幼かったころの記憶や 若かったときの記憶はどうやってしまわれていて
思い起こすのはどんな経路をたどるのでしょう。
年老いて今のことはすぐ忘れるのに 昔の人の名前は覚えていたり 農作業は上手にできたりするものです。
実は 核になる経験や 体験を ことあるごとに繰り返しつなげて 書き足しているのかもしれません。
パソコンで記事を書いて記憶しておきたくても せいぜい10年もすると 企業側から疎まれ 移動や置き換えをせまられて そのうちごみとなって消えるのです。
一方 60年もの間 人の記憶は 風景や声や音を イメージで思い起こすことができます。
いつも作り変えられているはずの60年後の体でイメージが再現できているのが 不思議でなりません。
そして記憶は 必要な時や きっかけのようなものを得ると 自分を助けるように思い起こすのです。いや自分を壊すことに働くこともあるのでしょう。
父親のひげをなでながら ちらりと視線を向けるしぐさが イメージで見えますし
ヤギの自分を見る様子が 土手の石畳と草むらと共に 匂いも一緒に思い起こすことができます。この熱効率のよさは 半端ではないはずです。
コミュニケーションが苦手な人が 一日のうちの一定の時間を割いて 空き缶やごみ拾いをしてくれています。その人とは 話したことも 目を合わせたこともないのですが
我が家の駐車場のごみも たいていは拾ってくれます。
ところが 以前 クリスマスの時期にシャンプーの空き瓶を飾りとして利用したことがありました。どうも そのことを 覚えてくれているようです。
最近同じシャンプーの空き瓶を 花壇の縁取りに使うため転がしていました。
本来ならごみですから 拾ってくれるはずですが 乱雑におかれているのにもかかわらず 落ちたままになっていて そっとしておいてくれています。
これは 本当のコミュニケーションが 話はしないが 実際できているということだと思います。
一方 姑とのコミュニケーションは 言葉の上では 誤解が誤解を生み 互いにゆがんだままです。記憶に基づいて お互いを批判の方向で思い起こしているということなのでしょう。話をしてきていても 共感していなかったがために お互いのコミュニケーションはバラバラなままだったということのでしょう。
しかし 実は 姑が言葉にしていることは 本当の気持ちを表しているのではないかもしれないと 思い始めました。
いままでどおりの言葉を発して 年老いたわたしの面倒をみてくれないと非難しているのですが 実は今まで通り 面倒を見てくれないと非難できている自分を 再確認しているのかもしれないと思うようになりました。
なぜなら 本当に面倒を見にいけば 無くなったものが私のせいだといい
いつもと違うものが存在すれば 自分のものではないから 置いてはいけないといい
してほしいことを進言したりすれば ヘント返しすると言い始め
料理を作ろうとすれば そんなものは食べられないしいらないというのです。
手伝ったり 手を差しのべようとすると 戸惑って腹を立てだすんです。
実のところ 今のところ 思うようにすごして 思い付くことを発言して過ごせているのです。
そして 面倒を見てもらうようになるのは もう一年後だと 毎年言い続けて もう
少なくとも20年にはなるのです。
で 私の判断は 大きな失敗が始まるまで 現状維持で行くことにします。
ありがたいし 立派なものです。