ゆっくり一人歩き

いわゆる良い物ってどんなものだろう?考えるより、国宝を見るのが早いでしょう!国宝をゆっくり自分の目で見て廻ろう!

ユウレイタケ

2009-04-30 22:47:05 | その他
前回、多田銀山に行ったときに時間が無くて見ていない場所があったことが気になっていたので、昨日、また行ってきました!

行こうとしたのは十六人間歩といわれる所で公開はされていないらしいのですが、大きな坑道跡があり、蛍石と言う紫外線にあてると綺麗に光る鉱物が採集できるそうなのです。

多田銀山の代官所跡から登っていくと最初のうちはハッキリと道があったのですが、ところどころで木や草、落ち葉で道がわからなくなる有り様・・・まぁ、そんなに遠くまでは行かないし、先が見えないほどの藪漕ぎではないので、感を頼りに進んでいくと石の捨てられているズリを見つけることが出来ました。

坑道跡は埋まってしまったのか坑口を見つけることは出来なかったのですが、名前もわからないまま色の付いた石だけ拾ってきました。


↑ブロシャン銅鉱?うすい緑色のところ・・・


↑青鉛鉱?青い色が付いています


↑これが蛍石?紫に色が付いている


↑黄銅鉱?見え難いけど点々とある金属光沢のところ

鉱物については本当にド素人なので間違っていたら教えてくださいww

だ~れもいないところに一人で石を拾っていたのですが、十六人間歩といわれる坑道は落盤で十六人が亡くなったことから名づけられたらしい(しかも、周辺には罪人間歩といわれる罪人に掘らせた坑道も・・・)のでちょっと心細いww・・・暗くなる前に帰ることに・・・

戻る途中の杉?もしくはヒノキ?の林の中にはギンリョウソウが咲いていました!



これってユウレイタケって呼ばれているんです・・・

う~ん・・・薄暗い林の地面から真っ白い花が生えている姿は幽霊そのもの!

早く帰ろう!
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多田銀山

2009-04-21 21:10:47 | その他
先週は多田銀山に行っていました。

豊臣家の埋蔵金が眠っているなどと言われながらも佐渡金山や世界遺産の石見銀山、観光客の多い生野銀山などと比べると都会から近いにも関わらず影の薄い鉱山跡ですが、着いてみると資料館が出来ていて案内板もあるし、小規模ながらもしっかり観光地していました。

まず資料館に行くとこの日はJRのキャンペーン中とのことでボランティアの方に案内をしていてだけました。

資料館で一通りの説明を受けたあとで一時間ほどをかけて一緒に鉱山跡を廻ります。

まずは多田銀山にあった代官所の門です。



今は移築されて民家の門として残っています。人の家の門を撮るのは気が引けますねぇ~^^;

お次は神社!



鉱山の守り神だと思うのですが、覆屋の額には山神宮とあります。



いよいよ坑道へ



多田銀山で唯一入れるのが青木間歩と言われるこの坑道です。



上の青い筋が鉱脈です。

案内はここまでだったのですが、時間があったので他の見所を一人で廻ってみました。



資料館と川を挟んだ場所にある原っぱが代官所のあったところです。

青木間歩からさらに行くと台所間歩と瓢箪間歩と呼ばれるおおきな坑道があります。


↑台所間歩
天下の台所と呼ばれた大阪を潤すほどの産出量があったそうです。


↑瓢箪間歩
秀吉から瓢箪の馬印を賜ったそうです。秀吉が馬に乗ったまま入ったと伝えられているそうですが、入れそうなのは1㍍ほどで秀吉がいくらチビだと言ってもそれ以上は無理ですww


台所間歩と瓢箪間歩の間には小さな坑道口があり、すべて地下でつながっているそうです。

近くに瓢箪間歩の大露頭と呼ばれる鉱脈が露出している場所があり、そこのズリを見ていると青と緑の色をした鉱物を見つけました。たぶん銅の含有鉱物だと思うのですがなかなか綺麗ですよ!





