「若い世代のために明け渡したい、道筋がついたところで」と菅首相は約束したと、東京からの第一報としてコロンコ女史は伝える。休日明けの明日のフランクフルト版のフランクフルター・アルゲマイネ紙にはこのように載るだろう。
そして大多数の国民は、危機の真っ只中でのこの権力闘争に批判的に反応していると伝えている。
失脚した小沢が派を上げて企てた党内抗争に乗った形で菅下ろしを企てていた前首相の鳩山は、補正予算後の年内の辞任を確証したとしているが、既に政府筋がこれを否定していると、流石に関西のメディアのように「金は持っているがボンクラ」とか「アホボン」とはFAZは書かないが、前回もあったような「一体私は何だったの?」と呟いたこの不思議な人間の雰囲気をそこはかとなく伝えている。
何を思っていたかは知らないが野党代表自由民主党の谷垣が、茶番劇としているのを伝えて、これまた谷垣の茶番劇顔を披露している ― これが日本人が希求した二大政党制の素顔なのである。
いづれにしても、菅がいつ辞任するかの時間的な枠組みの争いに不信任案否決直後から明け暮れる一方、福島の汚染水は先日来の降雨のために、もはや四五日中にその貯蔵量の限界を迎えるとますます心配になって来ていると伝える。
なるほどあの民主党代議士会の菅の「辞任表明」から鳩山の支持までの情景を観て、さらにその本会議での投票風景を観たならば、それを「日本の政治の妙」と感じるのは甚だ難しく、一般的な国際的なビジネスシーンなどの場面では絶対ありえない脳に蜘蛛が巣食ったような人達の演じる特別な世界と感じるのが普通であろう。道理で、東電や政府のやっていることが普通の人達には一向に飲み込めない筈である。
これをしてフランスの作曲家ピエール・ブーレーズの名言ではないが、「議事堂に火を放ってしまえ」という気持ちになるのが当然であろう。これで菅さんには、あと二十年ほどは最高権力の座を温めて貰わなければいけない。今の状態で一体何処の誰が、火の中の栗どころか福島の核物質を拾おうと思うだろう?
参考:
„Vertrauen“ für Kan im Parlament,, Petra Kolonko, FAZ vom 2.6.2011
次世代にとって途轍もないこと 2011-06-01 | 歴史・時事
そして大多数の国民は、危機の真っ只中でのこの権力闘争に批判的に反応していると伝えている。
失脚した小沢が派を上げて企てた党内抗争に乗った形で菅下ろしを企てていた前首相の鳩山は、補正予算後の年内の辞任を確証したとしているが、既に政府筋がこれを否定していると、流石に関西のメディアのように「金は持っているがボンクラ」とか「アホボン」とはFAZは書かないが、前回もあったような「一体私は何だったの?」と呟いたこの不思議な人間の雰囲気をそこはかとなく伝えている。
何を思っていたかは知らないが野党代表自由民主党の谷垣が、茶番劇としているのを伝えて、これまた谷垣の茶番劇顔を披露している ― これが日本人が希求した二大政党制の素顔なのである。
いづれにしても、菅がいつ辞任するかの時間的な枠組みの争いに不信任案否決直後から明け暮れる一方、福島の汚染水は先日来の降雨のために、もはや四五日中にその貯蔵量の限界を迎えるとますます心配になって来ていると伝える。
なるほどあの民主党代議士会の菅の「辞任表明」から鳩山の支持までの情景を観て、さらにその本会議での投票風景を観たならば、それを「日本の政治の妙」と感じるのは甚だ難しく、一般的な国際的なビジネスシーンなどの場面では絶対ありえない脳に蜘蛛が巣食ったような人達の演じる特別な世界と感じるのが普通であろう。道理で、東電や政府のやっていることが普通の人達には一向に飲み込めない筈である。
これをしてフランスの作曲家ピエール・ブーレーズの名言ではないが、「議事堂に火を放ってしまえ」という気持ちになるのが当然であろう。これで菅さんには、あと二十年ほどは最高権力の座を温めて貰わなければいけない。今の状態で一体何処の誰が、火の中の栗どころか福島の核物質を拾おうと思うだろう?
参考:
„Vertrauen“ für Kan im Parlament,, Petra Kolonko, FAZ vom 2.6.2011
次世代にとって途轍もないこと 2011-06-01 | 歴史・時事