
堀川の唐戸水門










唐戸水門は、約400年前に遠賀川の洪水防止と水運、
かんがい対策に造られた堀川運河の、本流からの注水口として築造された水門である。
当時、遠賀川は天井川であるうえ、満潮時には現在の直方市付近まで潮があがっていた。
遠賀川は大雨のたびに氾濫を繰り返していたため、
元和7年 ( 1621年 ) に黒田藩主長政が家老の栗山大膳に命じ、
遠賀川の水を分けて洞海湾に注ぐ運河の掘削工事を始めた。
だが、黒田長政の死去で2年間中止されたが、寛延3年 ( 1750年 ) に再開し、
難工事のすえ車返し(現・水巻町)の切り貫きを宝暦7年 ( 1757年 ) に貫通。
さらに則松川 ( 現・金山川 ) とつなぎ、宝暦12年 ( 1762年 )に洞海湾までの12.5kmが完成した。
これを当時の家老 ( 栗山大膳 ) の名を取って 「 大膳堀 」 とも呼んでいた。
水門は、まず堀川の上に家屋の中間部を設け、川の両岸の岩盤に石の樋を取り付け、
天井石と呼ばれる石を渡し、その上に上屋を設けている。
水をせき止める板戸 ( 幅3m ) は、石の樋にはめて、人力で巻き上げる鳥居巻で上下させていた。
川幅は約6m、上屋基礎までの高さ3.4m、上屋は幅3.9m、奥行き4.9mで、
川を跨いで倉庫が建っている形である。
この水門工事は、遠賀川から仮通水のさい、水門が水勢で役に立たなかった。
このため、地盤の固い惣社山に現在の現在の唐戸水門をようやく造り上げたのである。
この時、地元の一田久作が備前の国 ( 現・岡山県 ) の吉井川の石唐戸の構造を研究し、
その技術を用いて見事に造り上げた。
運河は最初、藩米を運ぶために利用されていたが、
江戸末期から明治、大正にかけては、筑豊炭田の石炭輸送に貢献した。
その舟は川艜 ( かわひらた ) や五平太舟と呼ばれ、
最盛期には約7千隻によって、年間70万トンの石炭が若松まで運ばれていた。