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池田について その4

2009-04-20 22:39:56 | その他
ちょっと間が開きましたが池田の話の続きです。

伊居太神社に怪しい猪名津彦神社があり、そこには古墳から出土した骨が埋まっているとのことでした。

その古墳は今では失われてしまっているのですが、ちゃんと猪名津彦神社としてその痕跡が残っています。

猪名津彦神社の名前は延喜式にも載っているのですが、別の場所の猪名津彦神社が式内社として有力みたいです。

ちなみに伊居太神社では猪名津彦のことをアヤハ姫・クレハ姫を連れてきた阿知使主と同じとしていて、こちらが式内社だとしているそうです。



猪名津彦神社は住宅街の真ん中で太い道路に面していないので土地勘の無い人が行くのは苦労しそうです。



こじんまりした神社で拝殿も狛犬も新しいものでしたが、拝殿の横にひと際目を引く巨石がありました。



ほかにも所々に大きな石があります。



実はこれらの石はここにあった古墳の石室の石だったといわれていて、鉢塚古墳と同時代の古墳がここにあったそうです。

そしてここから出土した人骨を猪名津彦のものとして伊居太神社に祀ってあるのだそうです。

う~ん・・・鉢塚古墳は古墳時代後期のものなので阿知使主とは時代が合わないと思うのですが・・・

池田の歴史がなぜこれほどややこしいくなってしまったか?・・・

それには理由もあります。

それは次に向かった場所に関係があるのです。



池田城です!

私が池田に住んでいた頃はただの原っぱだったのですが今は公園になり天守らしき物まであります。



説明書きにもあるのですが、今の天守は当時を再現したものですらなくww城跡公園には天守が必要だろうとの考えで造られた不思議な天守です・・・



城があった当時に建っていたのは天守というより館に近いもので今では礎石だけが残っています。

この池田城の名前が歴史に出てくるのは織田信長の時代です。

池田城は信長によって攻め滅ぼされ、その後の本願寺攻めの折に信長が陣を張った場所とされています。

ここで信長が指揮を執っていたと思うとなんだか感慨深いものがありますが、悲しい事に信長に攻められた時に池田城のみならず周辺の寺社がことごとく焼かれてしまい、古い資料がなくなってしまったそうなのです。

残念・・・

真実は闇の中・・・



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根来寺 大塔

2009-04-19 21:37:33 | 国宝の建築
友ヶ島からの帰り道にまだ明るかったので時間が間に合わないとは解っていたのですが、根来寺に行きました。

車で進んでいくとまずは大きな門が見えてきました。



やっぱり根来時クラスの大寺になるとこれ位の門がないとさまにならないですよねぇ~と思わず言ってしまうような大きな門です。

ここで車を降りると主要伽藍まではだいぶ歩かないといけないので車で先に進みます。

駐車場に着くと参拝時間は過ぎているものの、かろうじて桜が咲いている時期だったので参拝客もまだ多そうでした。

さっそく国宝の大塔を目指しました。


↑国宝!根来寺大塔!

入り口が閉まっていたのでステンレスの格子の隙間から撮りましたww

やっぱり外からだけでは欲求不満・・・近いうちにまた来ようと思います・・・

隣には重文指定の大伝法堂!



根来寺はご存知の通り!「秀吉の根来攻め」によって殆どの堂宇が焼かれたのですが、大塔と大伝法堂だけが焼け残ったそうです。


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友ヶ島 その2

2009-04-18 20:55:09 | その他
灯台のある場所から少し歩いて行ったのは海軍の聴音所跡!



紀伊水道から進入してくる潜水艦を察知するための施設なのだそうですが、実際に察知することができたのでしょうかねぇ?

中に入ってすぐ右手にあった小さな部屋・・・



どう見てもトイレです!ww

しかも少し臭いww最近使った奴が間違い無くいます!

友ヶ島を散策しているとしょっちゅう何か動物の気配がします・・・はっきりと何がいるのか判らないのですが、テンのような、リスのような動物が林の中を逃げて行くのが見えました。

その中で唯一、カメラに収めることができたのがこれ↓



遠くからこっちの様子を伺っていました。

聴音所跡の次は友ヶ島の最高峰を目指します!



標高119.9m・・・



関空のレーダーらしいです。

山頂付近には友ヶ島で最大の砲台跡である第3砲台跡があります。



二門が一組になっていて四組ほどありました。

一番良く写真に撮られている場所↓もここにあります。



ここでウロチョロしたのですが、ここは迷路そのもの・・・調子に乗って進んでいくと人が来なくなって久しそうな木の生い茂った場所に行き着き、戻れなくなったりしますwwので注意が必要・・・



