■ところで、今回のタゴ一族から安中市土地開発公社に唐突に寄附の申し入れがあり、あっさりと岡田市長らが受け入れた絵画等6点についても、検討してみましょう。
たまたま、7月25日(日)に安中市内で新聞折込された共産党のチラシに、この件に関連して、次の記事が掲載されています。
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本物なら数億円になる?
土地開発公社詐欺事件
六月議会全員協議会で、土地開発公社から五十一億円をだまし取った元職員の妻が、このほど弁償の一部に当てて欲しいと絵画六点を市に持ち込んだことが報告されました。
これらの絵画が、なぜ今まで隠されていたのか、また、弁償というなら本人がお金に換えてから公社に弁済すべきですが問題は残ります。
もしも本物ならば約四億円(日本共産党安中市議団試算)の価値があるようですが、総務部では偽者かどうか鑑定が必要としています。作者の名前は、東洲斎写楽、高橋由一、浅井忠(ちゆう)、萬鉄五郎、林武、立川広巳などとなっており、立川氏は現存する現代洋画家ですが他は全て故人です。
(出典:新あんなか民報 第18号 2010年7月25日発行)
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共産党が約4億円の価値があるとした根拠は不明ですが、タゴ一族からの絵画等6点寄贈で4億円?換価できたとしても、群馬銀行への100年ローン返済の原資としては焼け石に水です。
■ところで、タゴの配偶者から現物支給された絵画等6点とは一体どんなものなのでしょうか。今回開示された情報では、絵画等の写真が含まれていないため、どのような絵柄なのかは分かりません。そこで、さっそく、ネット情報でこれらの絵画等の作者を調べてみました。
今回、タゴの配偶者から損害賠償の一部に充当のため、安中市・公社に寄附された絵画等は、次のとおりです。
1/絵画/作者:立川広巳 作品名:薔薇の中で/価格不明
2/絵画/作者:浅井忠 作品名:山間の部落/価格不明
3/絵画/作者:萬鉄五郎 ※サイン有り、その他黒字有り/価格不明
4/絵画/作者:高橋由一 作品名:風景/価格不明
5/絵画/作者:林武 ※日動画廊社長サイン有り/価格不明
6/版画/作者:東洲斉写楽/価格不明
◆立川広巳(たちかわ・ひろみ)作品名「薔薇の中で」(1949~ )
東京生まれ。自由美術協会会員、日本美術家連盟会員。経歴は、1972年、武蔵野美術大学卒業。1985年、上野の森絵画大賞佳作賞、上野の森美術館「時の停止」F80号が買上げとなる。フジテレビ「朝のテレビ美術館」作品紹介。1990年、自由美術展佳作賞。1991年、現代洋画精鋭選抜展第20回記念大展金賞。1993年、安井賞展出品。1994年、全国花の大賞展招待出品。1995年、「華宴」(F150号)が通産省に買上げられる。ヨーロッパ、北京など取材旅行5回、新宿伊勢丹他全国主要デパートにて個展多数。
華麗な花々をメインモチーフとして描き続けてきた画家。薔薇、ミモザ、桜など花の絵を中心に、風や光を表現した風景作品が人気を博している。「一枚の絵」という月刊美術誌や各地デパート画廊などの個展で知られる。ただし、タゴが購入後、横領事件発覚で知人に預けた1995年当時も、売れっ子画家だったのかは定かでない。
◆浅井忠(あさい・ちゅう)作品名「山間の部落」(1856~1907)
佐倉藩の江戸屋敷生まれ。明治期の洋画家。日本近代洋画の先駆者として極めて大きな功績を残した。教育者としても貢献した。
浅井自身は明治40年(1907)に志半ばで病没したが、彼はその晩年に第一回文展の審査員を務め、自ら『武士山狩図』(京都工芸繊維大学蔵)を出品。また、自らのデザインした図案を使った陶器類を扱う「九雲堂」も開くなど、最期まで精力的な活動を行った。
出身地の千葉県立美術館では、昭和49年の開館以来、浅井忠について重点的な調査研究と作品収集を行い、現在までに油彩、水彩、日本画、工芸などの作品約180点をはじめ、下絵や書簡などの資料も数多く収蔵し、名実ともに日本有数の浅井忠コレクションを形成している。
