「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

鹿児島県奄美大島 「 大山崎灯台 」

2014-02-09 05:40:41 | 奄美群島の灯台



真横から見るとドカンを立てたように見える








アンテナが撤去されスリムに見える







プレートは昭和51年の初点となっている







大山埼無線方位信号所と大山埼灯台







探訪の2ヵ月後に来てみると無線施設が無くなっていた







アンテナがあった頃の嶺山公園方面から見た灯台頂部







アンテナが撤去された灯台頂部







灯台の下にある大山埼灯台の説明板







アンテナがあった頃の単閃白光で毎5秒に1閃光の灯器







アンテナが撤去された灯器付近







円筒に扉の部分を引っ付けたようになっている







レーマークビーコンの説明板







大山埼無線方位信号所の表札







管理棟の外に立つレーマークビーコン







灯台がある場所は 「 嶺山公園 」 として整備されている








かつてこの場所は見張り番所であり、出稼ぎや出征兵士の安全を願う拝所であった





灯台表番号 / 6949
ふりがな / おおしまさきとうだい
標識名称 / 大山崎灯台
所在地 / 鹿児島県大島郡大和村 ( 大山埼 )
北緯 / 28-21-55
東経 / 129-20-28
塗色 / 白色
灯質 / 単閃白光 毎5秒に1閃光
光度 / 実効光度 5,600カンデラ
光達距離 / 12.5海里
地上~頂部の高さ / 10.06m
平均水面上~灯火の高さ / 188.37m 
地上~灯火の高さ / 9.6m
業務開始年月日 / 昭和51年3月18日
現用灯器 / LC管制器Ⅱ型


大山埼灯台は奄美大島の南西部にある大和村の海岸沿いに出た大山崎に立つ灯台である。
灯台は嶺山公園の海側にあり、灯台は一段低い場所にあるため
公園からは頂部付近が一番に目に入る。
そんな灯台は山にあるが、高さは10mとそんなに高くない。
ここは灯台単独ではなく、無線方位信号所・レーマークビーコンに隣接しているが、
19年の11月に訪れた時は無線方位信号所はあったが、
20年の1月20日に再度訪れた時は跡形も無くなっていた。


大山埼灯台へのアクセス
大山埼灯台へは、名瀬から県道79号線を大和村方面に進み、
大金久バス停を過ぎた峠にある嶺山公園を右に入った突き当たりに位置する。
駐車は県道沿いの嶺山公園入り口に駐車場がある。



福岡県行橋市 「 末松謙澄生誕之地 」

2014-02-09 05:39:41 |  滝 ・ 名所 ・ 神社仏閣



「 末松謙澄生誕之地 」の碑



















末松謙澄の生誕の地は、村上仏山が開いた私塾 「 水哉園 」 から
長峡川沿いを1キロほど下流に行った場所にある。
碑文揮毫は評論家の江藤 淳。
大きな石材はみやこ町犀川内垣で採れる御影石で建てられている。

末松謙澄は、明治大正時代の官僚,政治家。号は青萍。幼名は線松。
豊前国小倉藩京都郡前田村 ( 現・ 福岡県行橋市 ) の大庄屋・末松房澄・伸子の4男として生まれる。
村上仏山の水哉園で漢学を修め、明治4(1871)年上京し近藤真琴に学ぶ。
また高橋是清や黒田清隆、山県有朋などと出会い親交を深めた。
まもなく 『 東京日日新聞 』 の日報社に記者として入り、
社長の福地源一郎に認められ、社説の執筆者 ( 筆名・笹波萍二 ) に登用された。
明治8年、福地の紹介で伊藤博文の知遇を得、官界に転じた。
明治11年、英国公使館付となり渡英し、
ケンブリッジ大学在学中に日本の古典 『 源氏物語 』 を英訳、出版した ( 1882 ) 。
明治19年に帰国し、内務省参事官を経て県治局長。演劇改良会を組織し天覧劇を演出。
英国女流作家バーサ・クレイの小説を翻訳して 『 谷間の姫百合 』 を出版した。
門司築港株式会社の創立に、企救郡長津田維寧 ( 水哉園の同門 ) の要請で、
財界のドン渋沢栄一を口説き、中央財界から多額の資金を導入した。
明治22年伊藤博文の次女生子と結婚。第1回総選挙に福岡県から出馬し連続3期当選した。
法制局長官、貴族院議員を務め,逓信大臣,内務大臣を歴任。
日露戦争 ( 1904~05 ) 中は英国に駐在し戦時外交に尽くした。
帰国後,枢密顧問官。子爵。帝国学士院会員に挙げられた。
明治30年、毛利家歴史編輯所総裁を委嘱され、23年後に 『 修訂・防長回天史 』 12巻を脱稿した。
末松は再版緒言の中で 「 本書防長ノ二字ヲ冠スト雖モ、実ハ維新全史ト異ナラズ。
読者ノ幸ニ此見地ヨリ観察センコトヲ切望ス 」 と書いている。

1920年(大正9年)10月5日、スペイン風邪に罹患したことが原因で死去。


介護職員初任者研修 「 終末期介護 」

2014-02-09 05:38:41 | 介護関係








昨年の9月14日から毎週土曜日に行われている介護職員初任者研修も昨日で20回を消化した。
あと5回の研修で全て終了するが、この初任者研修から修了試験が採用される。
これは、これまでヘルパー2級時代には無かったものである。
予定されたカリキュラムを消化すれば良かったヘルパー2級の講座と違って、
試験があるだけに、どの受講生も真剣である。

前回まで6回にわたって行われた介護実技演習が終了し、
昨日の介護職員初任者研修の単元は、
こころとからだのしくみと生活支援技術という項目の中の
「 死にゆく人たちに関したこころとからだのしくみと終末期介護 」 についてだった。

その中で、 「 あなたが余命6か月と宣告れたらどうしますか? 」 の問いに、
「 自分だったら、行きたい場所に行き、逢いたい人に逢って、
食べたい物を食べ、悔いが残らないように過ごす。
そして自分が旅立った後に家族が困らないように身辺整理をし、
最期は家族に囲まれて天に旅立ちたい 」 と答えた。
さらに、 「 自分は介護支援をする立場になろうと思う人間であるが、
自分自身は人の手を煩わせるような介護を受けることなくコロリと逝けたらと思う 」 と、
付け加えた。



冬の朝と冬の海 「 今津漁港 」

2014-02-09 05:37:41 | 日記 ・ イベント



昨日の朝


















冬の海 「 今津漁港 」










7日に普天間基地からオスプレイが来るというので、
海側の滑走路まで様子を窺いに行くと、
天候が悪化したので 「 すべての訓練が中止 」 になったと訊いた。
その時の海の様子を動画に収めたので掲載した。

昨日の朝は5時過ぎに家を出ると、ちょうど雪が降り始めた。
微妙な降り方だったので、そのまま散歩に出たが、
瞬く間に路面が白く覆われた。
裏道は誰も通った形跡がないので、
サクサクと音を鳴らして僕とムサシの足跡をつけた。
振り返ってそれを見て、ちょっぴり優越感に浸った。