世界産業遺産候補 「 大牟田市 ・ 三井炭鉱宮原坑跡 」
宮原坑跡第二竪坑の巻揚機
宮原坑跡第二竪坑巻揚機室内部
宮原坑跡第二竪坑の排水管
宮原坑跡第二竪坑施設と鉄道敷跡
宮原坑は、七浦坑および宮浦坑の採炭が深部に至ったことで、
坑内排水の効率が悪化したことから、七浦坑の南870mの採炭区域内に設定した試錘の場所に、
新竪坑を開坑したことに始まります。
当初は、明治初期から官営三池炭鉱の操業開始以来、
旧来の主力坑であった大浦坑、七浦坑、宮浦坑等の命脈を伸ばすべく、
排水の用を兼ねる坑口としての役目が開さくの計画でした。
操業後は揚炭・入気・排水・人員昇降その他を兼ねる主力坑として
年間40~50万トンの出炭を維持しました。
第一竪坑は、明治28(1895)年2月に着工しました。
地下水の湧水により困難を極めましたが、明治30(1987)年3月に深度141mで着炭、
明治31(1898)年3月21日には、排水・揚炭のための坑外諸施設が完成し、出炭を開始しました。
第二竪坑は、明治32(1899)年6月11日から開さくに着手し、
明治33(1900)年10月に着炭(竪坑の深さ160m)、
明治34(1901)年11月には設備が完成しました。宮原坑はこの2つの坑口からなります。
第一竪坑は揚炭、入気、排水が主であり、
第二竪坑は人員昇降を主として、排気・排水・揚炭を兼ねる機能分担がされていました。
第一・第二竪坑ともに、当時世界最大級の馬力を誇ったイギリス製デビーポンプを2台ずつ備え、
当初の計画どおり七浦坑の排水難を解消しました。
さらに、その排水能力により、より深い場所での採炭が可能となりました。
この間にも、明治32(1899)年に汽缶(ボイラー)9基を増設、
さらに七浦坑から諸設備を本格的に宮原坑に移し整備を増強し、
第二竪坑開鑿時の明治34(1901)年には、50馬力蒸気巻揚機を設置し、
翌年明治35(1902)年に最初の電動扇風機である、チャンピオン扇風機を据え付けて、
排気を行いました。
採炭した石炭の運搬についても、坑口から選炭場にかけて、
大正13(1924)年にベルトコンベヤー(運炭機)を1台設置、翌年にも増設を行うなど、
出炭量増加に対する機械設備の拡充を順次おこなっていきました。
明治31(1898)年の出炭開始からすでに年間27万トンの出炭量を記録し、
明治41(1908)年には三池炭鉱(大浦坑、宮浦坑、万田坑、宮原坑)の中で、
宮原坑がもっとも出炭量が多く、三池炭鉱全体の28%(431,618トン)であり、
次いで万田坑が377,440トンでした。
大正期には最大で出炭量51万トンを超えるにまでなり、
明治から大正期を通じて平均して年間40万トンの出炭を維持しました。
しかし、昭和初期の恐慌、不況下において、
各炭鉱が坑口と稼行地域の整理統合などの合理化を進めていくことになります。
三池炭鉱でも、新たに四山坑、宮浦大斜坑からの採炭に中心が移り、
それまでの主力坑であった大浦坑、勝立坑、七浦坑とともに、
宮原坑も昭和6(1931)年に閉坑となりました。