代表作は「春畝」「収穫」「グレーの秋」など抒情的な作品が多く残されている。
◆萬鉄五郎(よろず・てつごろう)(1885~1927)
1885年11月17日、岩手県花巻市生まれ。大正~昭和初期の画家。フォーヴィスム、キュビスムの日本美術史上重要な作品を残し、新しい独自の美術を目指した。
明治40年(1907年)、東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学。明治45年(1912年)、岸田劉生や高村光太郎らの結成したフュウザン会に参加している。萬は、その頃日本に紹介されつつあった、ポスト印象派やフォーヴィスムの絵画にいち早く共鳴した。特にフィンセント・ファン・ゴッホやアンリ・マティスらの影響が顕著である。黒田清輝らのアカデミックな画風が支配的であった日本洋画界に、当時の前衛絵画であったフォーヴィスムを導入した先駆者として、萬の功績は大きい。晩年は日本画の制作や南画の研究も行った。
代表作は、「裸体美人」(1912年)東京国立近代美術館、重要文化財。「もたれて立つ人」東京国立近代美術館。「赤い目の自画像」(1912~13年)岩手県立美術館。「雲のある自画像」(1912~13年)岩手県立博物館。「落曙・荷車ひきのいる風景」(1914年)桜地人館。「目のない自画像」(1915年)岩手県立博物館。「猿ヶ石川当楽図」(1918年)桜地人館。
生家の花巻市に萬鉄五郎記念美術館がある。
◆高橋由一(たかはし・ゆいち)作品「風景」(1828~1894)
江戸生まれの日本の洋画家。幼名は猪之助、名は浩、明治維新後に由一を名乗る。近世にも洋画や洋風画を試みた日本人画家は数多くいたが、由一は本格的な油絵技法を習得し江戸後期から明治中頃まで活躍した、日本で最初の「洋画家」といえる。
父は新陰流剣術師範の佐野藩(佐倉堀田藩の支藩)士で、由一は江戸藩邸に生まれた。幼児の頃から日本画(狩野派、北宗画)を学ぶが、石版画に接して強い衝撃を受けて洋画の研究を決意。文久2年(1862年)に蕃書調所の画学局に入局し、川上冬崖に師事した。本格的に油彩を学ぶことができたのは、慶応2年(1866年)、当時横浜に住んでいたイギリス人ワーグマンに師事したときで翌年にはパリ万国博覧会へ出展している。
明治時代に入り民部省の吏生や大学南校の画学教官など官職を務めるが明治6年(1873年)には官職を辞して画塾である天絵舎を創設し、原田直次郎や高橋源吉ら多くの弟子を養成する。1876年には工部美術学校教師として来日したイタリア人画家アントニオ・フォンタネージに師事する。
1879年に金刀比羅宮で開かれた第2回琴平山博覧会では天絵舎に資金援助してもらうため作品を出品し、会期終了後に全作品を金刀比羅宮に奉納した。そのため金刀比羅宮は由一の作品を27点収蔵しており、現在は高橋由一館に展示されている。
人物、風景などの作品もあるが代表作として筆頭に挙げるべきは『鮭』であろう。極端に縦長の画面に縄で吊るされ、なかば身を欠き取られた鮭のみを描いたこの作品は西洋の模倣ではない文字通り日本人の油絵になっていると評されている。1879年には元老院の依頼で明治天皇の肖像も描いた。
1881年より山形県令であった三島通庸の要請により、三島の行った数々の土木工事の記録画を描いている。代表的なものとして『栗子山隧道図西洞門』がある。回想記に『高橋由一履歴』がある。洋画家の安藤仲太郎は甥。
その他代表作は「花魁」(1872年)(東京芸術大学、重要文化財)。「不忍池」(1880年頃)(愛知県美術館)。
◆林武(はやし・たけし)(1896~1975)
日本の洋画家。東京都出身。本名は武臣(たけおみ)。大正末期から画家として活動を始め戦後には原色を多用し絵具を盛り上げた手法で女性や花、風景などを描き人気を得た。林武の絵画には岸田劉生、セザンヌ、モディリアーニ、ピカソ、マティス、ビュッフェなどの影響が見られる。晩年には国語問題審議会の会長も務めている。孫は前衆議院議員の林潤。
