
国道3号線沿いに宮本武蔵の看板が設置されている
手向山 ( たむけやま ) 公園の一帯は、
今でこそ公園化されて市民の憩いの森として活用されているが、
もともと明治時代からの要塞地帯であり、
昭和20年8月の終戦まで一般人は立ち入り禁止区域となっていた。

旧・陸軍の弾薬庫跡

旧・陸軍弾薬庫跡の上にある砲台跡

導灯下にある明治時代の火力発電所跡

火力発電所跡の説明板

探照灯台座跡

探照灯台座跡の説明板

台座周囲に刻まれた目標となる方位を表す地名

宮本伊織が建立した宮本武蔵の碑

「 小次郎の眉涼しけれ つばくらめ 」 と書かれた碑

戸ノ上山の下に広がる門司の街並み
この手向山公園内には、明治20年 ( 1887 ) から
明治24年 ( 1891 ) にかけて関門海峡に敵の艦船が侵入した時に
攻撃するための砲台を建設した。
その砲台の構築と共に夜間の敵艦の侵入を把握するために設置されたのが、
探照灯であった。
現在はその台座しか残っていないが、
円形の赤煉瓦の中央にある四角の台座の上に可搬式の90センチの探照灯を置き、
夜間に関門海峡を通る船を照射し、観測所から確認できるようにしていた。
円形上部のセメントの上には目標となる地名が刻まれている。
また、この探照灯へ電気を供給していた場所が、
赤煉瓦で出来た火力発電所である。
この発電所は自家発電装置を内蔵したもので、
( 明治時代は電灯機関舎 ) と呼ばれていた。
ちなみに赤煉瓦には 「 いよ 」 と刻まれ、
愛媛県今治市の白島と同じ愛媛県産のものを使用している。
これは余談であるが、この公園内には
宮本武蔵の養子・宮本伊織が建立した 「 宮本武蔵の碑 」 と
村上元三の 「 小次郎の眉涼しけれ つばくらめ 」 と書かれた小次郎の碑がある。