江戸時代末期、大村藩から移住した潜伏キリシタンは、
奈留島の葛島をはじめ島内各地に3戸5戸と分かれて住み開墾に従事していました。
奈留島地区において潜伏キリシタンの移住が最も早かったのは葛島ですが、
やがて赤崎、矢神、汐池、永這、椿原、南越などにも住み着き、
小さな集落を形成していきました。
貧しいながらも信仰の強いきずなのもと、キリスト教の教えを根底にし、
助けあいながら生活が営まれていました。
明治元年の久賀の牢屋の窄殉教事件に端を発したいわゆる五島崩れの翌年、
葛島の信徒12戸が役所に呼び出され、当時の頭取(郷長)ら3人が算木責めを受けましたが、
奈留島ではこれ以上の迫害は伝えられていません。
明治6 (1873) 年に禁教が解かれ、
五島各地に教会が次々に建てられていきましたが、
当時奈留島と周辺地区には葛島と江上の2教会しかありませんでした。
信徒達は船でいずれかの教会に通うか、
宿輪、水の浦、汐池集落の民家に祭壇が設けられていたのでここでのミサに与かっていました。
大正15(1926)年、宿輪集落の信徒の代表が、
自分達の集落に教会を建てたいとの意向で当時の主任司祭に相談しました。
ところが主任司祭は、宿輪ではなく相ノ浦地区が望ましいとして計画変更を再三説得しました。
宿輪集落の信徒達は、最終的に主任司祭の意向を受け入れ、
現在教会が建っている相ノ浦の小さな丘の上に民家作りの教会を建てることにしました。
大正15(1926)年、建設資金の大部分を宿輪集落約20戸の信徒が負担し、
上五島の青方の大工に依頼して現在地に最初の教会が完成しました。
この教会は当初、集落の名前と同じ相ノ浦教会と呼ばれていました。
奈留教会と呼ばれるようになったのは昭和30年代に入ってからのことです。
当時の信徒数は172人との記録が残っています。
その後拡張工事も行われ、また風に弱く外から大きな丸太で何ヶ所も支えていましたが
昭和34(1959)年、台風時には持ちこたえることができないとの判断がなされ、
信徒の手で解体されました。
現在の教会は昭和36(1961)年に着工し、
同年12月14日山口大司教によって祝別・献堂されました。
奈留教会史に残る出来事の一つは昭和48(1973)年3月、
葛島の島民が集団で樫木山地区へ移転し、全員奈留教会の所属になったことです。
離島の離島である葛島での生活の維持が困難になったためでした。
葛島は奈留島地区の中で大村藩の潜伏キリシタンの移住が最も早く行われ、
百数十年にわたり熱心な信仰の歴史が刻まれた島ですが、
この集団移転により葛島教会は廃堂となり、もとの無人島に戻りました。
現在奈留教会に所属する信徒達は、高齢化が進む奈留島内の江上天主堂、
休止中の南越教会の信徒らと共に “ 3教会は一つの教会 ” との意識を持って
奈留教会のミサに参加する遠方の信徒の送迎奉仕や、
各教会の維持管理を助け合いながら行っています。
所在地 / 長崎県五島市奈留町395
教会の保護者 / 聖フランシスコ・ザビエル