サインは「Takeshi・H」、「Take・H」と記すことが多い。林が戦後に獲得した豪華絢爛な作風は多くのファン層を取り込み、1950年代から1960年代にかけて起こった投機的絵画ブームに乗ったこともあり、一時期は号あたり20万という高値で取引されるようになった。彼が晩年に多く描いたバラや富士山の絵画は今も人気が高いが、一方で代表作とされる「梳る女」(1949年)や「静物」(1948年)などが描かれた1940年代から50年代にかけての時期が林の黄金期であったとする見方もある。林武の作品は「大原美術館」や「東京国立近代美術館」などで鑑賞することができる。
代表作は「裸婦」(1930年)兵庫県立美術館。「鰯と人参」(1930年)倉吉博物館。「コワヒューズ」(1935年)東京国立近代美術館。「裸婦」(1935年)東京藝術大学大学美術館。「梳る女」(1949年)大原美術館。「星女嬢」(1950年)宮城県美術館。「十和田湖」(1953年)国立公園協会。「ノートルダム」(1960年)愛知県美術館。「赤富士」(1967年)箱根彫刻の森美術館。「薔薇」(1971年)セキ美術館ほか。
◆東洲斎写楽(とうしゅうさい しゃらく)(生没年不詳)
江戸時代の浮世絵師。寛政6年(1794年)から翌年にかけて、およそ10ヶ月の期間内に約140点の錦絵作品を出版した後、浮世絵の分野から姿を消した。特に第1期と言われる寛政6年5月作の28枚が秀逸である。その正体については様々な推測がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(1761,2-1820年?)だとする説が有力となっている。
寛政6年5月に刊行された役者の大首絵は、大胆かつ巧みにデフォルメを駆使し、目の皺や鷲鼻、受け口など顔の特徴を誇張してその役者が持つ個性をありのままに描き、また表情やポーズもダイナミックに描いたそれまでになかったユニークな作品であった。描かれた役者(画中に家紋がある)・役柄から芝居の上演時期が検証されており、これが現在の写楽研究の主流を為している。
作品総数は役者絵が134枚。役者追善絵が2枚。相撲絵が7枚。武者絵が2枚。恵比寿絵が1枚。及び役者版下絵が9枚。相撲版下絵が10枚存在する。2008年にほぼ確実とみられる肉筆の役者絵も確認された。
ドイツの美術研究家ユリウス・クルトがレンブラント、ベラスケスと並ぶ世界三大肖像画家と激賞したことがきっかけで("Sharaku" 1910年)、大正時代頃から日本でもその評価が高まった。
■また、林武の絵画に日動画廊社長のサインがあるとされています。この日動画廊は、銀座のソニービルの近くにある有名な画廊です。
◆日動画廊
日動画廊は1928年に創業、日本で最も歴史のある洋画商とされる。最初の画廊は日本橋の高島屋の近くでしたが、立ち退きをせまられ、旧日本動産火災保険会社の粟津社長の好意で敷金、家賃なしで西銀座の新築ビルの1階に日動画廊を出すことになる。日本動産火災が日動火災と呼ぶようになるのは、その後のこと。展示は主に洋画、版画、彫刻である。系列に茨城県の笠間日動美術館がある。ギャラリーは銀座にあり、毎年作家の個展を開催している。取り扱い作家は油彩、彫刻、版画を主に、内外の物故・現役作家あわせて数百名になる。
油彩、彫刻、版画を主に、 内外の物故・現存あわせてその取り扱い作家は数百名に及ぶ。国内において財団を設立し美術館を運営している数少ない画廊。1942年には熊谷守一画集、次いで藤島武二、藤田嗣治などの画集を出版、以降数多くのカタログや大型画集などを出版。1966年には昭和会展をスタートし、若手作家の育成にも注力。さらに2002年には現代美術を専門に扱う画廊としてnichido contemporary art(nca)を設立。現在、社長を務める長谷川徳七は元全国美術商連合会会長、及び元全国洋画商連盟会長を歴任し、また副社長を務める長谷川智恵子は日本洋画商協同組合の理事長を14年間勤めた。両名ともフランス政府より日仏文化交流に貢献したことで勲章を授与されている。
