広隆寺の近くの蚕ノ社と呼ばれる神社に寄りました。
この神社も広隆寺と同じように秦氏によって造られたそうです。
なぜ国宝でもないこの神社に立ち寄ったのかというとここには三柱鳥居という珍しい鳥居があって、それがオカルト的な推測を呼んでいるからなのです。
どんなものかというと、広隆寺の近くに「いさら井」と書かれた井戸があるので、この鳥居も景教(キリスト教)の影響を受けているとか、鳥居の示す方向に特別な意味があるとかといった類のものです・・・
で、どうこう言う前に行って確かめてみようと・・・
↓蚕ノ社
なかなか綺麗なお社です。この日も人が掃除していました。
↓蚕ノ社拝殿
まずは型どおりにお祈りをしました。
天照御魂というのは天照大神とは違うみたいです。
それでも、延喜式に名神大社として記載され、続日本書紀にも名前がでていることからかなり古い社であることは確かです。
肝心の三柱鳥居はというと拝殿横の池の中にありました。
↓三柱鳥居
池の中といってもこの日は掃除のためか、水が抜いてありました。
この池は「元糺の池」といって年中水が沸いていたそうです。
三柱鳥居を見た私の率直な意見ですが、この鳥居にオカルト的な要素は全くありません!
まず、三柱鳥居はこの神社の主たる信仰の対象ではなく、あくまでも本殿脇にあると言う事です。
確かに珍しい形なんですが、奇妙なことは何も無いのです!
おそらく鳥居に囲まれた所から水が沸いていたのでしょう・・・聖なる池の聖なる水の出口を鳥居で囲んで結界を造っただけのことに見えました。
なぜ四角く取り囲んでいないのか?というと単純に三角形の方が安定するからだと思います。
方角に関しても本殿と同じように普通に南向きに造っています。
三角形だろうが四角形だろうが意味をこじつけようとすれば幾らでも出来るだけでしょう!
この鳥居なんかより、私の興味を惹いたのは下のお稲荷さんです。
写真では解かりにくいかもしれませんが、中には間違いなくお稲荷さんがおられました。
この横にもお稲荷さんの祠が三つ程ありました。
なんで摂社に三つも四つも稲荷神社があるのでしょう?
そもそも稲荷神社とはなんであるのか?どこにでもあるこの神社のことが、いまいちハッキリしていないのです。
伏見稲荷大社は平城京遷都の頃に秦の伊呂巨という人が伊奈利山に三柱の神を祀ったのが始まりとしています。
これがいつ稲荷明神とされるようになったのか?また、狐と関係するのかは解かりません・・・
それ以前に、欽明天皇の時代、今の伏見稲荷の場所に秦の大津父という人がいた事が、日本書紀に書いてあります。
欽明天皇は聖徳太子の祖父にあたり、しきしま天皇とも呼ばれます。
古事記によると奈良にあった師木島大宮を皇居としていたそうです。
読み方こそ違いますが、蚕ノ社の正式な名前はは木島坐天照御魂神社です・・・
広隆寺を造ったのが秦河勝で祀られているのは聖徳太子だし、秦氏の関係ですべて繋がっているような気がします。
大津父という人の名前もすごいでしょ!
大津に住んでいないのに大津父という名前なんです!
しかも、この人は商売で伊勢に行ったとされています。
そうであるなら天照大神を祀るの普通だと思うんですが・・・
時が過ぎて、近江大津宮に遷都をしたのが、中大兄皇子(のちの天智天皇)です。
日本書紀が完成したのは藤原氏の時代で、当然、藤原氏の意向が入っているはずです。
大津父と天智天皇の関係を示唆しているのでしょうか?・・・
天智・天武・持統天皇が産湯を用いたとされるのが三井寺の閼伽井で、三井寺の名前もここからきています。
三井寺といえば前に行った新羅善神堂があります。秦氏は新羅系だという説もうなずけます。
しか~し、天智天皇の時代は新羅と最も関係が悪かった頃の筈です・・・
う~ん・・・何がなんだかわからなくなってしまった!(^^;)
ネットで調べると、こんな話もあります!
江戸時代になり、この木島坐天照御魂神社を再興したのは三井財閥を創った三井氏なんだそうです。
三井氏が藤原氏の系統で、大津の地と関係があり、名前が三井寺から来ているのは周知のことです。
百貨店の三越の屋上には、ここの木島坐天照御魂神社を分霊した三囲神社と稲荷神社があります。
三井氏が商売を始めたのは伊勢街道沿いの松坂だそうです。
三井家は大津父のことを知っていたのでしょうか?