坂本龍馬は、慶応3年(1867年)11月15日午後9時過ぎ(夜五ツ半)に暗殺されました。その日は、33歳の誕生日だった。これって、単なる偶然ですか?
龍馬暗殺の犯人は誰か?諸説ありますが、どれも決定的ではない。
1 新撰組説…これは、近藤勇は否定していたが、十分ありうる説。
2 高台寺党説…伊東甲子太郎(いとうかしたろう)が暗殺して、新撰組に罪をかぶせようとしたフシがあるが…?伊東は、新撰組の参謀だったが、抜けて高台寺党(御陵衛士と同じ)を結成した。龍馬暗殺の3日後、新撰組に暗殺された。龍馬暗殺と関係があったからなのか?
3 見廻組説…元見廻組員が龍馬を暗殺したと証言している。しかし、売名行為の疑惑あり。いるんだよなあ、こうゆう奴。見廻組は、龍馬の居場所を知らなかったと思うよ。
4 薩摩藩説…薩摩藩は、龍馬の居所を知っていた。高台寺党か見廻組か、さらには他の何者かにやらせた…。なぜ薩摩が?薩摩(西郷隆盛、木戸孝允、大久保利通)にとって、もっとも排除したかったのは、龍馬だったから。利用したあとは消す。
5 紀州藩説…海援隊は、紀州藩が龍馬暗殺の犯人と決めつけ、報復行動を起こした。失敗したけどね。紀州藩は、伊呂波丸号事件(龍馬が乗っていた伊呂波丸と、紀州藩の明光丸が衝突)で巨額の損害賠償金を龍馬側に支払った。その恨み…。
6 土佐藩説…中岡慎太郎が、「刺客は、こなくそ!(土佐の言葉で、この野郎)と言って斬りかかってきた(だから刺客は土佐藩)」と、言った…。
NHKの大河ドラマ「龍馬伝」では、上記の1~6を考慮しつつ、「暗殺の犯人は不明」にして終わらせていた。
何にでも首を突っ込みたいアンティークマンとしては、土佐藩説支持…となろうか…(アンティークマン説といってもいいかな)
<アンティークマンの視座>
誕生日に暗殺された…これは、偶然ではない。
龍馬をもっとも憎んでいた人物、そして龍馬が消えると名を成せる人物…それは、後藤象二郎(本名:象次郎)。理由は…
1 義理の叔父「吉田東洋」の暗殺に関わって、龍馬を憎んでいた。この恨みは消えません。仇を時代の英雄にしてはいけません。消すしかなかった。
2 「上士と下士の関係を無視した龍馬」を憎んでいた。時代が変わりつつあるとはいえ、上士と下士の関係を無にすることなどできない。
3 龍馬を葬れば、「船中八策」の手柄は、自分のもの…。後藤は、山内容堂には、船中八策が龍馬の発案であることを告げていない。容堂は、後藤の発案だと思っていた。バレたら失脚。龍馬には生きていてもらいたくなかった。
4 命令で忠実に動く刺客を持っていた。後藤は、土佐藩士以外にも、薩摩の示現流の使い手を手配できる状況にあった(西郷、木戸、大久保らにそれとなく話を向ければ、ほくそ笑んで刺客を出してくれる)。また、新撰組の近藤勇との交友関係も知られていた。
5 龍馬の居場所を知っていた。(後藤と西郷らしか知らなかった)
後藤は、中岡慎太郎に、「京都河原町の近江屋井口新助邸に龍馬がいるから、訪ねてゆっくり酒を酌み交わしたらいいんじゃないの。今日は、龍馬の誕生日だから、考えが敵対するおぬし(中岡)でも警戒せずに部屋へ入れるだろう」と…。
中岡は、後藤が何を企んでいるかは察知したが、命令に従った。そして後藤は近江屋へ刺客を送った。差し向けられた刺客は複数人いたが、部屋へ切り込んだのは1人。なぜ1人か?狭い室内で、しかも真っ暗闇(行燈は、真っ先に消される)、複数人が切り込むと同士討ちになるから。狭い室内の場合、正眼(正しくは青眼)に構えたのでは、振り上げるときに天井に刀が刺さってしまう。示現流(薩摩の流儀)が有効(構えが、はじめから低く振りかぶっているので、振り下ろすだけ)。そんなわけで、刺客は示現流だと思う。そうなると、「こなくそ!」の説明をしなければならない。刺客候補の、薩摩藩士、土佐藩士らは数日前から近江屋の下見等で同一行動をとっていた。土佐藩士が、何度も「こなくそ」を使うので、薩摩藩士も使うようになった。
中岡を斬ることは後藤の腹にはなかったが、暗闇で刀を振り回せば斬ってしまう。龍馬暗殺のあと岩崎弥太郎が口をつぐんだのも、黒幕が、後藤象二郎だと知ったから。
維新後、後藤は福沢諭吉と大の仲良しだった。その諭吉は、「後藤さんは、今の政府の現状を変え、諸悪をはらい清める『非常大胆の豪傑、満天下唯一の人物』だ」と、最大級の賛辞をおくっている。
後藤象二郎は、「和戦両様」上手に使い分けができる人物だったということ。
龍馬暗殺の犯人は誰か?諸説ありますが、どれも決定的ではない。
1 新撰組説…これは、近藤勇は否定していたが、十分ありうる説。
2 高台寺党説…伊東甲子太郎(いとうかしたろう)が暗殺して、新撰組に罪をかぶせようとしたフシがあるが…?伊東は、新撰組の参謀だったが、抜けて高台寺党(御陵衛士と同じ)を結成した。龍馬暗殺の3日後、新撰組に暗殺された。龍馬暗殺と関係があったからなのか?