責任ある作品の供給を果たすことを目的に、美術品登録委員会を設置。東京・銀座の本店をはじめとして、名古屋、福岡、パリに日動画廊の支店を持ち、国内外を問わず現代の美術界の最新動向を幅広く収集しコレクターの信頼できるパートナーとして活動している。
銀座ギャラリー:東京都中央区銀座5-3-16 Tel:03-3571-2553 Fax:03-3289-4446 営業時間:平日10時-19時 土日祝11時-18時 最終日は16時まで。
■こうしてみると、それなりの高名な画家の作品であることが分かりますが、タゴの配偶者は、X氏から「タゴから預かっていたので返す」といわれた絵画等6点を、「公社で引き取って処分し、夫(タゴ)の損害賠償金に充ててほしい。ただし本物かどうか不明」などと言って、公社に押し付けてきており、非常に無責任です。
さらに無責任なのは、安中市土地開発公社の3役(岡田理事長、鳥越副理事長、大沢常務理事)らです。なぜなら、タゴの配偶者からの現物支給の電話を受けて、本物かどうか分からない代物を二つ返事で「引き取る」などと返事をしたうえに、絵画等を引き取るための準備として、タゴ配偶者宅を訪問し、絵画等を預かる際に提出していただきたい書類について懇切丁寧に説明したうえ、タゴとタゴ配偶者の署名・押印を依頼したからです。
なぜなら、タゴの配偶者が岡田市長あてに出した文書というのは、予め岡田理事長らが文案を作成して、それにタゴとタゴ配偶者の署名・押印をさせるためだったからです。その文案の中には「金額については不明であり、換価方法については一任する」という記載があります。初めから、タゴ事件の真相を隠蔽するために、絵画等6点でお茶を濁そうとする意図がありありとうかがえます。
しかも、極めつけは「この絵画等は平成22年4月12日、X様より、『A(タゴ)さんから預かったものであるのでお返しする。」として預かっているものであり、B(タゴ配偶者)の資産では無く、A(タゴ)の資産であることを申し添えます』とあることです(括弧内は当会の推測)。つまり、今回のタゴ夫妻からの現物支給の申し入れやそれに対する安中市・公社側の対応は、従前に練られたシナリオに基づいて行われている可能性が高いことを示しています。
■それにしても、群馬県警捜査二課があれほど総力を挙げて調べ、タゴの隠し財産はひとつもないはずだというところまで捜査したはずでした。しかし、事件発覚から15年経過し、タゴが晴れてシャバに出るやいなや、こうした不思議な現象が起きるのはなぜでしょうか。
しかも、安中市の言い草は、「タゴはムショでの務めを果たしてきたのだから、一人の市民として人格が復権したのだから、個人情報として黒塗りにした」というのです。さらに、X氏についても、黒塗りにしています。
警察が、まだタゴの隠し財産があったことを知ったらどう思うでしょうか。タゴは警察の調べに対しても、横領金で買ったものは全て供述しているはずで、タゴの配偶者も、全財産をなげうっても償いたい、と裁判所で裁判長に殊勝に陳述していました。
■しかし、実際には、そうではなかったのです。タゴの配偶者がいうように、X氏がタゴから絵画等を預かっていたのが事実であるとすれば、共犯の疑いもあります。タゴ一族も安中市・公社も口を揃えて「本件はもう既に時効」と言い張るのでしょうが、警察がいくら調べてもわからなかった使途不明金の部分が今回、ごく一部ながら明るみに出たと考えれば、事は重大です。
安中市・公社は、このX氏の情報も市民に公開すべきです。もちろん、刑事責任は時効のため争えないでしょうが、道義的に、なぜタゴから絵画等を預かっていたのか、なぜ警察に届けなかったのか。それらの説明をしていただく必要があるからです。
【ひらく会情報部・この項つづく】
たまたま、7月25日(日)に安中市内で新聞折込された共産党のチラシに、この件に関連して、次の記事が掲載されています。
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本物なら数億円になる?