真っ暗な中を進んでいったのですが、それ以上先には進めませんでした・・・><

当然なのですが、友ヶ島では陸上戦が行われていないので、戦死者も皆無に等しく何も出ませんので暗い場所もビビる必要はありません・・・

時計を見ると15:30の臨時便に間に合いそうだったので船着場まで少し走りました。



桟橋前には砲弾が一つだけ残されていました。



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友ヶ島 その1

2009-04-17 20:27:22 | その他
友ヶ島は古事記のオノコロ島とされることもあるほど歴史の古い島なのですが、古代の遺跡が残っている訳ではないので、今回の目的は主に砲台跡などのいわゆる戦跡の探索です。

映画などのロケ地に使われることもあり一度は行ってみたいと思っていた場所なので淡島神社参拝の後はワクワクしながら船着場に戻りました。

友ヶ島への船は想像以上に小さく見えました。



友ヶ島へ渡る人が集まり始めやがて出航!

すぐ近くに見えている島なので、落ち着く間もなく到着です!



降りると修験者の人たちがいっぱい・・・役行者が修行したことがあるらしく、行場があるそうです。

それにしても、あの船にこんなにたくさん乗れるのでしょうか?・・・見届けたかったのですが、時間が無いので島内探索に出発!

散策コースは大きく分けて西回りと東回りがあります。両方歩いても10㌔程なのですが、時間が無いので今回は砲台跡の多くある西回りをすることにしました。



島内には上のような標識でわかりやすく道案内がされているのですが、いきなりの通行止めで迂回路を歩くようになっており、先が思いやられますww

最初に現れたのが第5砲台跡!



木や草が生い茂っていますが保存状態は良さそうです。

お次は第2砲台跡!



こちらは残念ながら崩れていて立ち入り禁止になっていました。

でもこの砲台は海沿いの見晴らしの良いところにあります。

この日は天気もスゴク良かったのでメチャクチャ気持ち良く、芝生の上でずぅ~と寝っ転がっていたくなるほど、ここは南国です!ww

次は灯台のある第1砲台跡!





円形に囲んである↑ので、ここに砲台があったのでしょう・・・



弾薬庫と思われる建造物は今でも利用されているようで立ち入り禁止でした。



日本最南端?!へっ?!なんだ?

良く読むと、ここに子午線が通っているそうで、子午線の通る陸地はここが最南端なのだそうです。

それにしても、こんな気持ちの良い場所はなかなかありませんよ!

ここから先は山の中なので、休憩するなら先ほどの第2砲台跡かここがお勧めです。
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淡嶋神社

2009-04-16 23:22:37 | 神社
先日、修理に出していたカメラがキッチリ一週間で戻ってきたので、早速、出かけてきました!

行ったのは、どこまで乗っても1000円の高速に関係の無い大都市圏内・・・大阪と和歌山の境!加太の町です!

いつか行こうと決めていた友ヶ島に渡るためにやってきました。

高速を降りてから渋滞に巻き込まれ着いたのは昼前!午後一時の船の出発時間までの待ち時間を利用して近くの淡嶋神社へ!





手水にいたのはカエルでした。

淡嶋神社では蛭子のことをカエルとしているようです。

淡嶋神社といえば有名なのが人形!

所狭しと並べられている光景をテレビなどでよく見ていたのですが、この日は整理された後なのか少々少なめに感じました・・・



うぅ!目が合っちゃいました・・・・><;
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池田について その3

2009-04-15 20:25:38 | その他
古墳時代になると池田にも古墳が造られるようになります。

現在も残っている古墳の中で一番古いと考えられているのが茶臼山古墳です。



竪穴式石室のある前方後円墳で古墳時代前期のものとされています。

山裾の地形を利用して造られていて当時は見晴らしが良く南側の平地が一望できたと思います。

次に古そうなのが娯三堂古墳です。



こちらは五月山の中腹に造られた円墳です。

娯三堂古墳の竪穴式石室は断層によるズレが顕著に見られることで有名なのだそうです。

その次に古いとなると古墳時代後期に造られた二子塚古墳や鉢塚古墳になります。

この頃になると石室は横穴式のものになり、古墳自体も平地に造られています。



鉢塚古墳の石室は発掘されている古墳の中では国内でも最大級のものです。



現在、鉢塚古墳は神社になっていて内部に重文指定の十三重塔や石仏が祭られています。

石棺がないのですが、ここの手水鉢↓が私には石棺の蓋に見えるのです!



どこにもそのようなことは書かれていないのですが、皆さんはどう思います?


