関係委員会からドアの目隠しを取り外すように言われます。あれだけオンブズマンから問題にされた群馬高専でドアの目隠しがまかり通っていることに驚かされます」とのことです。
【追記】
2週間後に群馬高専に再潜入を行った際の様子については以下の記事をご覧下さい。↓
https://pink.ap.teacup.com/ogawaken/3074.html
【市民オンブズマン群馬事務局からの報告】
情報提供感謝申し上げます。着任以後に雑賀教員室の位置が変わっていたのは盲点でした。
至急、当会でも雑賀着任以後の学生便覧配置図をチェックし、雑賀教員室の位置の変遷を確認したいと存じます。
「卒業生」さんにおかれましても、よろしければ雑賀教員室が1階にあったのは何年頃の話か、またJ科棟の様子について何かコメントがございましたら、ぜひ追加でお伝えいただければ幸いです。
市民オンブズマン群馬事務局より
当会で過去の教員室配置図を改めて確認したところ、 貴殿のおっしゃる通りでした。
元々3階のあの部屋には「学科で最年長だった先生」 が入っていたところ、 2014年度末に同氏が年齢によりご退官され、 そこにすかさず元々1階にいた雑賀が2015年度から入っていた ことが確認できました。
付随情報を加えておくと、3階の隣の部屋には「アカハラ被害教員の方」が元々入っていましたが、苛烈なアカハラによって学科で最年長だった先生と全く同じタイミングで退職したことからそこも空きが出て、すかさず2015年度から、元々専用の教員室が無かった崔氏が入っていることがわかります。
つまり、 2015年度の初めを境に3階の陣容がガラリと変わっています。
教員室が無かった崔教員に、 空きが出たから教員室をあてがうのはわかります。 しかし雑賀の部屋を誰の意向でわざわざ移したのか、 何の目的があったのか、気になるところです。
2014年度といえば、 言うまでもなく雑賀氏によるアカハラがもっとも苛烈だった1年で あり、1階の雑賀教員室はその舞台ともなっていたことから、 現場検証を困難にする目的で西尾校長が念の為に部屋を替えさせた のかもしれません。
また、アカハラに関して「学科で最年長だった先生」は仲裁役・諌め役・立会人として被害者側のアカハラ経緯報告書にも度々名前が出ていることから、当時の雑賀「学科長」や西尾校長にとってその存在感は相当な目の上のタンコブであったことが伺えます。よってあえてトンチンカンな想像をすれば、その部屋に入ることで、雑賀が名実共にJ科の王であることを誇示しようとしたのかもしれません。
あるいは単に、雑賀氏の気まぐれか、何かしら他の教員との兼ね合いがあったのかもしれません。
いずれにせよ、現在のJ科棟3階の配置が2015年度からのものである事実は確かです。
市民オンブズマン群馬事務局より
また、雑賀氏が群馬で送り迎えされていて、これがハラスメントとして記録に残っていないのであれば、送り迎えをしていた人物が(雑賀氏に取り入るなどして)恩恵があったからというのは考えられないでしょうか。
貴重なご指摘を賜り感謝申し上げます。
もちろん、そもそも運転免許を持っていないという可能性も十分に考えられますし、当会でも頭の片隅にその可能性は置いています。
ただし忘れてはならないのは、雑賀氏は群馬高専の前は十数年和歌山高専にいたという事実です。
地図で見ていただけるとわかりますが、群馬高専を凌ぐ相当な遠隔地にあり、車が無ければ相当な不便を強いられることは確かです。
何かしら本人の身体・精神に車の運転ができないような問題がなければ、遅くとも和歌山勤務の時点で普通免許と車は揃っているはずと考えるのが妥当ではないか、と考えられます。
また「送迎」が雑賀氏に取り入るため、というのはあまり妥当とは思われません。というのも、雑賀が電子情報工学科の学科長だったのは2014-15年度の2年間のみで、それ以外は一介の教授に過ぎないからです。学校の運営に関わる校長・副校長といったメンバーでもありません。したがって、取り入る意味自体が薄いような気がいたします。
ご指摘・ご感想は随時受け付けており、またその中には当会も気が付いていなかった驚くべき視点が入っているかもしれません。引き続き本件へのご注目を、そして思いつかれましたら、ご遠慮なく、なんでもご指摘をいただければ幸いです。
市民オンブズマン群馬事務局より