土地開発公社詐欺事件
六月議会全員協議会で、土地開発公社から五十一億円をだまし取った元職員の妻が、このほど弁償の一部に当てて欲しいと絵画六点を市に持ち込んだことが報告されました。
これらの絵画が、なぜ今まで隠されていたのか、また、弁償というなら本人がお金に換えてから公社に弁済すべきですが問題は残ります。
もしも本物ならば約四億円(日本共産党安中市議団試算)の価値があるようですが、総務部では偽者かどうか鑑定が必要としています。作者の名前は、東洲斎写楽、高橋由一、浅井忠(ちゆう)、萬鉄五郎、林武、立川広巳などとなっており、立川氏は現存する現代洋画家ですが他は全て故人です。
(出典:新あんなか民報 第18号 2010年7月25日発行)
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共産党が約4億円の価値があるとした根拠は不明ですが、タゴ一族からの絵画等6点寄贈で4億円?換価できたとしても、群馬銀行への100年ローン返済の原資としては焼け石に水です。
■ところで、タゴの配偶者から現物支給された絵画等6点とは一体どんなものなのでしょうか。今回開示された情報では、絵画等の写真が含まれていないため、どのような絵柄なのかは分かりません。そこで、さっそく、ネット情報でこれらの絵画等の作者を調べてみました。
今回、タゴの配偶者から損害賠償の一部に充当のため、安中市・公社に寄附された絵画等は、次のとおりです。
1/絵画/作者:立川広巳 作品名:薔薇の中で/価格不明
2/絵画/作者:浅井忠 作品名:山間の部落/価格不明
3/絵画/作者:萬鉄五郎 ※サイン有り、その他黒字有り/価格不明
4/絵画/作者:高橋由一 作品名:風景/価格不明
5/絵画/作者:林武 ※日動画廊社長サイン有り/価格不明
6/版画/作者:東洲斉写楽/価格不明
◆立川広巳(たちかわ・ひろみ)作品名「薔薇の中で」(1949~ )
東京生まれ。自由美術協会会員、日本美術家連盟会員。経歴は、1972年、武蔵野美術大学卒業。1985年、上野の森絵画大賞佳作賞、上野の森美術館「時の停止」F80号が買上げとなる。フジテレビ「朝のテレビ美術館」作品紹介。1990年、自由美術展佳作賞。1991年、現代洋画精鋭選抜展第20回記念大展金賞。1993年、安井賞展出品。1994年、全国花の大賞展招待出品。1995年、「華宴」(F150号)が通産省に買上げられる。ヨーロッパ、北京など取材旅行5回、新宿伊勢丹他全国主要デパートにて個展多数。
華麗な花々をメインモチーフとして描き続けてきた画家。薔薇、ミモザ、桜など花の絵を中心に、風や光を表現した風景作品が人気を博している。「一枚の絵」という月刊美術誌や各地デパート画廊などの個展で知られる。ただし、タゴが購入後、横領事件発覚で知人に預けた1995年当時も、売れっ子画家だったのかは定かでない。
◆浅井忠(あさい・ちゅう)作品名「山間の部落」(1856~1907)
佐倉藩の江戸屋敷生まれ。明治期の洋画家。日本近代洋画の先駆者として極めて大きな功績を残した。教育者としても貢献した。
浅井自身は明治40年(1907)に志半ばで病没したが、彼はその晩年に第一回文展の審査員を務め、自ら『武士山狩図』(京都工芸繊維大学蔵)を出品。また、自らのデザインした図案を使った陶器類を扱う「九雲堂」も開くなど、最期まで精力的な活動を行った。
出身地の千葉県立美術館では、昭和49年の開館以来、浅井忠について重点的な調査研究と作品収集を行い、現在までに油彩、水彩、日本画、工芸などの作品約180点をはじめ、下絵や書簡などの資料も数多く収蔵し、名実ともに日本有数の浅井忠コレクションを形成している。
代表作は「春畝」「収穫」「グレーの秋」など抒情的な作品が多く残されている。
◆萬鉄五郎(よろず・てつごろう)(1885~1927)