3 見廻組説…元見廻組員が龍馬を暗殺したと証言している。しかし、売名行為の疑惑あり。いるんだよなあ、こうゆう奴。見廻組は、龍馬の居場所を知らなかったと思うよ。
4 薩摩藩説…薩摩藩は、龍馬の居所を知っていた。高台寺党か見廻組か、さらには他の何者かにやらせた…。なぜ薩摩が?薩摩(西郷隆盛、木戸孝允、大久保利通)にとって、もっとも排除したかったのは、龍馬だったから。利用したあとは消す。
5 紀州藩説…海援隊は、紀州藩が龍馬暗殺の犯人と決めつけ、報復行動を起こした。失敗したけどね。紀州藩は、伊呂波丸号事件(龍馬が乗っていた伊呂波丸と、紀州藩の明光丸が衝突)で巨額の損害賠償金を龍馬側に支払った。その恨み…。
6 土佐藩説…中岡慎太郎が、「刺客は、こなくそ!(土佐の言葉で、この野郎)と言って斬りかかってきた(だから刺客は土佐藩)」と、言った…。
NHKの大河ドラマ「龍馬伝」では、上記の1~6を考慮しつつ、「暗殺の犯人は不明」にして終わらせていた。
何にでも首を突っ込みたいアンティークマンとしては、土佐藩説支持…となろうか…(アンティークマン説といってもいいかな)
<アンティークマンの視座>
誕生日に暗殺された…これは、偶然ではない。
龍馬をもっとも憎んでいた人物、そして龍馬が消えると名を成せる人物…それは、後藤象二郎(本名:象次郎)。理由は…
1 義理の叔父「吉田東洋」の暗殺に関わって、龍馬を憎んでいた。この恨みは消えません。仇を時代の英雄にしてはいけません。消すしかなかった。
2 「上士と下士の関係を無視した龍馬」を憎んでいた。時代が変わりつつあるとはいえ、上士と下士の関係を無にすることなどできない。
3 龍馬を葬れば、「船中八策」の手柄は、自分のもの…。後藤は、山内容堂には、船中八策が龍馬の発案であることを告げていない。容堂は、後藤の発案だと思っていた。バレたら失脚。龍馬には生きていてもらいたくなかった。
4 命令で忠実に動く刺客を持っていた。後藤は、土佐藩士以外にも、薩摩の示現流の使い手を手配できる状況にあった(西郷、木戸、大久保らにそれとなく話を向ければ、ほくそ笑んで刺客を出してくれる)。また、新撰組の近藤勇との交友関係も知られていた。
5 龍馬の居場所を知っていた。(後藤と西郷らしか知らなかった)
後藤は、中岡慎太郎に、「京都河原町の近江屋井口新助邸に龍馬がいるから、訪ねてゆっくり酒を酌み交わしたらいいんじゃないの。今日は、龍馬の誕生日だから、考えが敵対するおぬし(中岡)でも警戒せずに部屋へ入れるだろう」と…。
中岡は、後藤が何を企んでいるかは察知したが、命令に従った。そして後藤は近江屋へ刺客を送った。差し向けられた刺客は複数人いたが、部屋へ切り込んだのは1人。なぜ1人か?狭い室内で、しかも真っ暗闇(行燈は、真っ先に消される)、複数人が切り込むと同士討ちになるから。狭い室内の場合、正眼(正しくは青眼)に構えたのでは、振り上げるときに天井に刀が刺さってしまう。示現流(薩摩の流儀)が有効(構えが、はじめから低く振りかぶっているので、振り下ろすだけ)。そんなわけで、刺客は示現流だと思う。そうなると、「こなくそ!」の説明をしなければならない。刺客候補の、薩摩藩士、土佐藩士らは数日前から近江屋の下見等で同一行動をとっていた。土佐藩士が、何度も「こなくそ」を使うので、薩摩藩士も使うようになった。
中岡を斬ることは後藤の腹にはなかったが、暗闇で刀を振り回せば斬ってしまう。龍馬暗殺のあと岩崎弥太郎が口をつぐんだのも、黒幕が、後藤象二郎だと知ったから。
維新後、後藤は福沢諭吉と大の仲良しだった。その諭吉は、「後藤さんは、今の政府の現状を変え、諸悪をはらい清める『非常大胆の豪傑、満天下唯一の人物』だ」と、最大級の賛辞をおくっている。
後藤象二郎は、「和戦両様」上手に使い分けができる人物だったということ。