


” 長州の誇りと伝統が息づく町並み ”
萩城下町は、徳川幕府との対立を経て天皇を中心とする
近代的統一国家の形成を主導した西南雄藩のひとつである
萩(長州)藩の政治的・経済的・文化的・軍事的な拠点でした。
1600(慶長5)年、西軍の総大将として関ヶ原の戦いに敗れた毛利輝元は、
それまでの領地中国地方8カ国112万石から、防長2カ国36万石に削封され、
1604(慶長9)年に萩の指月山に新たに居城を築くとともに、
並行して城下町の建設を進めました。
三角州上に形成された城下町は、
阿武川支流の橋本川と松本川に囲まれた総構をなしており、
都市的機能の整備は18世紀中ごろまで続きました。
萩城の城郭は、指月山頂に要害を配置し、
山麓部には天守閣のある本丸を中心に二の丸、三の丸を設け、
その間はそれぞれ内堀、中堀、外堀により区画されており、
現在もよくその旧態をとどめています。
外堀の内側の三の丸は上級武家地で、
外堀の外側には中・下級の武家屋敷や町屋、
寺院などがエリアに分かれて整然と配置されています。
当時の町割りが今も変わることなくよく残っており、
近世の封建社会がわかる典型的な町として現在に受け継がれています。
封建社会の様相を特によく残しているところは、
指月山と本丸、二の丸を含む 「 萩城跡 」 や武家屋敷や
豪商などの町屋が軒を連ねていた 「 萩城城下町 」 ( いずれも国指定史跡 )、
また、藩の重臣たちの邸宅が建ち並ぶ上級武家地(三の丸)「 堀内(ほりうち)地区 」
( 国選定重要伝統的建造物群保存地区 ) などです。