1885年11月17日、岩手県花巻市生まれ。大正~昭和初期の画家。フォーヴィスム、キュビスムの日本美術史上重要な作品を残し、新しい独自の美術を目指した。
明治40年(1907年)、東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学。明治45年(1912年)、岸田劉生や高村光太郎らの結成したフュウザン会に参加している。萬は、その頃日本に紹介されつつあった、ポスト印象派やフォーヴィスムの絵画にいち早く共鳴した。特にフィンセント・ファン・ゴッホやアンリ・マティスらの影響が顕著である。黒田清輝らのアカデミックな画風が支配的であった日本洋画界に、当時の前衛絵画であったフォーヴィスムを導入した先駆者として、萬の功績は大きい。晩年は日本画の制作や南画の研究も行った。
代表作は、「裸体美人」(1912年)東京国立近代美術館、重要文化財。「もたれて立つ人」東京国立近代美術館。「赤い目の自画像」(1912~13年)岩手県立美術館。「雲のある自画像」(1912~13年)岩手県立博物館。「落曙・荷車ひきのいる風景」(1914年)桜地人館。「目のない自画像」(1915年)岩手県立博物館。「猿ヶ石川当楽図」(1918年)桜地人館。
生家の花巻市に萬鉄五郎記念美術館がある。
◆高橋由一(たかはし・ゆいち)作品「風景」(1828~1894)
江戸生まれの日本の洋画家。幼名は猪之助、名は浩、明治維新後に由一を名乗る。近世にも洋画や洋風画を試みた日本人画家は数多くいたが、由一は本格的な油絵技法を習得し江戸後期から明治中頃まで活躍した、日本で最初の「洋画家」といえる。
父は新陰流剣術師範の佐野藩(佐倉堀田藩の支藩)士で、由一は江戸藩邸に生まれた。幼児の頃から日本画(狩野派、北宗画)を学ぶが、石版画に接して強い衝撃を受けて洋画の研究を決意。文久2年(1862年)に蕃書調所の画学局に入局し、川上冬崖に師事した。本格的に油彩を学ぶことができたのは、慶応2年(1866年)、当時横浜に住んでいたイギリス人ワーグマンに師事したときで翌年にはパリ万国博覧会へ出展している。
明治時代に入り民部省の吏生や大学南校の画学教官など官職を務めるが明治6年(1873年)には官職を辞して画塾である天絵舎を創設し、原田直次郎や高橋源吉ら多くの弟子を養成する。1876年には工部美術学校教師として来日したイタリア人画家アントニオ・フォンタネージに師事する。
1879年に金刀比羅宮で開かれた第2回琴平山博覧会では天絵舎に資金援助してもらうため作品を出品し、会期終了後に全作品を金刀比羅宮に奉納した。そのため金刀比羅宮は由一の作品を27点収蔵しており、現在は高橋由一館に展示されている。
人物、風景などの作品もあるが代表作として筆頭に挙げるべきは『鮭』であろう。極端に縦長の画面に縄で吊るされ、なかば身を欠き取られた鮭のみを描いたこの作品は西洋の模倣ではない文字通り日本人の油絵になっていると評されている。1879年には元老院の依頼で明治天皇の肖像も描いた。
1881年より山形県令であった三島通庸の要請により、三島の行った数々の土木工事の記録画を描いている。代表的なものとして『栗子山隧道図西洞門』がある。回想記に『高橋由一履歴』がある。洋画家の安藤仲太郎は甥。
その他代表作は「花魁」(1872年)(東京芸術大学、重要文化財)。「不忍池」(1880年頃)(愛知県美術館)。
◆林武(はやし・たけし)(1896~1975)
日本の洋画家。東京都出身。本名は武臣(たけおみ)。大正末期から画家として活動を始め戦後には原色を多用し絵具を盛り上げた手法で女性や花、風景などを描き人気を得た。林武の絵画には岸田劉生、セザンヌ、モディリアーニ、ピカソ、マティス、ビュッフェなどの影響が見られる。晩年には国語問題審議会の会長も務めている。孫は前衆議院議員の林潤。