そんな事より、池田の古墳を巡ると、ちょうどクレハ姫、アヤハ姫の伝説にあたる時代の古墳時代中期のものが無い事に気付いてしまいます。

しかも茶臼山古墳と娯三堂古墳を比べると明らかに娯三堂古墳が簡略化されており、この地域の首長の勢力の衰退が表れているとされています。

アヤハ姫、クレハ姫伝説はやっぱり後世に持ち込まれた話なのかと思ってしまうのです・・・

それでも無理やり伝説は事実だ!と主張してみましょう!ww

古墳時代中期というのは倭の五王の時代で百舌鳥に巨大な古墳が造られた時期にあたります。大和から百舌鳥周辺に都が移ったとも考えられる時代なのです。もしかすると池田周辺の地域は朝廷の直轄地になり首長がいなくなり古墳が造られなくなったのかもしれません!その直轄地にクレハ姫アヤハ姫が連れて来られたとは考えられないでしょうか?・・・呉服神社に仁徳天皇が祭られているのも理由が付きます。

かなり無理のある話ですけどねww
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池田について その2

2009-04-06 22:40:35 | その他
私が池田に伝わる伝説を少しww信じている理由の一つに、周辺の土地柄があります。

この周辺の土地は大阪市内から見ると一段高くなっていて大阪市内の大部分がまだ海だった頃にすでに陸地が形成されていたようです。

その証拠に伊丹空港の南側からは多くの弥生時代の遺跡が見つかっています。

今回はその遺跡を見学に行きました。

まずは始めて行った岩屋遺跡です。



行ってみて驚きました!

空港の滑走路沿いにスカイパークなる公園(ジェット機のタッチダウンが目の前で見れます!)が出来ていて、めちゃくちゃ綺麗に整備されていました。

肝心の遺跡は写真の通りでガラス張りの中にお愛想程度にあるだけ・・・ここはスカイパークに行ったついでに見るだけで十分でしょう・・・

お次は田能遺跡!



ここは国の史跡にもなっている弥生時代の遺跡で、集落跡や墓が見つかっています。

資料館には発掘された土器や装飾品などが展示されていて、中でも人骨の入った墓の展示は必見だと思います。





高床式倉庫が扉が無くて密閉式だったとは初めて知りました・・・

横に何か吊るしてあると思ったら



カラスが・・・・

しかもプラスティック製!

こんな物がカラス除けになるとは到底思えませんが!?・・・

そんな事はともかくここを見れば猪名川沿いでは弥生時代に既に人が住み集落が出来ていた事がわかります。

邪馬台国の時代はもとより仁徳天皇の時代にこの周辺に多くの人の影があったことは間違いないのです。


田能遺跡に寄ったら近くの有名なスポットへ!



なんと撮っている最中にカメラの液晶が映らなくなってしまった!上の動画は液晶を見れずに感で撮ったもの・・・

すぐに修理に出しました。買ってから一年過ぎていたのですが長期保障に入っていたので助かりました。でも、いつ戻ってくるのやら・・・桜は終わりでしょうねぇ・・・
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池田について その1

2009-04-05 20:56:18 | 歴史
以前に阪急沿線西国七福神巡りをした時に呉服神社に寄りました。

呉服神社は私が生まれ育った池田という町にあり、呉服神社に関わる伝説を池田に住む人たちは子供の頃から教えられてきました。

それは日本書紀などに書かれている呉から来た姫たちの伝説で大まかに言うと

『応神天皇の頃に職工を求めて阿知使主を呉に遣わした。仁徳天皇の時代になって阿知使主が四人の機織姫を連れて戻ってきた。その内のクレハ姫とアヤハ姫が池田に着き、機織の技術を伝えた。』

という話です。

この伝説はクレハ姫の呉服神社だけにまつわる話ではありません!

そこで今回はアヤハ姫の伊居太神社!へ



綾羽(アヤハ)という町の名前にまでなっていて桜の綺麗な五月山公園の隣にあります。

ここにはちょっとあやしいww由緒の為那都比古神社や



なぜこんな所にあるのか不思議な頼光お手植えの松(切り株だけだけど)↓



まであります。

また古い街道沿いには伊居太神社の御旅所の『星の宮』と呼ばれる祠があります。








これら以外にも姫たちが着いたされる唐船ヶ淵や衣を掛けた衣掛け松、染色に使ったとされる染殿井といった伝説にまつわる場所があります。

今では後世になって秦氏がこの地を治めていたときに伝えられた話とされているらしいのですが、子供の頃から聞いていた私は今もこの話を信じていますww

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