サインは「Takeshi・H」、「Take・H」と記すことが多い。林が戦後に獲得した豪華絢爛な作風は多くのファン層を取り込み、1950年代から1960年代にかけて起こった投機的絵画ブームに乗ったこともあり、一時期は号あたり20万という高値で取引されるようになった。彼が晩年に多く描いたバラや富士山の絵画は今も人気が高いが、一方で代表作とされる「梳る女」(1949年)や「静物」(1948年)などが描かれた1940年代から50年代にかけての時期が林の黄金期であったとする見方もある。林武の作品は「大原美術館」や「東京国立近代美術館」などで鑑賞することができる。
代表作は「裸婦」(1930年)兵庫県立美術館。「鰯と人参」(1930年)倉吉博物館。「コワヒューズ」(1935年)東京国立近代美術館。「裸婦」(1935年)東京藝術大学大学美術館。「梳る女」(1949年)大原美術館。「星女嬢」(1950年)宮城県美術館。「十和田湖」(1953年)国立公園協会。「ノートルダム」(1960年)愛知県美術館。「赤富士」(1967年)箱根彫刻の森美術館。「薔薇」(1971年)セキ美術館ほか。
◆東洲斎写楽(とうしゅうさい しゃらく)(生没年不詳)
江戸時代の浮世絵師。寛政6年(1794年)から翌年にかけて、およそ10ヶ月の期間内に約140点の錦絵作品を出版した後、浮世絵の分野から姿を消した。特に第1期と言われる寛政6年5月作の28枚が秀逸である。その正体については様々な推測がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(1761,2-1820年?)だとする説が有力となっている。
寛政6年5月に刊行された役者の大首絵は、大胆かつ巧みにデフォルメを駆使し、目の皺や鷲鼻、受け口など顔の特徴を誇張してその役者が持つ個性をありのままに描き、また表情やポーズもダイナミックに描いたそれまでになかったユニークな作品であった。描かれた役者(画中に家紋がある)・役柄から芝居の上演時期が検証されており、これが現在の写楽研究の主流を為している。
作品総数は役者絵が134枚。役者追善絵が2枚。相撲絵が7枚。武者絵が2枚。恵比寿絵が1枚。及び役者版下絵が9枚。相撲版下絵が10枚存在する。2008年にほぼ確実とみられる肉筆の役者絵も確認された。
ドイツの美術研究家ユリウス・クルトがレンブラント、ベラスケスと並ぶ世界三大肖像画家と激賞したことがきっかけで("Sharaku" 1910年)、大正時代頃から日本でもその評価が高まった。
■また、林武の絵画に日動画廊社長のサインがあるとされています。この日動画廊は、銀座のソニービルの近くにある有名な画廊です。
◆日動画廊
日動画廊は1928年に創業、日本で最も歴史のある洋画商とされる。最初の画廊は日本橋の高島屋の近くでしたが、立ち退きをせまられ、旧日本動産火災保険会社の粟津社長の好意で敷金、家賃なしで西銀座の新築ビルの1階に日動画廊を出すことになる。日本動産火災が日動火災と呼ぶようになるのは、その後のこと。展示は主に洋画、版画、彫刻である。系列に茨城県の笠間日動美術館がある。ギャラリーは銀座にあり、毎年作家の個展を開催している。取り扱い作家は油彩、彫刻、版画を主に、内外の物故・現役作家あわせて数百名になる。
油彩、彫刻、版画を主に、 内外の物故・現存あわせてその取り扱い作家は数百名に及ぶ。国内において財団を設立し美術館を運営している数少ない画廊。1942年には熊谷守一画集、次いで藤島武二、藤田嗣治などの画集を出版、以降数多くのカタログや大型画集などを出版。1966年には昭和会展をスタートし、若手作家の育成にも注力。さらに2002年には現代美術を専門に扱う画廊としてnichido contemporary art(nca)を設立。現在、社長を務める長谷川徳七は元全国美術商連合会会長、及び元全国洋画商連盟会長を歴任し、また副社長を務める長谷川智恵子は日本洋画商協同組合の理事長を14年間勤めた。両名ともフランス政府より日仏文化交流に貢献したことで勲章を授与されている。
責任ある作品の供給を果たすことを目的に、美術品登録委員会を設置。東京・銀座の本店をはじめとして、名古屋、福岡、パリに日動画廊の支店を持ち、国内外を問わず現代の美術界の最新動向を幅広く収集しコレクターの信頼できるパートナーとして活動している。
銀座ギャラリー:東京都中央区銀座5-3-16 Tel:03-3571-2553 Fax:03-3289-4446 営業時間:平日10時-19時 土日祝11時-18時 最終日は16時まで。
■こうしてみると、それなりの高名な画家の作品であることが分かりますが、タゴの配偶者は、X氏から「タゴから預かっていたので返す」といわれた絵画等6点を、「公社で引き取って処分し、夫(タゴ)の損害賠償金に充ててほしい。ただし本物かどうか不明」などと言って、公社に押し付けてきており、非常に無責任です。
さらに無責任なのは、安中市土地開発公社の3役(岡田理事長、鳥越副理事長、大沢常務理事)らです。なぜなら、タゴの配偶者からの現物支給の電話を受けて、本物かどうか分からない代物を二つ返事で「引き取る」などと返事をしたうえに、絵画等を引き取るための準備として、タゴ配偶者宅を訪問し、絵画等を預かる際に提出していただきたい書類について懇切丁寧に説明したうえ、タゴとタゴ配偶者の署名・押印を依頼したからです。
なぜなら、タゴの配偶者が岡田市長あてに出した文書というのは、予め岡田理事長らが文案を作成して、それにタゴとタゴ配偶者の署名・押印をさせるためだったからです。その文案の中には「金額については不明であり、換価方法については一任する」という記載があります。初めから、タゴ事件の真相を隠蔽するために、絵画等6点でお茶を濁そうとする意図がありありとうかがえます。
しかも、極めつけは「この絵画等は平成22年4月12日、X様より、『A(タゴ)さんから預かったものであるのでお返しする。」として預かっているものであり、B(タゴ配偶者)の資産では無く、A(タゴ)の資産であることを申し添えます』とあることです(括弧内は当会の推測)。つまり、今回のタゴ夫妻からの現物支給の申し入れやそれに対する安中市・公社側の対応は、従前に練られたシナリオに基づいて行われている可能性が高いことを示しています。
■それにしても、群馬県警捜査二課があれほど総力を挙げて調べ、タゴの隠し財産はひとつもないはずだというところまで捜査したはずでした。しかし、事件発覚から15年経過し、タゴが晴れてシャバに出るやいなや、こうした不思議な現象が起きるのはなぜでしょうか。
しかも、安中市の言い草は、「タゴはムショでの務めを果たしてきたのだから、一人の市民として人格が復権したのだから、個人情報として黒塗りにした」というのです。さらに、X氏についても、黒塗りにしています。
警察が、まだタゴの隠し財産があったことを知ったらどう思うでしょうか。タゴは警察の調べに対しても、横領金で買ったものは全て供述しているはずで、タゴの配偶者も、全財産をなげうっても償いたい、と裁判所で裁判長に殊勝に陳述していました。
■しかし、実際には、そうではなかったのです。タゴの配偶者がいうように、X氏がタゴから絵画等を預かっていたのが事実であるとすれば、共犯の疑いもあります。タゴ一族も安中市・公社も口を揃えて「本件はもう既に時効」と言い張るのでしょうが、警察がいくら調べてもわからなかった使途不明金の部分が今回、ごく一部ながら明るみに出たと考えれば、事は重大です。
安中市・公社は、このX氏の情報も市民に公開すべきです。もちろん、刑事責任は時効のため争えないでしょうが、道義的に、なぜタゴから絵画等を預かっていたのか、なぜ警察に届けなかったのか。それらの説明をしていただく必要があるからです。
【ひらく会情報部・この項つづく】
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